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お前を抱いた冬の終

 ある年の初雪の日、「もし」と尋ねながらうちの戸を叩いたのは見知らぬ少年だった。 「冬が終わるまでここに置いてはくださいませんか?」  まるで断られることがないと思っているかのような無邪気な声。だからやはり、彼は『見知らぬ少年』なのだ。  俺は、この少年によく似た顔の女を知っていた。その女ならばきっと、こんな無邪気な表情なんてできぬだろう。 「春まで下山は難しいだろう。好きにしろ。」 「有難うございます。」  そんな出会いももう三月は前のこと。猟に出た先で(ふき)(とう)を見つけた俺は、やっと春が来ようかという兆しを得られ心底安堵していた。 「春が来るようだな。」 「はい。」  小雪(こせつ)と名乗った少年は、もしかすると名の通りに雪でできているのかもしれぬ。炉端を前にして座りこそすれ、火にかけた鍋はおろか食事にも手をつけたためしがない。  彼はいつもの柔らかな微笑で「めでたいことですね。」と春の到来を言祝いだが、その声色はどことなくいつもより冷淡であった。 「明日、ここを発ちます。お世話になりました。」  頭を低くして礼を述べる小雪に、俺は言いたいことも言えず、「そうか」と返事をして汁物を啜った。  だがどうやら、それで全てが終わるとは限らなかったらしい。 「――旦那様。」  狼の遠吠えを聴きながら目蓋を閉じていた俺の床へ、きめ細かく冷ややかな肌がするりと紛れ込む。 「どうか旦那様……、お情けをいただけませんか。」  しおらしいのは口上だけだ。否が応でもと言わんばかりに腹の上にべったり寝そべられては、どうしたって目が冴えてしまうというもの。氷柱でも抱いているように冷える。 「お願いします、旦那様。旦那様……。」  胸に縋りながら帯をほどかれては、放っておくわけにもいかない。頑健だけが取り柄の猟師の俺とて風邪は引きたくないのだから。 「……何故だ。」  当たり前のことを尋ねたすもりだが、返ってきたのは変わった答え。 「私は……、このまま春に染まるより、旦那様に染まりたい。」  春を疎むなど生き物のすることではない。であれば小雪は、やはり人の子ではなかったか。 「つまり、その……、……消えるのか?」  春になれば帰る、というのはただの嘘で、やはり小雪は春が来れば雪のように溶けて消えてしまうのだろうか。だとすれば気の毒だ。冬は長いが、生を全うするには短すぎる。  ……はっきりと尋ねるわけにいかぬのには、理由がある。  俺はかつて雪の化生を見たことがあった。  父を殺した直後であったその化生は「まだ若いのだから殺すには忍びない」と気まぐれに俺を救ってくれたが、代わりにひとつ約束をさせられた。その夜の出来事を誰にも明かさぬように、と。  この歳になるまで言いつけを守ってきたのは、その化生がとても美しかったから。そして、心の臓まで氷づけにされたにもかかわらず父の死に顔があまりに晴れやかだったから。  父は寡黙な男だった。信心深く、手作りの無骨な木彫り仏によく手を合わせていた。それも全ては、俺を生んだ時に死んだ母様(ははさま)を想い続けていたがためだ。  俺がそのことに気が付いたのは父が死んだずっと後だった。あの化生の美しさを忘れられず、繰り返し夢に見ていたころだ。  忘れ形見の俺がいなければ、父は寺にでも入っていただろう。禁欲的であった父の影響で、俺はほとんど女人を見たことがない。そんな俺にあの化生の美しさは花の棘のようであって、その化生によく似た小雪の求めは甘い毒のようでもある。  生唾を飲み込んでしまったせいで、俺の本音はばれてしまったようなもの。小雪はやはりいつも通りの微笑を浮かべていたが、こちらを見つめる上目遣いの瞳は妙に爛々と輝いている。 「かあさまの言う通り、旦那様は優しい男。」  かあさま。それがあの美しい化生の女のことであると、俺にも察することができた。なにしろ顔が瓜二つなのだ。 「今日で冬も終い。明日には私も、春日に照らされて溶けてしまう。清水となり山を潤すも悪くはありませぬが、好きな人に染められて溶けるほうがずっと満たされましょう。」  どうせ明日終わる命だからと、そんな意味に聞こえるのは気のせいではないのだろう。 「色を持たずして生まれた我らにとって、唯一の望みはお慕いした人に染めていただくこと。……旦那様。」 「……。」  最期の夜にと、こうも強く求められてどうして断ることができよう。  氷に触れれば、指先は白むような熱さを覚えるだろう。それとまったく同じように、小雪の白い肌は抱けば火もないのに肌が焼けるようだ。  俺にも初めてのことばかり。まして男の股を貫くなど。ゆっくりと肉の(みち)を探りながら、痛い思いをさせてはないかと危ぶみ幾度と問うた。仰向けになってこちらを見上げる小雪は、いつもよりなお白い唇を固くひき結んだまま口角を持ち上げている。切なげな眼は、ほろりとほどけるように笑う。  綺麗な顔だとは思っていたが、それをこうも愛らしいと思ったのは今宵が初めてだ。――そして最後になるのか。  唇を重ねれば棘のような冷気が鼻腔を刺すが、触れた肌はしとどに濡れていた。それが汗なのか、まさか溶けているせいなのか、俺にはとてもわからない。舐めてみれば味はなく、春の宵入りに似たうすらけむたい匂いだけがわかる。  奥を探るほど潤みが溢れて、底なしのように泥濘(ぬかる)んでいく。熟した内壁は吸い付くよう。 「旦那……さ、まぁっ……!」  人形のようだった端正な顔がかつてなく歪みながら涙をこぼす。目尻に溜まった雫が蕩けるように滑り出し、痩せたこめかみを通って俺の寝床を濡らした。  泣き顔を見てのぼせ上がってしまった俺が達しようかという間際、小雪が両の手のひらで押さえつけるように目を覆い、小さな唇で切羽詰まった一言を口走った。 「染まる……っ、」  初めて頬を染めながら、恍惚の色香でてらり舌を光らせ、ぶるりと震え上がりながらの言葉だった。  そんな艶気を見せられては、こちらとてもう堪えようがない。そうして俺が迫り上がるような欲を放ち、天を仰ぎ奥歯を噛んだ、その次の瞬間。  小雪はただの水と化し、寝床をばしゃんと叩いて消えた。  そして春がやってきて、短い夏が終わり、秋には蓄えを仕込んで、再び冬がやってくる。  独り身を決め込んだ男のこと。この一年の間、あの少年について思い出さなかった日はなかった。けれども初雪の夜ともなれば、いつにも増してあの美しい姿が目蓋に蘇る。  春に染まれば山を潤す清水になるのだと、小雪は言っていた。では、俺がこの手で求められるままに染め上げた少年は、何になってどこへ行ってしまったのだろう。  化生のことなど、ただの猟師でしかない俺には何もわからぬ。だから、――何が起きても驚くまい。 「もし。ごめんくださいませ。」  ドンドン、ドンドン。立て付けの悪い戸を叩く音と、聞き覚えのある若い声。 「今、出よう。」  自分の声の明るさに驚きながら立ち上がる。  実は俺は、予想よりずっとこの日を待ち望んでいたのだな。初めて人を好きになる気持ちを知った気がした。

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