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第二章 第18話

「教授総回診」それは、大学病院が独立医療法人になる(つまりは、制度改革を病院単位ですることが出来た)時に、廃止した大学病院も有ると聞く。が、ウチの大学病院では生き残っている。教授を先頭にして――まるでかつての大名行列のように――病棟を漏れなく診察する制度だ。  存続は患者の要望でもあった。  悪性新生物(癌)の患者や祐樹の専門の心臓外科は「患者の命の重さを患者自身がヒシヒシと感じている。それを偉い教授が見てくれると幾分か心に救いが生まれる」という患者からのたっての望みに応えたわけだ。  実は香川教授のように実力で教授の地位を獲得したケースは稀で、大体が大学内の政治で決まる。幾ら名医でも政治力がなければ教授にはなれない。政治力や権勢欲が強く実力が准教授以下という教授はゴマンと居る。が、それは患者の大半が知らない。知らぬが仏とはこのことかと思う。  祐樹のような下っ端の医師はデジタル腕時計を持っている。こちらの方が時間は分かりやすいので。  睡眠時間累計3時間の祐樹は教授総回診まであと5分しかないことに気付く。  特診患者は差額ベッドのある最上階に入院しているのだ。ちなみに病室には応接セットが置いてあったり、ホテルのスイートのように二部屋もある病室も有ったりする。そこに当然入院しているわけで、祐樹の居る一階の救急治療室から最上階まで階段で走らなければならない。それでなくても香川教授に睨まれている。遅刻は厳禁だ。だが、睡眠不足と、あまりの激務で夜食は食べられなかったし、朝食も食べ損ねた。  階段を思い切り走ると、数分で目眩がした。教授以外の医師や看護士はエレベーターから教授が1人降りていらっしゃるのを待つのが決まりだ。  三階まで必死で階段を上るが限界だった。やむなく壁にもたれて口から出そうな心臓をなだめ、呼吸を整える。 ――完全に遅刻だ――と昨夜の激務のせいでいつもより回転が遅い頭で考えていた。  総回診、3分前というデジタル表示が情け容赦なく目に飛び込んで来る。 「田中君、お早う」  祐樹にはのんびりしたと感じられる声がした。良く見ると、黒木准教授だった。  息を整えてから何故黒木准教授が三階に?と思い、聞いてみた。 「ああ、君は医局には居なかったから知らないのか。香川教授のご意見でね、重篤な患者の集まっている三階から総回診を始めるそうだ」 ――お金持ちの相手が最重要課題だと思っていたのだが、違うのだな―― 「それと、田中君、僕はこの病院に残ることにしたよ。香川先生の第一助手として自分の腕を磨きたいから」 「そうですか」  これ以上話している時間はない。  回診一分前に非常口を開けて香川教授待ちの研修医達の中紛れ込めた。夜勤の件は皆知っているのだろう。気の毒そうな顔を浮かべて場所を空けてくれる。  黒木准教授はエレベーターの開閉口の前に辿り着くことに成功したようだ。  皆が皆、自分の担当患者の紙のカルテを持っている。今は、紙のカルテとパソコン上のカルテの二種類が存在する。病状変化や投薬記録などは電子カルテの方が詳しいが、セキュリティ上の問題もあり、電子カルテに全部移行するのはまだまだ先だろう。  エレベーターが開き、香川教授の端整な姿が現れた。 「香川教授の総回診です」  病院の事務員の中で一番声の綺麗な女性のアナウンスが入る。それを合図に香川教授は動き出した。きちんとプレスされた純白の白衣が彼のキビキビした歩き方のせいで揺れるのを遠くから眺めていた。  フト、足も細くて長いのだな…との観察結果が寝不足で散漫になった頭にインプットされる。黒木准教授と長岡先生が直ぐ後に続く。  自分は後ろをついて行くだけだ。しかもかなり距離が有る。戦国時代の大名に付き従う足軽の気分だった。または、映画スターと売れない俳優が揃ってパーティ会場に入って行く…そして、スターには人が集まり、フラッシュが焚かれるが、無名俳優は誰も気に留めない…。そんな感じだろうか…。    患者たちは香川教授を見ると、まるで神様か仏様に会ったような安堵の表情を浮かべた。  祐樹は密かに香川教授の若さが患者を不安がらせてクレームがつくのでは?と意地の悪いことを考えていたが、患者は一日ベッドにいるので週刊誌や新聞で香川教授の華々しい経歴を皆が知っているようだった。  強度の狭心症で手術待ちの62歳の女性患者は香川教授を見て「南無阿弥陀仏」を唱えているのが幽かに聞こえて来る。  その香川教授に寄り添っているのが長岡先生だ。  何故か無性に見たくなくなり視線を逸らす。煙草を吸いたい気分に陥る。病院内に居る時は煙草のことはすっかり忘れているというのに。  先ほど念仏を唱えていた女性患者の担当医に香川教授は何かを尋ねている。彼女の念仏の声は大きかったので祐樹がいる場所まで聞こえたが、香川教授と担当医の話は聞こえない。もともと医師は職業柄声が小さい。  その後、女性患者に向かって香川教授は慈愛に満ちた微笑を浮かべ長い間話している。佐々木先生も良心的な教授だったが、患者と話すのは長くて十分程度だった。香川教授はそれよりも長いような気がする。推定、18分。次は時間を計ってみようと思った。  今は雲の上の存在で近寄ることが出来ない。  この病室には祐樹が担当医になっている患者が居る。その時には傍に行けるだろう。  何となく楽しみにしている自分に驚いた。  何を言われるかはかなり不安だが。

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