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第二章 第23話
自分の医局に戻るために廊下を歩いていると、フト奇妙なことに思い至った。
最近は「個人情報保護法」のせいで同僚などの携帯番号が一覧として張り出されてはいないが、上司である香川教授と黒木准教授は責任者として医局所属の携帯番号一覧表を持っている。
なので、祐樹の携帯番号も香川教授は知っていたハズなのだ。
何しろ、勤務先が勤務先なので天災や重大な事故が近くで起こった場合、直ぐに駆けつける必要があるのだから携帯電話の連絡網は必需品だ。
それにも関わらず、直接携帯の番号を聞くとは…。しかも結婚前の一番楽しくかつ忙しいであろう時期に。
良く分からない行動だった。
外科医にも色々居て、手術は几帳面だが、事務などはいい加減な人間も多い。が、香川教授の部屋を見る限り性格も几帳面のようだ。まぁ、教授には秘書が付くのが決まりなので、その秘書が几帳面なのかもしれないが…。
とにかく電話連絡網の紙片をなくしたとは考えにくい。
ならば、直接聞く必要性は全くなかったハズなのに…。しかも普段のクールな表情を崩してまで。
これで出会いがゲイバーだったらある意味、意思表示だろうが、場所は勤務先。しかも相手は同性だ。香川教授は長岡先生と結婚するだろうから、同性愛者とは考えづらい。
ゲイバーでは祐樹自信モテる自覚はある。
しかし、しょせんは世間の常識からすればマイノリティな人種だ。そう簡単に居るわけもない。
ゲイバーなどの出会いでは、携帯の番号を聞くより先に、口説きに入るのが普通だった。
祐樹は自分から告白したことはない。ことごとく告白されて付き合うというパターンだった。
しかも男女間の恋愛と違うのは会った瞬間とか、少なくとも二回目くらいに告白が有って、好みなら付き合ったし、好みでなかったら断るだけだ。
祐樹は「グレイス」しかゲイバーには行ったことはないが、ゲイはほとんどがそのパターンだと聞いたことがある。男女間のようなまどろっこしい手順は省略されるのが普通だと、顔も覚えてはいないが昔付き合ったことのあるカレに聞いたことがある。
香川教授が何を考えているのか全く分からない。
そんなことを考えたのもつかの間で、昼間の心臓外科医としての仕事をするために医局へ帰った。仕事上、緊張を強いられるので他のことは考えられなかった。
つつがなく診療は終わり、休憩してからいつものように緊急外来に行く。
こちらは相変わらず戦場のようだった。
今回はタンクローリーと軽自動車の対面接触事故で、軽自動車を運転していた男性患者がほとんどDOA――死亡してから病院到着――状態だった。ちょうど搬送されて診察台に横たわった時に祐樹が診療室に出勤(?)した時だった。
阿部師長の指示が飛ぶ。
「田中先生、開胸して!」
阿部士師長の手の大きさに合わせてメスを入れた。そんな祐樹を押しのける勢いで阿部師長が開胸マッサージに取り掛かっている。
もう慣れてしまったが、緊急救命室は看護師(もちろんベテランに限られるが)の指示で医師が動くことが多い。祐樹も自分の医局ではメスを握れる身分ではない。それに比べて阿部師長はここに実力で君臨している。
「田中先生、肺に肋骨が突き刺さっている。取って」
阿部師長の腹心の看護師からの指示が来た。この部屋には他にも医師は居るが、ここに来てしばらくしてからはメスを使う役目は祐樹に名指しで注文が来るようになっていた。
いつかは、阿部士長が「田中先生のメスが一番的確」と褒めてくれていたのでそのせいかと思うが。他の医師の場合、言葉は悪いが、看護士師でも出来る仕事を割り当てられていることが多い。
頭蓋骨陥没患者の処置まで祐樹に回ってくることも稀ではない。医師は看護師業務をすることに何の法律的問題もないが、看護士が医師の仕事をするのはまずい。折衷案としてこの部屋では阿部師長の指示通りに医師が動く感じだった。
当面の自分の仕事を黙々とこなして、無事終った。安堵し、次の仕事がないかと辺りを見回すと、阿部師長が勝ち戦を分かち合う戦友のように見ていた。彼女の方も成功したようだった。
「蘇生してくれた。これでCTに回せる」
そう言った彼女のナース服は血まみれだった。さすがに「ブラッディ・エンジェル」の異名に恥じない仕事振りだった。
「一服したいから付き合って」
そう言われて、彼女の個室に連れて行かれた。彼女が満足そうに紫煙を吐き出すのを見て、祐樹も吸いたくなった。一言断ってから煙草を取り出す。
「田中先生のメス捌きは、冴えているわね。香川先生も冴えていたけど…ちょっと雰囲気が違うかな?田中先生のメス捌きは秀才型で、香川先生のは天才型みたいね」
いきなり香川教授の名前が出て驚いた。
「ご存知なんですか?ウチの教授」
彼女は笑って言った。
「私がここに何年居ると思っているの?医学部の学生だった香川先生が勉強目的でここに来た時から知っているのよ。
今は教授になったのよね。天才外科医として今ではこの病院で知らない人は居ないでしょうけれど…。確かに昔からメス捌きは物凄く上手だった。
今の手術振りは知らないけれど。どれだけ上達したのかしらね。楽しみだわ。しかもあんなにも男前だし。あ、先生も男前だけれど…」
香川教授は祐樹も男前だと思うが、自分への賛辞はお世辞だろう。聞き流して話を進めた。
「今は、手術の様子を録画で残すのが当たり前ですので見てみますか?」
昔、香川教授がメス捌きを勉強していた場所は、そういえばここだったと今更ながら思い出す。どれだけ進歩しているか、昔を知っている阿部師長に聞いてみたかったのだが。
煙草を残りきっちり一センチのところでもみ消し、彼女は微笑んだ。
「私の仕事は、『今死に掛かっている人を助ける』こと。心臓バイバス術の手術を見ている暇なんてない。患者はどんどん運ばれてくるから。
そうそう、そんな香川先生のメス捌きのレベルが落ちたことがあったわね。他の看護師や、なまなかの医師では分からなかっただろうけど…私には一目瞭然。体調が悪いわけでもないのにね。きっとあれは精神的ショックだろうなぁって思った時期があったのよ」
あれだけの天賦の才に恵まれた人間にもそういう時期があったのかと興味を覚えた。
「何時頃のことですか」
彼女は遠くを見る目をして二本目の煙草に火を付けた。そしておもむろに語り始めた。
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