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第十四章 第18話
後ろ髪を引かれる思い――そんなものが実在するとは思っていなかった。あくまで慣用句として修辞として使用されるものだと――と言うのが本当にあるのだなと実感した。
彼の体温が残っていそうな彼の二つ折り携帯電話を開ける。彼の物に拘らない性格が分かるような、購入した時そのままの待ち受け画面を見て自然に笑みが湧く。スタッフ専用通路に人影はないことを確認して、自分の携帯電話に掛けてみたい欲求と少しの間戦った。
教授室に彼が居る限り、最愛の彼の発する声は盗聴されてしまうリスクがある。繋がっていない電話の主に向かって「心配しなくても……直ぐに終りますから。これ以上は一人で悩まないで下さい。私が支えます。出来れば公私共々に……」そう言って画面を閉じた。
ただそれだけの、意味のない独語――以前の祐樹なら爆笑して終ってしまうだろう――通じていない彼への空回りのメッセージで気分を切り替える。
黒木准教授は、見た限りでは香川教授のように日常生活全てに器用というわけではなさそうだ。手技に特化して器用という外科医は大勢居る。パソコンの操作などは苦手という医師も多いのだから。黒木准教授が限られた時間の中でパソコンと悪戦苦闘している姿が目に浮かぶ。
早く祐樹が行ってアシストしなければならない。白衣の内ポケット……ちょうど心臓の上辺りに彼の携帯電話を大切に仕舞って祐樹は駆け足で黒木准教授室に向かった。
部屋をノックし、黒木准教授室に入った。そこには見覚えのある顔だが、どうもピンと来ない男性が居た。ワイシャツとネクタイといった軽装で黒木准教授と話している。曖昧に挨拶をする。2人はかなり親しそうな感じだったので、この病院の医師だろう…。
「良く来てくれた。先ほどから困っていてね。大体メモ書きは出来たのだが、まさか齋藤医学部長に提出するレポートが手書きというのはマズイだろう。こちらは麻酔医の友永先生だ」
紹介された男性を見てなるほどと思った。麻酔科と外科では医局が異なるので私服姿は見たことがないが、手術室では術着とマスク姿の友永先生の姿は良く目にしていた。
「田中先生と正式に挨拶するのは初めてだ。麻酔科の友永と言います。どうか以後宜しく」
何となく他人に慣れていない自己紹介だった。人と接する仕事には向いていなさそうな。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。香川外科所属の研修医の田中祐樹と申します。以後宜しくご指導ご鞭撻をお願い致します」
頭を下げてそう言った。黒木准教授がこの時間に友永先生をこの部屋に呼んだということは、彼も何か知っているということだ。
麻酔医……と聞いて、以前手術の時に怪我をして――それも忌忌しいことに星川ナースのせいだ――祐樹が退室してから執刀医が動揺していると手術室の様子を黒木准教授に知らせたのが麻酔医の先生だと聞いたことを思い出した。
「私の怪我の件ではお手数をお掛けしたようで申し訳御座いません」
再び頭を下げる。友永先生はひょろりとした年齢不詳の雰囲気と顔を持つどこか浮世離れしている人物だった。頭の中で時間を絶えず計っているような顔つきをしている。その彼の目が細められた。多分笑ったのだろう。
「こちらこそ。香川教授の専属に指名されて業務が減ったので助かって……いました。ウチの医局では手術の掛け持ちを3~5件するのが当たり前の雰囲気で……随分とストレスが溜まったものだったが、香川教授の手術の時は本当に自分の仕事を納得の行くまでやらせて貰ったと感謝をしています」
麻酔医や法医学研究室……そして病理医などにこういうタイプの医師は多い。人前で話すことが苦手で職人気質の仕事をするタイプ。友永先生もきっとそういう人なのだろうな……とぎこちない話し方を聞いて思った。
そういえば麻酔医は激務中の激務だ。緊急手術が入ったらそちらに呼び出されて麻酔をかける。その上、朝九時からの通常の手術が数件入っていると、あちこちの手術室をコマネズミのように走り回って患者さんの麻酔の効き具合などをチェックしなければならないと聞いている。そして午後の手術も同様だ。
そんな状況に居た友永先生が斉藤医学部長の人選で香川教授の手術の時は他の外科手術のスタッフを外された。香川教授の手術に万全を期すために。
記憶を辿っているうちに黒木准教授の目論見も分かった。
「友永先生は斉藤医学部長のお眼鏡に適った方なのですよね?そして、我々とでは活躍する時間差があるので、手術を漏れなく御覧になっていた。しかも、医局が違うので客観的なお話が期待出来ると齋藤医学部長に思わせることが出来るという目論見ですか?」
香川教授の手術を何の利害も絡まない目で見ていた医師がここにもいる。祐樹が思いも寄らなかったことだ。流石は黒木准教授だと感心の眼差しで見てしまった。
いかにも頑固職人といった感じは「手術室の頑固職人」と呼ばれている癌手術の第一人者桜木先生を彷彿とさせる。こういう人の感想なら、心臓外科には門外漢の齋藤医学部長もきっと信用するだろう。黒木准教授は分厚い頬の皮下脂肪を笑顔の形に移動させるが、皮下脂肪は同じでもこちらは先ほどのような不快感は皆無だった。
「そうです。で、先ほどから星川ナースの道具出しタイミングの不自然さが目立った手術を挙げて貰っていました。彼は以前から星川ナースの道具出しの素晴らしさも……あくまでチラリとだが……多数目にしている」
「色々な手術を駆け回るのが我々の通常業務だ、誠に遺憾だが…な。
しかし自ずから手術の様子は目に入ります。星川君は素晴らしい才能を持つナースだと密かに思っていたのだが、香川教授の手術の時は、どんどんそのレベルが下がって行ったのは岡目八目だからだろうか?と見ていてハラハラしていた、いやいました。体調でも悪いのかと思っていたが…今日黒木先生に裏事情を聞いて納得した。そういう事情が有ったとは。
やはり香川教授クラスの手技の持ち主となるとやっかみも比例するのでしょう。だが、あれ程の手技の持ち主がこの病院から居なくなるのは世紀の損失です。
だからオレが不自然だと思った点を簡潔に纏めた文書は提出済み…で、そちらの報告書が完成すれば、コピペで繋いだら報告書の出来上がりなのだが、黒木先生はタイプミスが多くて困っていたんです」
「悪かったな…何せ俺はパソコンには不向きな人間なんだ」
黒木准教授は開き直ったように言った。
「そのメモ…貸して下さい。私が入力しますから」
黒木先生は体型に相応しく(?)丸く、お世辞にも達筆とは言いがたい文字で書いたレポート用紙を祐樹に手渡してくれた。
入力作業ならお手の物だ。教授室では会話するのと同じ速さで文字を綴っていたので。
もちろん、最愛の彼は祐樹よりも早いスピードで文字入力をこなしていたが。黒いキーボードの上を流麗に走る彼の細く白い指を思い出してしまい、慌てて黒木准教授のレポート用紙に書かれた文字をパソコンに入力していく。
心臓外科の専門医サイドから見た星川ナースの不審な行動と、友永先生が客観的に書いた彼女の道具出しのバッドタイミング……。それを全て文書に出来たのは、5時10分だった。友永先生も付き合って補足してくれたのが助かった。プリントアウトが完了するのをイライラして待った。誤字脱字のチェックを経て、完成レポートをステープラ(ホッチキス)で綴じた。大急ぎで黒木准教授に手渡す。黒木先生は五時半に最上階の斉藤医学部長室に入室しないといけないので。
「有りがたい。田中先生が居なかったら間に合わなかったです。疲れただろうからこの部屋で寛いでください」
黒木准教授も太めの身体を鞠のように動かして部屋を出て行った。祐樹も一息付いて、レポートが友永先生の存在のお陰で当初考えていたのよりも良くなったことに気を良くした。
後は、最愛の彼と黒木准教授の医学部長室での頑張りに期待したい。折角の部屋提供の申し出だったので、ここで彼からの電話を待とうと思った。
銀行からの開示書類と、山本センセの自白(?)録音は最愛の彼が医学部長に報告するはずだ。
落ち着かない気持ちに「煙草が吸いたいな……と痛切に思った。
それと同時に咽喉も渇く。山本センセや木村センセ、そして星川ナースにどんな処分が下されるのかと思うと。
どうか、彼の心の傷が開きませんように……と神に祈りたい気分だった。祐樹は無神論者だったが。
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