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第二章 第20話

 慌てて自分の弱気な気持ちを打ち消す。折角の難関を潜り抜けて憧れの心臓外科医として大学――しかも母校――に籍を置いているからには、最新の手術方法を会得したい。  香川教授は確かに性格的には合わないかもしれないが、世界でもトップクラスの術技の持ち主だ。その教授の元で学ぶことが出来るのは幸運以外の何者でもない。  もう少し当りがソフトならば言うことはないのに…とつかぬ事を考えてしまう。  あれだけの好みの顔と身体、尊敬出来る仕事内容と三拍子揃っている人間はそうは居ない。というか、お目にかかったことはない。  指示された時間通りにカンファレンスルームに向かう。連日、救急救命室勤務で夜勤をこなしてから通常業務をしているため、ほとんどまともに寝ていない祐樹は、ふらふらしながら席に着いた。同僚の柏木先生が心配そうに囁く。 「大丈夫か?とても疲れた顔をしているぞ。寝ていないのは一目瞭然だが、食事はきちんと摂っているのか?」  そう聞かれて、自分の食事内容を思い出す。朝はぎりぎりまで寝ているか、緊急患者の処置で走り回っているかのどちらかだ。コンビニで大量に購入しているバランス栄養食とコーヒーが関の山だ。それ以外では患者さんからの差し入れのクッキーや洋菓子などで誤魔化している。昼食の時間は纏まって取れるため、なるべく栄養のバランスの良い店に行くか、病院内部の食堂で済ませている。夜は救急救命室の仕事に早く行かなければならないので朝食と同じだった。  自分が美食家でなかったことはしみじみ有り難いと思うが、栄養のバランスからすると最悪だ。助手の山本センセのようにメタボにはなりたくない――といっても最近、診察室にある体重計で体重だけ(体脂肪を計る機械はなかった)測定すると3キロ痩せていた。  これだけバタバタと走り回れば痩せもするだろう…と思う。 「食べている時間がないですね」  正直に申告する。 「土日は通常手術はないから、どこかに食事でも行かないか」  有り難い誘いだったが、体力的に限界な今、自宅で寝ていたいのが本音だった。曖昧に頷く。  扉が開いて、山本センセが入ってくる。彼も心なしか顔色が冴えない。  ほとんど同時に、香川教授・黒木准教授、そして長岡先生が入出して来た。  心臓外科のスタッフは皆揃っている。 「カンファレンスを行う。今から配布する書類を見てくれ給え」  そう言うと、看護士に指示して書類を配布させた。  自分に配られた紙には「部外秘」と仰々しく書いてあった。  書類には、外科に入院している患者――要するに、手術でしか治る見込みが薄いと内科で判断された人達だ――の名前と病室が列挙され、番号と記号が併記されている。  自分の患者の名前は当たり前だが目に留まりやすい。祐樹の担当患者は今のところ小倉さんだけだ。彼女の名前は5番目にあった。記号は他の患者には打たれているのに彼女のところは空白だ。 ――この番号と記号は何だろう――  疑問を抱いていると、理知的かつ怜悧な声で香川教授が発言する。 「手元の書類は手術の順番だ。記号は手術前や後に気をつけなければならないことを纏めてみた。今日の総回診で診た私の所見と黒木准教授と長岡先生の意見を参考にしてリストを作成した。  順番が若い方が早く手術をしなければならない患者だと判断した」  室内がざわめく。特診患者と一般患者の区別がされていなかったので。 ――この教授は学内政治には興味がないのかも知れない――  そう思った。齋藤医学部長の意向は特診患者優遇のハズだ。それが見事なまでに無視されている。1番~3番は3階の患者で、4番――香川教授は縁起担ぎをしないらしい――がやっと5階の特診患者という体たらくだ。 「5番の患者については、担当医からもう少し詳しい話を聞きたいので、教授室に来るように。手術は一日一件から二件。大変だとは思うが、我々が手をこまねいている間に救える命も救えなくなる。着任後最初の手術のようにリスクマネンジメントは完璧に行う。救える命を救ってこそ我々の存在意義がある。そこを周知徹底して各自の業務に励むように。田中君は直ぐに教授室に来給え。以上」  いつもよりももっと厳しいの香川教授の視線を受け止め、諦めた視線を返す。  いよいよ、嫌味か、最悪の場合はつるし上げが始まるのかと思った。

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