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第二章 第14話

 駆け足で病院に戻りながら阿部師長は息も乱さず言った。 「先生は医師だから、本来は先生の指示を仰ぐのが筋なのは分かっている。でも、救急外来だけは別。北教授の指示も取り付け済みなの。あの室内に入ったら私の指示通りにして頂きます」 「分かりました」  さっきとはうって変わって厳しい顔つきと口調で断言された。  学生だった頃の実習以来緊急外来は初めてなので、言われなくてもそうする積りだったが。  祐樹も体力は27歳にしては標準以上に有ると自惚れていたが、阿部師長の迅速な走りは自分のそれより上回る。10歳以上の年齢の開きがあると踏んでいたのだが。  緊急外来は予想以上に体力を使うらしい。一刻を争う事態では当たり前のことだ。 「患者の容態は?」  室内に入ると阿部士長が鋭い声で看護士に聞いた。 「DOAです。7階から投身自殺」 「心臓停止は何分間?」  報告していた看護士はちらりと祐樹を見て目を見開いたが、阿部看護士の質問攻めに視線を戻す。 「3分です」 「なら、いけるかも」 「心臓カウンターお願いします」  運ばれて来た男性患者の服を医療用ハサミで素早く切り取りながら阿部師長が祐樹に言った。  7階からの落下は頭から落ちてなくとも生存率は低い。見たところ足から落下したようだが。 「血流、下半身カット。同時に人工呼吸器挿入」  その声に先ほど報告していた看護師が下半身の血流を止める用具を装着する。これも40分がリミットだった・・・ハズだ。 「カウンター行きます」  祐樹が電気ショックを与える。患者は感電のショックで身体を弓なりに反らせるが、阿部師長が手早く取り付けた心臓のパルスを測定する機械は平坦なままだった。 「仕方ない。開胸して直接マッサージ。田中先生、開胸お願いっ」  丁寧語が消えているのはそれだけ切迫しているということだ。先ほどの看護士が消毒用のイソジンを手際よく塗布していく。  あらかじめ用意されていたメスを取り、心臓を傷つけないように、かつ素早くメスを入れる。 「生食――潤滑用の水だ――用意」  心臓が見えると、阿部士長は祐樹が開いた心臓をマニュアル通りに手でマッサージしていく。 「心臓、動き始めました」  その一言で動作を止めた阿部看護師長は、モニターを見て緑色の波形が規則正しく並んでいるのを確認した。呼吸も人工呼吸器を借りているとはいえ安定している。 「蘇生術完了。CTスキャンで下半身の状態を確認」  ほっと息をついた祐樹だった。  阿部師長は心なしか安堵の表情だったが。 「田中先生、少しいいかしら」 「はい」  歩き出す彼女に着いていくと、彼女専用の個室らしかった。これだけ優遇されているナースも珍しい。一応ヒエラルキーが上の祐樹でも個室は与えられていない。  空気清浄機が二台も取り付けられている。煙草対策だろう。長椅子と普通の椅子があり、長椅子にはきちんと畳まれた毛布が置いてあった。  煙草に火を点けた阿部師長は笑顔を向けた。 「いきなり救急病棟に来てパニックにならなかった先生も珍しいわ。普通なら血や内臓の臭いとか、処置室の床が血だらけなのを見て吐く先生も多いのだけれども・・・」 「いえ、どうも私は鈍いようでして・・・それに馴染みのある心臓ですから、今回は」  確かに、一回一回血を洗い流す、なじみの有る手術室とは違い野戦病院のような救急治療室を見て驚かなかったと言えば嘘になるが、自分はどうやら順応力は高そうだ。  今回は自分の専門だったが、他の症例も阿部師長の指揮下なら上手くこなせそうだと思う。 「そうね。メス捌きは流石。ただね、開胸部分が広すぎた。マニュアル通りに開胸したでしょ?違う?」 「違いません」 「外科治療は健康な人から見れば、人工的に怪我をさせているようなものなの。それは分かるでしょ。医師がメスを使えば医療行為だけれども、医師免許を持ってない人がすればそれは傷害罪・・・。  開胸しての心臓マッサージは最後の手段で、それしか助かる道がないからやむを得ずしているの。  患者さんの回復を考えると、怪我は小さい方がマシ。だから、担当する看護師なり医師なりの手の大きさを配慮の上どれだけ切るか決めるのが現場の鉄則」  成る程な・・・と思った。  激務なのは怨めしいが学ぶことは多そうだ。 「CTスキャンの結果が返って来ました」  看護師の声が響く。 「出番だわ」  阿部師長はそう言って慌しく部屋から飛び出す。慌てて祐樹も後を追った。

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