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第十五章 第18話

 無事に手術が終わった。  昼食を彼の部屋で一緒に食べようかと思ったが、まだまだ山本センセには警戒が必要だと思ったので安易に近づけない。  手術着を白衣に着替えその後医局に寄った。というのも祐樹の携帯に充電の必要がある。コンビニでも売っていることは知っていたが、容量いっぱいに充電しないと、また彼の件でトラブルが起った時に困る。  携帯電話の会社名が一緒なら充電器は同じだとは知っている。医局の誰かしらはきっと祐樹と同じ携帯電話を持っているハズで、そして研修医でない先輩達は泊り込みの勤務も当たり前だ。絶対充電器を医局にも持ち込んでいるに違いない。 「スミマセン……ソフト○ンクの携帯の充電器……お持ちの方はいらっしゃいませんか?」  医局で声を掛けると、柏木先生が「持っている」と言ってくれた。手回し良く充電器を持って祐樹の机に来てくれた。礼を言って受け取った。 「今日の教授の手技は素晴らしく冴えていたな……ゴット・ハンドと呼ばれているが、まさに最高神の腕前を垣間見た気持ちがする」  感に堪えない口調で話しかけてきた。手技の様子を頭の中で再現しているのだろう、手の動きがまるでメスを握っているかのようにしなやかに動いている。 「そうですね。いつもよりももっともっとエレガントでシンプルな動きでしたね」  心の底から同意しつつ足元のコンセントを探した。  祐樹が見てきた中でも多分一番の出来ではないかと思う。昨夜の一件が彼を変えたのなら祐樹としてはこれに勝る喜びはない。 「ああ、あんな動きが出来るのは、やはり才能だろうな……」  少し羨ましそうに言う柏木先生にツイ反論したくなる。 「いえ、教授は努力も惜しまれていませんよ……才能と努力の相乗効果かと……」 「そうだな……追いつけると良いと切実に思う」  真剣な顔の柏木先生を見て、祐樹も頑張らなくてはならないな……と思う。山本センセや木村センセ、そして畑中医局長までがこの医局を去るとしたら、柏木先生にも役付きが回って来る可能性は極めて高い。執刀医になる可能性も出てくるわけで……。研修医である身の上がつくづく哀しい。と言っても、執刀医の指名は教授権限に含まれるので、祐樹の手技を――彼は付き合っている相手だからといって公的な場所での特別扱いはしないだろう。それも患者さんの命を託された手術室でなら尚更だ――彼に認めさせるしかないだろうな……と思う。救急救命室で腕を磨くしかない。  昼食を済ませて時間を確かめる。ちょうど入院患者さんの昼食時間帯だ。鈴木さんも昨日の彼の言葉が正しければ病室に居るだろうなと病棟に行く。  教授会の件で内科の内田講師に連絡を取りたかったのと、彼の容態に変化がないかを確かめたかった。今までも一通りのことはして来たが、今回はもっと厳密に検査をしなければならない。救急救命室のボランティア活動で病状が悪化すれば元も子もないだろう。  大分薄れかけてきているシャツに染み込んだ彼のシトラス系の香りが切なく祐樹の胸を刺す。彼はきっと祐樹のシャツではなく、個室に用意されているクリーニングされたシャツに着替えているだろうな……とフト思った。少し寂しい気もするが、祐樹のそこいらで購入したシャツの着心地は、今祐樹が身を包んでいるシャツとは比べ物にならない。着替えていると思うのが妥当だろう。  カルテと検査実施用紙は抜かりなく持参して鈴木さんの部屋に向かった。  病室に入ると、鈴木さんのベッドの脇には2人の医師の姿があった。予想外なので少々驚いた。内田講師と長岡先生だった。2人は鈴木さんを囲んで和やかに話している雰囲気だった。 「まあ、田中先生……か  少し頬を赤らめて長岡先生が声を掛けてくれる。そういえば昨夜の医局で人目も憚らずにキスシーンを演じてしまった。男同士という社会通念から逸脱した行為をしたのだから、もっと軽蔑の眼差しで見られても仕方がないと覚悟していたのだが。彼女はそれほど動じていないようだ。 「お食事中申し訳有りません。診察時間外だとは存じておりますが、なにとぞご容赦下さい」  2人の医師に会釈をしてから鈴木さんに声を掛けた。 「いえ、お互いイレギュラーですからね」  明るい鈴木さんの声は救急救命室に居た時と同じ張りが有った。その声に同室の患者さんから羨望の念がこもった笑い声がした。当然病室を抜け出していることは同室者は知っているハズだ。そして多分、何をしているかもある程度は鈴木さんも話しているのだろう。他の患者さんも昼食の時間帯のせいか、皆区切りのカーテンを外している。この病棟に入院しているのは心臓疾患の方ばかりだ。香川教授の執刀待ちの患者さんも多い。他の人が「いかにも患者さん」という顔をしている中で、鈴木さんの顔色は、知らない人が見れば病人には見えないほどだ。  基本的な診察をして、悪化していないことを確かめた。だが、彼にはもっと深度の検査をしてみないといけないだろう。 「大丈夫そうですが……念のために検査室で一通りの検査を受けて頂きますね。何しろイレギュラーなのですから……」 「はい、それは分かっています。内田先生と長岡先生にも良くして戴いております。誠に有り難く思っています」  そう言って、祐樹に遠慮して少し後ろに下がった二人に頭を下げた。内田先生が電子カルテではなく紙のカルテを取り出す。 「長岡先生と相談して、鈴木さんにワーフォリンとその他血管増強薬を処方しています。もちろん長岡先生から香川教授には報告済みですが……」  それは……聞いていなかった。内心ショックを受けるが、内田先生と長岡先生の投薬の件は電子カルテには記載されているハズで、そのチェックを怠った――しかも、祐樹が気を取られていたのは仕事のことではなく最愛の彼にまつわる興信所の件というプライベートなことで――祐樹が悪い。最愛の彼との会話も封じてきたのは祐樹だ。きっと、彼は祐樹にこの件も伝えようとしていただろう。職務には熱心かつ几帳面な彼のことなので。 「主治医は私でしたが……両先生には申し訳ないことを致しました。衷心よりお詫び申し上げます」  深深と頭を下げた。 「いえ、こちらこそ、他科の人間が口を挟んでしまい申し訳なく思っています」  内田先生は内科医らしい穏やかな笑顔で詫びてくれるのが心苦しい。 「私は容態が好転していると考えますが…」  一歩後ろに下がって先輩医師、しかも役付きの内田講師にアドバイスを仰ぐ。 「私もそう思います。ですが、田中先生が仰る通り検査はしておいた方がいいでしょう。あくまでも念のために……ですが」  祐樹と至近距離に居た長岡先生は、祐樹の白衣から覗くワイシャツを穴が開くほど見ている。しかも初夏の頃なので窓は開いており風は祐樹から長岡先生の方に吹いている。彼女の形の良い鼻が何かを嗅いだらしい。その瞬間、ナゼか顔をよりいっそう赤らめた。  そういえば、彼女は今祐樹が身に着けているシャツのブランドも御用達のハズで。 「長岡先生にもご足労戴きまして有り難うございます」  頭を下げると、彼女は慌てた感じでとんでもない……と昨夜祐樹が包帯を巻いた手を大きく振りかぶり、隣の患者さんのロッカー兼テレビ置きに患部を激突させていた。その拍子にテレビが大きく傾ぐ。それを内田先生が慌てて支えた。どうやら祐樹のせいで仕事モードから通常生活モードに切り替わったらしい。包帯に包まれた手を痛そうに見詰めている。 「もしかして、怪我の部分をぶつけましたか?それなら、手当てを……」 「いえ、先生に見て戴く程度の重篤な怪我ではありませんので……手すきのナースさんに見て頂きます」  慌てた風情で足元が覚束ない様子で去って行く。彼女はハイヒールを履いている。途中で転ばないかとツイ心配してしまった。一部始終を呆気にとられた表情で見ていた内田先生だったが。 「長岡先生でも慌てることがあるのですね?原因は見当も付きませんが……」  独り言めいた口調だった。多分、内田先生は彼女の仕事モードの顔しか知らないのだろう。曖昧に笑う。  診察は手早く終ったので、検査申請用紙を検査室に回せば仕事は終わりだ。内田先生と連絡を取りたいという下心もある祐樹にとっては渡りに船だ。廊下に出て立ち話をする。 「そちらの今居教授なのですが…」  声を潜めると、彼の温厚な顔がたちまち曇った。やはり不穏な動きがあるようだ。

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