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第十五章 第15話

 細分化された祐樹達の職場では他の科の情報を獲得するのも骨が折れる。内田講師にそっと連絡を取ってみようかと思う。外科の祐樹が内科に電話するのは不自然ではあるが。  今夜のハプニングで鈴木さんが予想していたよりも遥かに救急救命室で勢力を拡大しているのは分かった。不幸中の幸いというべきか、鈴木さんの元担当医は内田先生だ。鈴木さんに頼んで内田先生に連絡を取ってもらうという手は使えそうだ。祐樹が内科に直接出入りするよりもウワサにはなりにくいだろう。  腕の中に居る彼は悩みを振り払う仕草で頭を一振りすると、祐樹の瞳を凝視する。 「祐樹は、やはり日本に居たいの……か?」  質問ではなく確認の口調だった。彼と一緒ならアメリカに行くのも悪くはないなと頭を掠めた。彼さえ居ればそれだけで良いと切実に思う。会話力にかなりの不安が伴うが。  ただその条件は彼もアメリカに渡った時と同じハズだ。しかも祐樹が原因でアメリカに行かせてしまったという罪悪感も少なからず存在した。 「アメリカ……ですか?貴方が居る場所が私の居場所ですから……、齋藤医学部長の部屋でのお話を貴方が携帯で実況中継をして下さった時に『東京に行く』と仰ったでしょう?あの時は、私も東京で勤務先の病院を探そうかと真剣に思いました。私と貴方ではポジションが天と地ほどの違いがあります。同じ病院でなくても仕方ない……貴方が東京にいらっしゃるなら私も関東で働こうかと思いました」  彼の澄んだ揺るぎない眼差しの力に負けじと祐樹も目に力を込めて言った。鋭い目つきにはいささかの自信はあるが彼の雄弁な瞳の魔力には到底敵わない。  彼の深山の湖水を思わせる蒼い瞳の光が春の光を宿した。 「そうか……。だが、祐樹は母上がM市民病院に入院しているのだろう?一人息子がアメリカに行くとなると母上はきっと悲しむだろう……な。私はその点、天涯孤独の身の上だから思い切ったことが出来たのかも知れない。祐樹の母上もアメリカに呼ぶことは可能だろうが……祐樹の母上の英語力は……?」 「私も会話力には自信がありません。もし、アメリカに貴方が行かれると決意なさったら死に物狂いで勉強しますが。医師国家試験の勉強よりは楽かも知れません……ね。  だた、母の学歴はそこそこですが、英語が天敵だったと受験生の私に笑いながら漏らしたことが有ります。出身学部も国文科ですし……何でも試験科目に英語がない大学を選んだそうです」  彼は鋭い決意を孕んだ瞳で祐樹を見詰める。蒼い瞳の光が祐樹には眩しい。 「そうか……ならば、祐樹の母上をアメリカの病院に長期入院させることは不可能だな。英語での会話しか出来ない環境で病状が悪化しては困る。しがらみがある祐樹が私には羨ましい……な。私は全くないので。  考えていることもあるが、それはその時になってのお楽しみということで……」  彼の瞳の光が柔らかな小春日和の光を思わせる。 「貴方の考えですか?それは楽しみです。いつものように私のことを最優先して考えて下さるのでしょう?それに私のことはしがらみだと思って下さらないのです……か?」 「祐樹は私をこんなにも幸せにしてくれた。一回だけドサクサに紛れて抱いて貰えるだけでも嬉しかったのに、今夜は……愛していると言ってくれた。出来ることなら、ずっと祐樹のしがらみになりたい……な」  彼はこみ上げてくる感情を抑えるような平坦な口調だったが。白い肢体を祐樹に密着させてきた。満足げな様子が彼のしなやかな肢体から薫るようだった。心も身体も満ち足りた様子の彼は、いつもよりも一つ一つの動作が祐樹の瞳を釘付けにする。祐樹の熱情の証が彼の内壁に残っているのも――普通なら不快さを感じると祐樹の嘗ての同性の恋人は言ったものだった。祐樹は病気が怖かったのでいつも避妊具を付けてはいたが――物凄い充足感だった。  彼を正面から優しく抱き締めた。彼の幾分低い体温がとても気持ちが良い。鎖骨の上の紅い情痕は祐樹の執着の強さをそのまま物語る証のように赤薔薇色に染まっていて……彼の白く滑らかな肌に咲いた小さな薔薇のようだった。その下にある彼の胸の尖りもいつもよりも濃い紅色をしている。  顔をずらして彼の紅い情痕が真紅の薔薇に変化する作業に没頭した。彼は祐樹の頭を両手で抱えてくれている。その指の強さと、彼の薄紅色に染まった肢体が彼も感じてくれているのだな…と思う。 「明日もし仕事がなかったのなら、せめてもう一度、いや貴方が泣いて頼むまで貴方の中を私自身で感じたいというのに……。残念です」  鎖骨から唇を離して胸の尖りを唇に挟み込んで切々と訴えた。唇の振動と声を発する度に彼の珊瑚の粒はますます固くなっていく。 「私も一晩中、祐樹を感じたい…手が、流石に今日はもう無理だ……。明日も手術があるし今日は精神的にも……色々有って……いささか疲れた」  その声は鮮やかな欲望の艶を含んでいて。彼の普段の冷静な口調とは違い感情と理性がせめぎあっているようだった。  極上の色香を零す彼の唇に触れるだけのキスを贈る。 「私の行為が原因で奇跡的な数字を誇る執刀医の記録更新を妨げたとなると、私は医局には居たたまれなくなります。残念ですが……今夜はこれくらいで……。バスタブに湯を張って来ます。私の残滓を洗い流してしまわないと……」 「いや、もう少し……このままで……」  彼の切なげでいて、熱情が含まれる言葉を聞くと、祐樹としても離れがたい。  彼の胸の尖りから断腸の思いで唇を離し、これ以上祐樹自身が充血しないように肝心な部分を細心の注意を払って触れ合わせないようにして抱き締めた。  彼も祐樹の背中に腕を回して額を祐樹の額にコツンとぶつける。 「聞きそびれていたのだが、尾行とか盗聴とか……それはもう大丈夫なのか?」  彼の憂いの色を帯びた表情は先ほど黒木准教授から「吊るし上げ教授会」のことを聞いた時よりも勝っていた。おそらく露見の心配をしているのではなく祐樹のことを心配しているのだろうな……と思わせる顔と口調だった。 「私が尾行の気配に気付いてナンバープレートと車種を覚えました。それでこういうトラブルには詳しそうな杉田弁護士に相談したら、山本センセが依頼した興信所を調べて下さって。  ご存知でしたか?興信所は暴力団が実質上の経営者の会社も多いそうです。で、料金が高い会社ほどソノ筋の可能性が高いらしく、山本センセが依頼したのは、Y組の関係者が経営する会社だったらしくて……」  彼の顔が強張った。目にも真剣な光を宿している。 「あの全国的に有名な?祐樹はそんな危ないところと関わっていたのか?」 「そんなお顔をなさらないで下さい。そんな物騒な会社に監視されていると貴方に告白してしまえば……きっと貴方の心労が増える……そう思って内緒にしていたのですから。でも全て片付きました」  しばらく沈黙がたゆたう。彼は幾分沈んだ声で辛そうに口を開く。 「私も祐樹の様子がおかしかったので……随分と気を揉んだが……。確かに、渦中の時に聞かされていたら心配事が増えたと思う。済まなかった。  今思えば、祐樹がこの前に会ってくれた時も車種を聞いてきたり、ホテルの中でも他の宿泊客のことを知りたがったり……それに教授室でパソコンと使って会話したりと推測出来る要素が沢山有ったのに……そこまで思い至らなかった……」  悄然とした口振りに祐樹は彼の瞳を覗きこむ。 「普通は、興信所なんて疑わないものです…よ?幸い杉田弁護士の友人にY組長の顧問弁護士がたまたま居たのです。普通の弁護士ならソノ筋御用達の弁護士とは付き合わないという不文律があるようですが、あの人はそういうことには拘らない人ですから。その線からY組長にお願いしたら――あの世界は、一番上の命令は顧客の利益よりも重いらしいですね――尾行も盗聴器も全て外れました。その確認が済んだので、貴方をこのホテルにお誘いした次第です」  彼はやっと愁眉を開いた。 「では、もう心配はないのだ……な?」 「興信所に関しては……ただ、この件で山本センセに恨まれまして……佐々木前教授の病院に行くのも、有給を消化してからだと予想されますので……彼が個人的に動くという可能性は残ってますが……」  もうこの期に及んで隠し立てもしたくない。しぶしぶ現状報告をする。彼は長い中指と人差し指を眉間に添えて考えていた。指も綺麗だったが、彼の几帳面に切られた爪の色と形が桜貝のようだった。彼は意を決したのか、揺るぎない眼差しで祐樹を見詰めた。 「祐樹のマンションよりも私の家の方がセキュリティも少しは整っている。明日の勤務が終ったら、ウチに来ない……か?」 「良いのですか?お邪魔しても」 「ああ、祐樹が構わないなら是非来て欲しい。少し散らかっているのさえ気にしなければなのだが……。それに杉田弁護士にも随分とお世話になったようだから明日にでもお礼に行こう」

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