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第二章 第11話
深昏睡に入った患者は身動き出来ない。足持ちが必要とされるのは蘇生術の時、心臓に電気カウンターを当てるくらいだろう。よほどの事態が起こらなければの話だったが。
祐樹は周囲を見回す気持ちの余裕が出来た。フト見上げると帰国後初めての香川教授の手術ということも有ってか、手術室の上階に設置されている「関係者以外立ち入り禁止」のガラス張りの手術見学室兼モニタールームは満員御礼の様子だった。
最前列には齋藤医学部長の姿も見える。他の医局の教授陣も齋藤医学部長の回りを取り囲むように座っている。その後ろは、准教授クラスだろう。
手術ではこれほどの人数が集まった例は祐樹が記憶している限り絶無だ。
ちらっと見てから、手術の見学に没頭した。自分は足を押さえていればいいので、頭脳労働はない。
香川教授のしなやかで強靭な指先は信じられないほど、緻密かつ機敏に動く。一番驚いたのは彼が汗をかいていないことだ。クーパーなどの手術用道具を使いこなすには体力も必要だ。それなのに、彼の端整な顔は真剣さが宿るのみだった。
胃切開をし、止血用の縫合糸で縛った後、素早く血管取り出しをする。その後太腿の血管も同じように取り出した。
心臓の患部に必要な太い血管を切除したというのに、出血は全くない。
まさに神業だ・・・、と香川教授に対する個人的な反感よりも畏敬の念を強めた。あくまでも手術の腕前だけだが・・・。
「心臓に繋げる」
必要最低限のことを言って、一度患者の体内から取り出された冠動脈の狭窄した部分をまたいで、胃や太腿から取った血管を縫合していく。
「完了」
低く呟いた香川教授は人工心肺を外させ、心臓を元の位置に戻し、手際が良いという言葉では表現出来ないほどの手技で縫合する。
縫合が終ると、香川教授の質問が飛んだ。
「体温は」
「36℃ジャストです」
機械係の看護師が答える。
「それなら電気カウンターは必要ないな」
そう言っていると、患者の体内に貼り付けられた心臓モニタリング装置が、正常な心拍数と波状を示す緑色で表示された。
手術室に賞賛の溜め息が充満した。
祐樹が時計で確かめると、2時間47分が経過していた。
――大言壮語ではなかったのだな――
そう思い香川教授の方を見ると、少し疲れた表情だったが満足げな顔と柔和な瞳が手術用のアイマスク越しに見えた。
――そういう目をしていると綺麗なのに――
ふとそう思った。口元は手術用のマスクをしているので確かめることは出来ないが、きっと形の良い唇は笑みの形に弛んでいるはずだ。その顔を見たいな・・・と唐突に思ったことに自分でもギョッとした。
その時、香川教授がこちらを見た。考えていることが不埒な考えだったので、慌てて目を逸らし、手術成功を寿ぐように頭を下げた。頭を下げると当然、相手の表情は見えなくなる。顔を上げるともう、香川教授はこちらを見てはいなかった。当然だろう。
患者の容態を確かめていた黒木准教授が香川教授に囁いた。香川先生が頷く。
「CCUに搬送」
黒木准教授の指示で看護師がストレッチャーに患者を移して運び去っていった。
「おめでとうございます」
手術室は拍手で包まれた。
「いや、これも優秀なスタッフの連携の賜物だ。これからも宜しく頼む」
そう言うと、手術室を後にした。
皆は、手術スタッフルームで手術着から白衣に着替える。柏木先生が話しかけて来た。
「凄いよな・・・リスク用のマニュアルを暗記した自分が間抜けに思える。ゴット・ハンドの異名を取るだけのことはあるな。あれだけの手技を持ちながらもリスクマネンジメントは欠かさない。素晴らしい」
「・・・ああ、手術は素晴らしかったですね・・・」
「お前、疲れた顔をしているぞ。まるでお前が執刀したような感じだな・・・」
世界でトップクラスの手技を間近に見ることが出来て興奮している柏木先生に、祐樹はツイ言ってしまった。
「香川教授に命令されました。当分当直は入っていないから、夜は緊急救命室に行けと……」
柏木先生は不審そうに眉をしかめた。
「緊急外来はウチの医局ではないから香川教授ではなく、緊急外来北教授の指揮下にある。
北教授は頑固者だ。おいそれと、しかも孫ほども歳の離れた香川教授の頼みは快諾しないはずだが・・・。
ただな、香川……教授は、昔から本音は言わないタイプなんだ。医学生だった時もそうだった。だから何か目的があるのかもしれない。
北教授の了解が取れれば、当分の間、地獄の緊急外来勤務頑張ってくれ。まあ、取れないとは思うが」
励ますように肩を叩いて柏木先生は立ち去った。
北教授は確かに頑固だとの噂がある。しかし、香川教授のバックには齋藤医学部長が控えている。この際、北教授が縄張り意識を張り通してくれれば・・・と密かに祈ってしまう。
手術を目の当たりにした結果、少しは香川教授を見直す気になったが、これからの自分が緊急外来、つまり救急救命室に夜勤で入ると決まったら、また違った気分になるだろう。
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