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第十五章 第17話
問題はワイシャツを交換して着られるかということだった。ただ彼は細身とはいえ肩幅は普通サイズだし、彼御用達ブランドの今年のトレンドはゆったり目に仕立て上げるのが流行なのだろうか。標準体型の祐樹でも何とか着られそうだな……とワイシャツを見て思う。
彼よりも身長が高い祐樹だが、ワイシャツはスラックスの中に入る部分も計算されているので何とかなりそうだ。それに祐樹はいつも白のワイシャツを着ている。彼はごくごく薄い青色の物を着ていることが多いが今日はたまたま白色だ。生地のクオリティーに天と地ほどの違いは有るだろうが。
彼の香りの付いた服を纏うのは心楽しい気分になるだろう。
そんなことを考えていたが、フト今朝のモーニング・コールは祐樹が頼んでいないことに気付く。
「済みません。モーニング・コールまで煩わせてしまいましたね……本来ならば私の役目のハズですが……」
祐樹のワイシャツをしげしげ見ていた彼は事もなげに言った。
「そんなこと……気が付いた方がすればいいことだ。昨夜は祐樹の方が疲れていたので、私がするのが当たり前かと思って……。祐樹のワイシャツは少し大きいが、不自然なほどではないな」
薄い桜色の唇を綻ばせる微笑は本当に桜の花が咲いたかと思わせるほどだった。彼は祐樹が意識し始めた頃から魅力的だったし、こういう関係になってからますます綺麗になっていたが、昨夜からは祐樹の乏しいボキャブラリーでは表現出来ないほどの輝きを放っていた。多分、ナース達はもっと騒ぐだろうな……と晴れがましさ八分、誰かにモーションを掛けられるかもしれないなという危惧を二分感じた。
「昨日、阿部師長に強引に拉致されましたので今日は何が有っても定時に終ります。それから杉田弁護士の事務所に伺っていいか、聞いてみますね。
それと、興信所の方は大丈夫ですが山本センセが私怨で動く可能性も捨てきれないので、ホテルを出たら別々に行動した方が良いでしょう。またホテルのクラブ・フロアも誰が居るか分からないので……ルーム・サービスで朝食を摂った方が良いかと思います」
彼が一番気にしているだろう教授会の件は敢えて言及しなかった。今、蒸し返しても何の手を打つことは出来ないので。教授会の方は祐樹なりの情報網で何とかするしかない。
「そうだな……、いつぞやは鈴木さんの部下に会ってしまったし……何ならチェック・アウトもこの部屋で済まそうか?私も今日は定時に上がれるが……祐樹の言う通り杉田弁護士の事務所には別々に行った方がいいだろう……な」
彼も、山本センセの執念深さが分かったようで考え深げに提案してくる。
「部屋でチェック・アウトが出来るのですか?」
それは初耳だったので思わず突っ込んでしまった。
「ああ、クラブ・フロアのスタッフが私のクレジット・カードを見てこっそり耳打ちしてくれた。『出来るだけの便宜は計ります』と」
クレジット・カードのステイタスだけではないだろうに……と思う。女性スタッフの彼への好意の表れではないかと邪推してしまう。彼のカードは確かに高収入と社会的地位がなければ審査が下りるハズもないカードではある。が、もっと上のステイタス・シンボルのカードは存在する。このホテルではそういうカードを持った顧客も多いだろう。その顧客の全てにこんなサービスをしていたのではただでさえ忙しいクラブ・フロアのスタッフは対応出来ないだろう。ただ、彼に祐樹の推測を言っても信じないに決まっているので、黙っていた。
ロクに髪の毛を乾かさないで寝たので祐樹の髪も最愛の彼の髪もわずかとはいえ寝癖が付いている。祐樹の場合は洗面所の水で整えれば済むだけだが、彼の場合は職場ではオールバックにしている。ムースは必要だろう。
「朝食を頼んでから、階下の売店に行ってムースを買って来ますね」
「有り難う……でもその前に……」
祐樹のワイシャツを羽織っただけの彼が祐樹の手を握って顔を上向ける。昨夜、祐樹が散らした紅い情痕が見え隠れする悩ましい白い肌を観賞しながら彼の唇に口付けた。
薄目を開けて彼の表情をそっと凝視する。彼は目蓋を薄紅色に染めてキスを受け入れている。彼の憂いのない恍惚とした表情に祐樹の心拍数は上がったが、朝の挨拶なので唇に触れるだけのキスで我慢した。彼の吐息が切なげな薄紅色といった風情を宿している。
売店でムースを買って帰る。部屋に白いテーブルクロスが掛かった食事用の机が用意されていて、「和食の朝ご飯そのもの」と呼ぶのに相応しい料理が並べられている。
彼は祐樹のシャツをきちんと着てスラックスを身につけている。前髪が落ちている点がいつもと違った印象を与える。ネクタイを締めていないので真面目な医学部生か院生の雰囲気だった。
テーブルセッティングからして、対面で食事するように誂えてあった。が、祐樹は料理のちまちました小皿を全部彼の方に移動させて彼の横顔を見ながら食事をする。彼の顔は正面から見てもとても綺麗だが、横顔のフォルムも完璧だ。
彼も横目で祐樹をちらちらと見ている。その視線が薄紅色の光を纏っていてとても綺麗だった。身に纏っている祐樹のシャツを満足げに、そして面映そうに見下ろしている様子もそそられる。
と、彼は不思議な形をした鍵らしいものを祐樹の前に滑らせる。祐樹のマンションのような鍵ではない。
「これが私のマンションの鍵だ。マンション玄関の右手の……、そうだな……祐樹の腰くらいの位置に小さな屋根の付いたガラスのようなものがある。そこにかざすだけでいい。それで玄関は開く。開いたらエントランスホールまで歩いてそこの守衛さんか受付の女性に鍵を渡せば部屋の扉が開くといったシステムだ。万が一、私の方が遅くなっても良いように先に渡しておく。部屋は散らかっているが……」
「しかし、貴方は困りませんか?部屋に入れなくて……?」
彼の部屋に招かれたのは無条件に嬉しいが。彼が入れなくては困るだろう。
「……それは……いわゆるスペアだ。私も持っているので大丈夫」
合鍵を持ち歩いてくれていたのも嬉しい。しかし、別離をも覚悟していた昨日までの彼がスペアを持ち歩いていたことは少々意外だった。
「スペア・キー、有り難く受け取ります。しかし、どうしてそんなモノが直ぐに出てくるのですか?一歩間違えば、昨日アメリカに行ってしまいそうだった貴方が?」
彼は箸を置いた。頬を僅かに上気させて呟く。
「機会が有れば渡せるように…いつも持ち歩いていたので……言ってみればお守り代わりだった」
心情が吐息として出た感じのするいくぶん湿った声に、彼の愛情の深さを知る。
「有り難うございます。大切に使わせて頂きます」
少し震える声になってしまった。彼は決して押し付けがましくない。が、その淡白さが却って祐樹への愛情の深さを物語っているようだった。
「愛しています……よ」
「私も……それと、これからは……祐樹の心変わりも含めて全部……話して……欲しい」
「心変わり?それは99%有り得ません。私が自分からモーションを起こした――いや、モーションを起こしたいと思ったのは貴方だけです」
そう囁くと彼の澄んだ眼差しが開花したての外気に触れていない桜色に変わる。
チェック・アウトを済ませて、念のために別々にホテルを出た。別れ際、一瞬彼の瞳に浮かんだ切なげでいて愛しさを雄弁に物語る光が祐樹の脳裏に深く刻印された。
JRに揺られている間中、彼のシトラス系の香りとわずかな消毒液の匂い、そして昨日の彼の動揺を物語る仄かな汗の薫りが祐樹の身につけている彼のワイシャツから立ち上る。それを慕わしく懐かしい気持ちで祐樹は全身全霊で感じていた。車窓から見える風景も既に見慣れたものになりつつあったが、今朝の祐樹には特別なものに映じる。
京都駅の構内で時間つぶしを兼ねてコーヒーを飲みつつ煙草をふかす。昨日の焦燥感が嘘のような満ち足りた気分だった。
医局へ行き、今日の手術指示書を読む。医局は、多分突然退職した山本センセ達の話題で騒然たる雰囲気だったが祐樹は気にせずにいた。どうせ、医局内で取り沙汰されるのは真実とは程遠いウワサだと分かっていたので。
手術のために手洗い所に行く。先客に柏木先生が居た。彼は物言いたげな雰囲気だったが、今の段階で全てを喋ることは出来ないので、「スミマセン」という視線を送った。敏い彼はそれ以上何も言わない。
執刀医の香川教授が専用の扉――もちろん、足で操作する扉だ――から入って来た。
「手術を開始する」
例のごとき怜悧な声に一同が動き出す。彼は祐樹へと視線を流してくれた。青いマスクで七割がた顔は隠されているが。彼の眼差しはいつもと違って微笑んでいるのが分かる。
祐樹も目に柔らかな光を宿して彼を見据えた。祐樹から視線が離れる刹那、彼の眼差しがよりいっそう和む。次の瞬間は冷徹な心臓外科医の視線に戻っていたが。
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