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第十五章 第20話

「何だか、香川教授……雰囲気が変わりましたね……」  内田講師も道路の向こう側に立っている彼の姿を視認したらしい。心の底から驚いた口調だった。  祐樹は町屋風の作りになっているフランス料理店――この街には良く有るが――の看板を見るよりも先に彼の立ち姿に見惚れていたが。彼はこんなにも綺麗だったのかと、改めて驚く。  祐樹と知り合って一月だが、彼の今日の立ち姿は映画のワンシーンのように鮮やかで、そして美しい。  彼も気付いたらしい。祐樹に向かって春の日差しを思わせる笑みを含んだ眼差しを投げかけてから内田講師に向かって優雅に会釈をしていた。  信号が青に変わるまでつかの間の内緒話をする。 「そうです……か?具体的にはどのように?」  彼の纏う雰囲気は彼の頭上で太陽の光を受けている五月の新緑よりも瑞々しくそして綺麗だった。手術室で見た時はそこまで思い至らなかったが遠目で見ると良く分かった。  内田講師が綺麗になった…手と言おうものなら、祐樹としても気が気ではなかったが。彼は祐樹の勘で――といっても、的中率は99%だ。例外は最愛の彼で……それは長岡先生が婚約者だというウワサを真に受けていたこともあるし、祐樹と年も変わらないのに「教授」という病院では祐樹などから見て雲の上の人間である地位を持って帰国したため彼が異性愛者かそうでないかなどを考える余地がなかったためだ。  そんな異性愛者に同性が綺麗になったなどと言われると、余計な不安を煽る。 「毎日御覧になっていらっしゃる田中先生は分からないかも知れませんが……内科の私はそうそうお目にかかる機会がなくて……ただ、何となく以前よりも落ち着いた感じがしますね。  何か、吹っ切れたというか……清清しい表情ですね。教授会の件もそれほど重く受け止めてはいないのでは?」  内田講師も彼の姿を眩しげに見ていた。  確か、内田先生が彼と最後に会ったのは鈴木さんを救急救命室に初めて連れて行った時だった。その時の彼にはなくて、今の彼には有るもの……と考えると、祐樹が告白した件しか考えられない。  今居教授の件は大変危惧はしていたが、患者さんの表情の変化を注意深く観察する内科医の内田先生ならではの感想だった。外科医は患者さんの顔よりも患部――祐樹達は心臓だ――を第一にチェックする習慣が身についている。  手術した患者さんの顔は覚えていなくとも、術創を見て「ああ、あの患者さんか……」と即座に病名や手術様式を思い出す外科医の方が圧倒的だと先輩医師に聞いたことがある。   祐樹も同じだ。とはいえ、執刀医になったことがないので実感でないのが悲しい。  信号が青に変わった。横断歩道を渡る。祐樹の歩みを見ていないフリをして実はじっくり見ている彼の視線は光を浴びた翡翠の光を宿していた。いや、それよりももっと温かいかもしれないが。自然と早足になっていくのを止められない。 「ご足労をお掛けして誠に申し訳ありません」  祐樹に花の綻ぶような笑顔を投げかけた後、彼は内田講師に向かって頭を下げて謝意を述べた。 「いえ、とんでもないです。田中先生から教授に伝えて戴こうかと思っていたのに、ご足労戴いて……こちらこそ失礼を」  レストランの入り口を避けているとはいえ、道路で話している二人に祐樹は言った。 「中で話しませんか?それと、内田先生の立場を慮って……誰が聞いているかも分からない可能性が0%ではない以上、肩書きで呼ぶのは却って危険かもしれません」  彼の澄んだ瞳を見つめてそう言った。 「ああ、そうだな。『先生』だの『教授』だのと呼ばれるのは確かに危険です。名前のみでご容赦下さい」  そう言って彼は内田先生に向かって頭を下げた。その動作でスーツの布地の下からワイシャツが覗く。  そのワイシャツは、祐樹がそこらで買ってきて、今朝交換したものだった。てっきり着替えていると思っていたのに。――替えのシャツやネクタイは彼の部屋に常備されているのは知っている――ネクタイこそ昨日とは違っているが。  彼も祐樹のワイシャツを着続けてくれたことはとても嬉しい出来事だった。今日の勤務が終ったら杉田弁護士にお礼に行く。その後2人きりで彼のマンションに行くという流れになるだろう。祐樹にとっては心から嬉しい展開だがその合間を縫って感謝と愛の言葉を伝えなければならないな……と思う。何でも言葉にしないと祐樹としては心配で堪らない。  京都の町屋を改装して作ったレストランは、何とテーブルが5つしかないのに従業員の数は多い。フロアスタッフはこれらのテーブルが全て埋まってもスタッフの方が多いのではないかと思わせる。人件費のことを考えるとこのレストランは本当に高価なのだと思う。  内装は日本風で纏められているが、スタッフはフレンチレストランの制服で、壁に掛かった絵画も――誰が描いたのかは美術に疎い祐樹は分からないが――フランス風で、しかも高価そうだ。 「予約していた香川ですが」 「承っております。こちらでございます」  恭しいお辞儀をされて、一番落ち着いた奥のテーブルに通された。和洋折衷の趣味の良い家具がさり気なく飾られ他の客の目を遮っている。多分このレストランの一番の上席だろう。長岡先生の紹介が効いてこんな上席に通されたに違いない。そうでなければ一見の客にこの席は与えられないだろう。  彼女はいつもこんな場所でランチタイムを過ごしているのかと一瞬眩暈がした。眩暈と共に祐樹の財布から一万円が数枚消えていく錯覚に襲われる。  祐樹が一人想念と戦っていたが、2人は着席した気配がない。どうやら上席をどちらが座るかという件で譲り合っているようだ。 「お招きしたのは私どもです。ご足労戴いたのですから、どうか内田せ……さんが上座に座って下さい」  祐樹がさっさと下座に座ったのを見て、彼が感謝の眼差しを向けてからしなやかな動作で隣に腰掛けた。祐樹は彼の仄かに香る昨夜のバス・ソルトの香りをうっとりと吸い込む。  しぶしぶといった様子で内田講師は上座に座る。と、待ち兼ねたように前菜が運ばれる。どうやら手回し良く料理の予約もしていたらしい。 「香川きょ……いや、さんは、不思議な方ですね。普通なら当然のように上座に座りますよ?」 「いえ、過分な地位ということは重々承知していますから……それに私は今の地位には向いていません。しがらみのない、私の特技だけを活かせる職場に行こうかとも思っていたこともあります」  温和な表情が地顔になっているような内田講師は顔色を変え真剣な表情で口を開く。 「いえ、貴方はこの職場に居て欲しいです。確かにウチはそちらの科には批判的です。こちらのアプローチで何とか出来ないかと正直思う方もそちらに、きょ……いや上司権限で移されたこともあります。それにそちらは侵襲主義ですよね?しかし、侵襲だけがアプローチではありません。香川さんはそのことを良くご存知です。例えば鈴木さん……あれもウチのトップダウンでそちらに……しかし、香川さんの尽力で侵襲を実施せず、他の道を模索なさっている。実は鈴木さんの件は、ウチのトップが専門としている方がお客さんになったので……そちらに移したのです。香川さんは、一人一人の状態を良く御覧になってから、侵襲をお決めになっていらっしゃいます。そういう方が職場を去って欲しくない。この職場の良心として」  彼としては感情を露わにした声だったが。流石に他人の耳を意識して難しく言っている。  「侵襲」とは医師用語で「手術」のことだ。お客さんとは患者さんのことだろう。こういう場合の言い換えは見事だ。患者さんと話す機会が多い外来診察もきっとこんな感じで誠実に対応しているのだろうな……と思う。 「いえ、私は当然のことをしたまでです」  勤務が残っているので、アルコールは呑まない。ナイフとフォークを芸術のように動かしている手も、彫刻のモデルになりそうな美しさと優雅さが匂うようだった。 「その『当然のこと』が出来ないこの職場は改善されなければならないと切実に思います。私も貴方を拝見して――もっと上を目指します。と、本題から逸れましたが……本当にこの職場から去るお積もりですか?先ほど店の前でお見かけした時、何だか重圧を振り切ったという感じを受けましたので…とても心配です」

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