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第一章 第2話
そこはありふれた雑居ビルの4階にあるありふれたバーだった。木の扉を開けるとカウンターがあり、さらに奥にはボックス席がある。ただ、違いは、何も知らずに入って来た女性の客――それがどんなに若くて美人でも――に皆が関心を寄せない点に有った。不運な女性達は一杯のカクテルをそそくさと呑んで退散し、二度とやって来ない。
つまりはそういう場所だった。
木の扉を開けると、顔見知りのバーデンが笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら祐樹のボトルを棚から下ろす。
カウンター席に座り、予め用意してあったナッツを齧った。思いついてバーデンに告げる。
「今日はロックで」
「珍しいですね。いつもは水割りでいらっしゃるのに」
酒には強い方だが、酒量を過ごすと明日の勤務に支障をきたす。そう思っていつもは水割りだったが、今日はいっその事ストレートで呑みたい気分だった。
「あ、煙草置いてあるよね」
その言葉にもバーデンは意外そうな顔をしたが、客商売の常だろう、何も言わず、祐樹の選んだ煙草のパッケージを差し出した。飲み物が出て来ると、煙草を銜えた。バーデンはライターで火を点けてくれる。ニコチンを摂取して肺から身体までがじんわりとしてくるのが分かる。ロックで呑んだウイスキーも良い感じに身体と脳を弛緩してくれる。
「今日いつもと違う、何かあったのか?」
いつの間にか隣に座った常連客が聞いて来た。此処では常連にならないと相手の名前や職業などは明かされない。店側もこの店の特殊性に配慮し、余計なことは一切喋らない。
アルコールとニコチンが回った頭で考える。
相手の名前と職業を。ああ、弁護士だったなと思い出す。年の頃は40代だろうか。医療訴訟も医師会側で依頼した弁護士だ。つまりは医師の世界の身内まではいかないが親戚のようなものだ。おまけに守秘義務も心得ている。愚痴を零すにはうってつけの相手だった。以前、ウチの大学の訴訟代理人を勤め勝訴判決を勝ち取ってくれたこともある。
「ここだけの話ってことで」
幾分声を低めて言うと、頼もしげに頷いた。
「…ウチの佐々木教授が退官されるってことは知っていますよね。その後任は絶対黒木先生だと踏んでいたのに、今日、晴天の霹靂 って感じで人事が発表されたんですよ」
「ほう…煙草、いいかい」
眼鏡の下の目が一瞬鋭くなった。
「もちろん。それで、後任教授は誰だと思います」
彼は煙草の煙をゆっくり吐き出すまで口を利かなかった。医師の世界に詳しい人間だ。頭の中で色々と人名が浮かんでいるのだろう。
「君の病院の看板は心臓バイバス術だろう。佐々木教授の後任は黒木先生しか考えられないのだが…。彼には実績も有る上に他大学病院でその手術を得意にしている教授は知る限りでは居ない」
「僕もそう思っていました。しかし、黒木先生よりも実績の有る人間を見つけたのが、齋藤医学部長です」
「ほほう」
眼鏡の奥の目がさらに鋭くなり、バーデンに命じる。
「私のレミーXO、こちらへ持って来てくれないか。グラスは二つ」
バーデンが用意する間、つかの間の沈黙が落ちた。
祐樹はこのゲイの集まる店が気に入っている。元々、男性に強く惹かれる性質だったが、女性が抱けないというわけでもない。ただ、女性とそういう関係になり、祐樹が職業を知らせると彼女達の目の色が変わることが多く、祐樹の顔やスタイルだけで付いて来た女性がもっと違った期待を寄せてくるのが分かる。それが煩わしかった。この店にも熱っぽい目で祐樹を見ている客が居ることは承知しているが、寝たからと言って過剰な期待はしない。そのドライさが気に入っている。たまに地雷を踏むことも有るが「結婚して責任取って」と言われないだけマシだ。
「で、その齋藤先生が見出されたのは誰かね」
ブランデーのグラスを差し出して聞いて来た。
「先生も多分ご存知だと思いますよ。香川聡先生です」
「あの、国際雑誌の名医として良く名前の載る先生か」
「その通りです」
そう言った途端、彼の目は大きく見開かれた。
「だが、それでは医局の混乱は避けられないだろう。齋藤先生の思い通りに行くかどうかは分からないな」
「そうでしょうか。実績も充分な人材ですよ」
「それとこれとは別のことだ。まず、黒木先生が黙って引き下がるとは思えない」
引き下がると思っていた。が、外部から見ればまた違った視点が有るようだ。
「お、二人で逢引の相談かね」
大分出来上がった別の常連客が声をかけて来る。逢引とはまた古い言葉を持ち出す・・・と笑いを浮かべた。
固い話はもうこれくらいにして、今日は皆で楽しく盛り上がろうと思った。
「違いますよ。何ならそっちに二人で移りましょうか」
苦笑して言うと、弁護士も祐樹の意図を察したのだろう。二人して一番盛り上がっているテーブル席に移った。
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