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第十六章 第22話
「本来ならば、後部座席ですよね?どちらにしますか?」
京都駅のレンタカー屋で彼か彼の秘書だか――多分秘書さんだろう――が予約していたキーを貰った祐樹は彼の意思を確認した。答えは聞かずとも分かっていたが。
問題はM市民病院の玄関に乗りつけた時の対応の仕方だ。多分向こうでは病院長を始めとして下へも置かないもてなしぶりのハズで。そうなった時に助手席から降りるというのはマズいような気がする。祐樹は一介の研修医で……今回の手術では第一助手を任されているとはいえ、彼とは立場が違いすぎる。土曜日の午後にレンタカー屋に行って、彼の予約した車はごくごく平凡なマーク2だった。チラっと見たところその駐車場にはドイツ車も充実していたのだが。日常生活――と言ってもこのレンタカー代は向こうの病院持ちだろうが――にはお金をかけない彼の生活ぶりが好ましく思える。
「もちろん、こちらに……」
彼は自ら助手席のドアを開けて優雅な身のこなしで乗り込む。彼の資産がどれ程あるのか正確なところを祐樹は知らないが、教授職ともなるとお抱えの運転手を付ける人もたくさん居ると聞いている。そういった見栄や虚飾を排するする彼のきっぱりとした性格も好ましく思う。
それに彼を乗せてのドライブは二回目で、一度目は単なる運転手だったのが、今回は助手席なのも物凄く嬉しい、二人の距離が近付いた実感で。
昨夜の彼は妙に緊張していて……土曜日は移動だけで手術がないにも関わらず「お誘い」を断られた。
彼の白皙の顔が強張る様子は祐樹が知る限りでは手術妨害の件の時だけだった。祐樹が山本センセが依頼した興信所の盗聴器を仕掛けていた件で何も知らない彼から不用意な言葉――2人の私的な関係を示唆する発言――が出ないように意識的に避けていた時期に良くこんな表情を浮かべていたものだった。その時は祐樹も良心の呵責に苛まれたものだったが。
現在の山本センセは佐々木前教授の元でビシビシと扱かれていると黒木准教授が祐樹だけに耳打ちしてくれた。黒木准教授だけは祐樹が果たした役目を正確に理解してくれていたので、その後のことを教えておこうという親切心だろう。どうやら佐々木前教授は一連の医局や手術室のナースまで巻き込んだ陰謀は前教授の至らなさが原因だと思っている。
そして首謀者の山本センセには再教育も兼ねて手術室では最も格下の患者さんの「足持ち」を担当させていると聞いている。この役目は手術中に患者さんが動かないようにただ身体を持っている役目だ。つまりは手術室に入る医師の中では一番格が低いというポジションだ。
山本センセもどうやら京都有数の私立病院の御曹司で次期院長の座を狙っていたのだが、京都では絶大な発言力を持つ齋藤医学部長の逆鱗に触れたせいで実家からも見捨てられたようだった。そうでなければ、この大学病院で講師のポジションを獲得した彼が「足持ち」などという研修医クラスが務める役目を甘んじて受けるハズはない。
彼が強張った顔をしているのは「祐樹の母親に会わせる」という彼にとってはどんな難手術よりも緊張する出来事を控えているからに他ならない。昨夜のお誘いも彼が深刻そうな顔をしてこう断っていた。
「今夜、祐樹に抱かれたら平気な顔でお母様に会えなくなる」
そう切なげな瞳で訴えていた。何度も身体を重ねた仲だというのに今更……とは思ったのだが。律儀な彼は身体を繋げた者同士が纏うどこか甘い雰囲気を宿したまま祐樹の母に会う気になれないのだろう……。そう思うと無理強いは出来なかった。
同じベッドで5本の指を絡め合わせる、いわゆる恋人繋ぎを解かないまま眠りについた。
祐樹は規則正しい彼の寝息を聞きながら、疾風怒濤の金曜日を思い返していた。産科の中山准教授の件が常に祐樹の頭脳の大部分を占めていたので、彼がしきりに聞いてきた「祐樹は近々、どうしても外せないプライベートな約束はあるのか?」という発言は、祐樹を母の病院に連れて行ってそれとなく見舞いをさせたかったのだな……と今更ながらに思い至る。が、彼も祐樹の母に会わせるというのは彼の素晴らしい頭脳でも予測不可能な事態だったらしい。それでこんなに緊張しているのだな……と思う。
梅雨の気配が近寄って来ている頃だったが、今夜は五月の名残りのように爽やかな夕方だった。M市には夜に着いてそのまま旅館で一泊――というのもあちらにはシティ・ホテルが存在しないので――そして朝8時からミーティングという流れになっているらしい。もちろん先方が用意してくれる旅館なので部屋は別々だ。昨夜の「お誘い」を断った彼のことだ。そういうコトは出来ないだろうが、彼と同じ部屋で一夜を過ごしたかった。
車に乗り込むとエンジンキーを回した。高速道路も通っていない辺鄙な場所にある目的地――祐樹の実家近くだが――なので国道を通って行くことになる。レンタカーは当然のことながらオートマチック車だ。祐樹は持ち前の負けず嫌いな性格で、教習所の月謝が高いにも関わらずミッション車のコースを選び、学生時代は友人が入学祝いにプレゼントされたというポルシェのミッション車の運転許可を貰って――ポルシェもオートマックを販売しているが車好きならミッション車を選ぶ――乗り回していた経験がある。ミッションに慣れた人間は左手――シフトチェンジをする方の手だ――を動かしていないと何となく落ち着かない。
車種によって微妙に操作するボタンなりスイッチなりが異なるので、走る前に全てを記憶し、車を出した。もちろんカーナビ付きだが、祐樹にとっては故郷に帰る道なので当然必要はない。
車内にはエンジンの音しかしない。勝手の違う車を運転するのは最初こそ戸惑うが、慣れてしまえばどうということはない。充分慣れた時を見計らって彼に聞いた。視線を横に流すと対向車線を走っている車のテールランプ赤や青の色に照らされた綺麗なフォルムを描く彼の横顔を見てドキりとする。紅い色や青い色で彩られた彼の端整な顔も祐樹を魅了する艶に満ちていた。
「BGMを流しましょうか?どんな音楽がお好きですか?」
そういえば彼が自発的に音楽を聞いている場面を見たことがない。
「あ……そうだな……クラシックがいい。それも合唱が入っていなければ何でも」
思いに沈んでいたと思しき彼の低い声だった。クラシックは彼に良く似合うが、合唱なしというリクエストは不思議だった。
「何故、合唱付きだとダメなんですか?」
最愛の人のことは何でも知っておきたかった。
「合唱が入っていれば、ついその言葉を追ってしまう。何を言っているのか前後の言葉も含めて聞き入ってしまうから……祐樹と話す余裕がなくなる」
言葉の最後は嬉しかったが、クラシックで合唱が入るのはイタリア語かドイツ語、まれにラテン語で……彼が英語に堪能なのは知っているが、イタリア語がナゼ邪魔になるのかが分からない。
「貴方はもしかして英語以外の言葉も話せるのですか?」
「いや、話せない。だが、合唱を聞いているうちにイタリア語とドイツ語は何となく分かるようになった。あくまでも何となくだが。さすがにラテン語は難しすぎて無理だ」
ごくごく何でもなさそうに言う彼はそれが特別なこととは思ってないらしい。オペラを含むクラシックを聴いて語句を拾って、その上で意味が何となく分かるようになるとは。 彼の記憶力が素晴らしいのは思い知らされていたが。外国語も聞いて分析し「何となく分かる」と彼は言ってはいるものの彼の「何となく」は信じがたい。多分殆どの歌詞を暗記してその言語も中級程度には話せるハズだ。
「では、こちらにしますね」
高級なお店で流れている――ちなみに、逢瀬の場所であるRホテルのクラブフロアラウンジでも流していた――クラシックのBGMだけのチャンネルを選んだ。
「私は……祐樹のお母様に会うことは全く望んでいなかった…。ただ祐樹がお見舞いに行ってないことは祐樹からも聞いていたし…それに、私は祐樹が恋人にしてくれるとはこれっぽっちも思ってなかったので…嬉しくてたまらなくて、ずっとこの恩返しをしたいと思っていただけだ。お母様のカルテが手に入れば、もっと良い治療方法を見つけられるかも知れないとも思った。齋藤医学部長に上申書を出し続けたのも…仕事でなら祐樹はお母様の病院に行ける。そうすれば仕事が終ったらお見舞いに行きやすいだろうと……。
だから、祐樹が紹介してくれると言ってくれたのはとても嬉しいが……同時に良心の呵責を感じないではいられない」
彼が二度・三度と同じことを言うのは珍しい。それだけに彼も色々葛藤しているのだな……と思う。
「その件は重苦しく考えないでください。私の自己満足なのだから。生涯で一度しか巡り会えない最愛の人を母にそれとなく会わせたいという。もし、どうしても気が進まないのなら私1人で会いますから」
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