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匂いフェチじゃないんです!#2
果たして喫茶店、『林檎園』は営業していた。茶色い木の扉を開けると、八畳ほどのスペースがある。飴色の木のカウンター。同じく飴色のテーブル。黒い鉄の背もたれに、座るところが籐になった椅子。女主人お手製の、手縫いのクッションが取りつけられている。カウンターには林檎をイメージしたオレンジと緑の丸いランプ。店内はほどよい明るさで、九月の蒸し暑さなんて考えられないほど穏やかでひんやりしている。それも、冷房が効きすぎているというかんじではない。天馬にとって、とても居心地のいい温度、明るさなのだ。
カウンターに向かい合う形で造りつけられたシンクで、白髪の女主人、宮木永恵 がグラスを拭いていた。店内に入ってきた天馬を見て微笑む。色白の頬がピンクに染まった。
「まあ、天馬さん。いらっしゃい」
「こんにちは。今日は休みじゃないんですね」
「台風ですからねえ。朝はこんなに酷くなかったのに。天馬さんは、お仕事帰り?」
「いえ、今日は休みです。飲み会の帰りです」
「そう。その方、飲み友達? お友達を連れてくるなんて珍しいわね。いいわねえ」
孫を出迎えるような宮木に、天馬は微笑んだ。村岡もぺこりと頭を下げる。その頭には黒いサファリハット。耳隠しである。常に持ち歩いているそうだ。尻尾は依然モロ出しである。
天馬が「大丈夫? それ」と言うと、「下半身を見てる人は、あまりいません」という返事だった。おれは靴とか見ちゃいますけどね、と天馬が笑うと顔を強張らせたので、「まあ、今日ひと気ないから大丈夫でしょう」と安心させた。
「素敵な帽子ね」
奥のテーブルについた二人に、水の入ったグラスをサーヴしながら宮木が微笑む。村岡は「ありがとうございます」ときりりとした顔だ。
「すごくハンサムな方。学生さん?」
興味津々の宮木に、村岡はふるふると首を横に振る。
「二十四歳です」
「若いですよね。おれの十九個下」
「まあまあ、じゃあわたしの……いいわね。若いって」
「宮木さんは若いころ、早く歳をとりたかったんでしょう?」
「そうなの。そしていつのまにかおばあちゃんよ。ゆっくりしていってね」
微笑んでまた奥に戻る彼女の後ろ姿をぼーっと見送る村岡だった。
「なんだか可愛らしいおばあさんですね」
「ん、おれが通いはじめた七年前から変わってない」
そんなことを言う村岡は、宮木の佇まいを話題にすることで、「運命の人」といっしょの時間に耐性をつけようとしているかのようだった。
天馬がラミネート加工されたメニューを手渡す。
「なににする? おれはコーヒーにします。慌てて決めなくていいから」
「あ……」
焦ってメニューに目を通す。天馬はのんびりと水を飲んでいる。ほどよく冷えていて、美味い。わざわざミネラルウォーターを使うこだわりっぷりだ。
メニューを天馬に渡して、村岡が言った。
「おれは、カフェオレにします」
「ホット?」
「はい」
「宮木さん、ホットコーヒーとホットのカフェオレお願いします」
わかったわ、ちょっと待っててね、と宮木の声。天馬は椅子の中で脚を伸ばした。胸ポケットを探る。
「煙草、吸ってもいいですか? でも気になるならやめます」
「大丈夫です。吸わないけど、煙草の匂いは好きです。その……残り香程度なら」
「じゃあ、臭かったら言ってくださいね。吸うのやめますから」
煙草を咥え、ライターで火をつける。深く吸って一服。ニコチンが行き渡るにつれて、気持ちがほぐれてきた。酔いはとっくに醒めていた。
「そっか、おれの運命の人って、煙草吸う人なのか。じゃあ、これから慣れないと」
ぶつぶつつぶやく村岡。これは早く話を進めないと、と天馬は思った。
「それで、村岡さん。……運命の人っていうのと、呪いって?」
「あ……。はい。その前に、敬語じゃなくてかまいません。おれ、年下ですから」
なんか申し訳なくて、と言う村岡に、妙に礼儀正しい子だなと思う。抱きついて運命の人発言だとか、尻の匂いがいい匂いだとか、童貞をもらってほしいだとか突拍子もないことを言うわりに、常識的で堅苦しいところがあるようだ。
「そう? じゃあタメ口きくけどいいかな? べつに敬語でも、申し訳ないなんて思う必要はないけど」
「いえ。タメ口でお願いします。その、緊張するので」
「そうか。わかった」
じゃあ、と灰を灰皿に捨て、また口に咥える。オレンジの灯りの下で、紫煙が流れる。
「村岡さん。説明してくれないか?」
村岡はこくりとうなずいた。
「おれは、生まれる前に『魔女』にある『呪い』を掛けられたんです。それで、運命の人に会うと、その人のケツから凄くいい匂いが漂ってきて……無性に嗅ぎたくなってしまって。それで、おれが匂いを嗅いでムラムラしたら犬の耳と尻尾が生えるし、犬に変身することもあるんです」
「……はあ」
非常に荒唐無稽な話である。にわかには信じられない。しかし。サファリハットの下で、むりやり詰めこまれた耳がひくひくと動いているらしく、さっきから帽子がぴくぴく動いている。尻尾も立っている。
「そうか。呪いか……。『魔女』っていうのは?」
「当時、『魔女』はおれの父を非常に愛していまして。父は結婚していて、母のお腹にはおれがいました。父がなびかなかなかったので、腹いせだそうです」
「勝気だな」
そんな感想しか出てこないので我ながら驚いた。もっとほかにあるだろうと思うが、話がぶっ飛び過ぎて「そうなのか」くらいの感想しか捻出できない。
「それで、おれがきみの運命の人? ケツ、いい匂いがするのか?」
そんな匂いを垂れ流しているとしたら、ちょっと嫌だ。村岡は天馬の心の声に応えるように言った。
「ケツの匂いはおれにしかわかりません。……おれにも、以前『運命の人』がいました。その人からもいい匂いがしたし、その人の匂いを嗅いでムラムラしたら、おれも耳と尻尾が生えたり、犬になったりしてた。ただ……」
村岡はうつむいて唇を噛んだ。
「その人、おれを捨てて、もうどこかへ行ってしまいました」
「運命の人なのに?」
「運命って、簡単に変わるんですね」
つらそうな顔に、天馬の胸がつきんと痛んだ。
「はい、お待たせ」
宮木がコーヒーとカフェオレを運んできた。カップとソーサーは青でサンザシを描いたバーレイのものだ。ほのぼのと湯気が立っている。
「ごゆっくり」
そう言って、話の邪魔をしないようにとシンクの前に引っ込む宮木。天馬はふうっと息を吐き、煙草を咥えた。
「それで……」
紫煙を吐きつつ声を潜める。
「童貞をもらってほしい、っていうのは?」
村岡は真っ赤になった。
「その……二十五歳までに運命の人に童貞をもらってもらえないと、犬になって死ぬまでそのままなんだそうです。そういう呪いで。だから、おれも必死で運命の相手を探してきました。でも……」
「でも?」
「おれ、実はバリネコなんです」
「バリネコ?」
「せ、セックスのときに、女役なんですけど、誰が相手でもいつでも女役なんです。それでずっと生きてきた。だから、ずっと童貞で。タチ……男役にはなれないと思ってた」
天馬の目を見つめる。茶色い目がうるんでいた。ランプの明かりで、星を投げ込んだようにきらきらと光っている。
「あの……お名前は、天馬さんとおっしゃるんですか?」
「ああ。天馬了介」
「天馬了介さん……」
噛みしめるように繰り返した。
「あの、天馬さんって、すごく逞しいし背もおれより高いし、落ち着いてて包容力ありそうで、どう見てもタチってかんじですよね」
「うん、というかおれノンケだから、ずっと男役なんだけど」
「で、ですよね……。で、でも優しそうだし包容力ありそうだから、あの、もしかしてこんな頼りないおれの童貞も、も、もらっていただけるのではないか、と……」
期待してしまったのですが……と村岡の声が尻すぼみになる。ここはいっそオーバーにと、天馬は露骨に困った顔をしてみせた。
「どれだけ包容力ありそうに見えてるかはわからないけど、おれ、そんな器ないよ。だってつまり、おれのケツを掘るってことだよね?」
若干大きくなった声に焦り、村岡は首を伸ばしてシンクの前に立つ宮木の様子をうかがった。なにか、料理を作っているらしい。声が聞こえていなかったようでほっとする。
「ケツを掘られるのはちょっと」
「ですよね」
うなずき、目を伏せた。あ、と天馬は思う。そうやって目を伏せていると、なんだかこの年下の青年は匂い立つような色香を発しているのだ。透明感がある、というのか。肌が白いわけでもないのに不思議だった。
男同士でもわかる色気ってあるよな、と天馬はひとしきり感心する。村岡がじっと見つめてくる。
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