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最高

  「じゃあ清志(きよし)、行ってくる」 「おう、気を付けてな、大和(やまと)くん」  ビシッと着た大和くんのスーツは社会人特権で美化して見える。  玄関のドアを開けて、笑顔で出勤した男は俺が今、付き合っている人だ。  28歳、会社員の営業部。一日、外回りの時もあればデスクワークもあるみたいで週末は疲れた表情で帰って来る。そんな社会人を目の当たりにしたら、将来の俺はもっと悲惨な事になっていそうでちょっと怖い。  大学三年生でまだちょっと余裕かましてるけど、アレを見る限り就活は早めにやった方が良さそうだなぁ。 「さてと、洗濯しとくか」  見送った彼氏に静まる部屋。  去年から一緒に暮らしているわけだが、なかなか良い。  ちなみに幸運な事に親公認。つまりはカミングアウト済みな俺。  大和くんの両親にはよく可愛がられてるし、俺の親も大和くんに好いてるみたいでよく連絡をしているみたいだ。  出逢いは簡単。中学の時に俺が痴漢されててぶっ飛ばしたい気持ちを抑えながら我慢してたら当時大学生だった大和くんが助けてくれた。それだけ。  ぶっ飛ばしたいのは本当だったが実際の俺はその痴漢が怖かったみたいで、駅のホームでずっと一緒にいてくれた大和くんになにかお礼をしようと連絡先を教えてもらって。  そしたら連絡する頻度が高く、趣味のゲームも食べ物も好きな動画配信者も同じで話が止まらず、プラス興味も持ってしまい、最後は好意。とはいえ俺の性癖は大和くんの性癖とは限らないから即失恋みたいな気持ちもあった。  休みの日は遊んで、好きな気持ちは隠し続けて、たまに恋愛の話題もあったけど全部嘘で答えて乗り越えたりしたものだが、どんなキッカケか――今じゃ同棲してるわけで……告白は大和くんだったな。なにがどうなって俺を好きになったんだっけ?  付き合い始めたのは俺が高校生の時で、大和くんは新社会人。  俺の相談相手である年下の親戚の歩からは『次は結婚だなあ?』なんて揶揄られてるけど、ホントそれ。  この話が今、大和くんから言われてるから、どうしよう。  溜め息交じりに洗濯機のスタートボタンを押して、今日の講義は3限目。掃除がてら窓拭きでもするか、と考えていたら俺のスマホが鳴る。  画面には俺の相談相手である、親戚の木下(きのした) 歩だ。 「もしもし、(あゆむ)?」 「おはよー、清志君」 「おう、どうした?」  親戚は親戚でも家系図を説明したら遠い。しかもこいつの家は確か複雑で、両親が離婚してたはずだ。  歩の父方で繋がってるうちだが、あの人は近寄り難く、なかなか馴染めないまま俺が成人したから歩以外の人はあまり知らない。あ、でも母親父親とは個別で仲が良いって言ってたな……意味がわからず、かつ、そこまで触れてもいいのかわからない話題だったからすぐに話を切り替えて俺の話に戻したなー。 「ねね、清志君に昔、漫画貸さなかった?BLの」  BL。歩は腐男子といって、男同士の二次元ものが大好きな男だ。だからといって歩も俺と同じホモではないんだが。 「はあ?あー、お前が忘れたんじゃないか?あった気がする」 「今猛烈にそれが読みたいんだよ。ちょっと今日そっちの家に行くっておばさんに伝えといてくれない?多分、清志君の家は覚えてるから!」 「わかったわかった。BLだと朝からテンション高いなー」 「時間あるならその後、清志君と大和くんの愛の巣に顔出すけど?」 「残念ながら、今日の俺は午後から大学だ」  口が達者な奴だ。また変に惚気を吐かされる。  二次元の男同士、とは言ったが、歩の腐男子力は普通の人間もイケるみたいですぐにアレはコレはソレは、と聞いて来るから正直めんどい。つーか、恥ずかしいのが本音。  でもさすがに今度は大和くんに会わせようかな。  何度か会ってみたいって歩に言われてたけど大和くんの仕事の都合とか、歩の学校の事とかでタイミングなく相談とか吐いてたし。  写真しか見せてない大和くんの顔だが、俺より頭の良い歩はパッと見ただけで大和くんの雰囲気を言い当てて、すごい奴だと思った事がある。察しがいいっつーの?  だから困った時とか歩に言ってたんだけど。俺ホントにあいつより年上なのか?って思った時期もあったけど、的確な事を言ってくれるから腐男子ってやつは凄いのかもしれない。 「そうか、マジで残念。〝大和くん〟に会ってみてぇなー」 「はいはい。じゃあな、お前も学校だろ」  軽いノリで『そうでーす』なんて答えて、電話終了。  忘れないうちに母親に歩が行く事を連絡して、窓拭きの準備に取り掛かる。  そういえば、卵を切らしてた気がする。大和くんにお願いして買ってきてもらおうか。じゃないと明日の朝飯に困るだろう――大和くんが。 「俺メシは作れないしー」     *    *    *  時間が経つはやさは日によって違うが、今日ははやい方だ。  洗濯、部屋の掃除のあと大学に行って、友達と来年の就活準備をしつつ大和くんから連絡があり、ついでに頼もうとしてた卵を買って家に帰る。  今じゃ夕飯も食べ終わって動画サイトで好きなものを観るゆっくりタイム。  俺と大和くんが好きな配信者の動画。今日のはちょっと、俺からしたら気まずいものだ。  ドドーンと、動画のサムネタイトルに【報告・入籍致します】 「この人、付き合ってる人いたんだな」 「匂わせとかなくてわかんなかったわー」  なんとなく話を合わせるものの、俺は気まずい。  二ヶ月前、久々に外食しようと誘ってくれた大和くんに俺は素直について行ったのだが、よく大和くんが行くバーでサラッとなんの気配もなく指輪をくれた。謂わばプロポーズ?  急過ぎる事態になかなか状況が呑み込めなかった俺を見て『今じゃなくて、長い目で見て考えといてほしい』と大和くんが言ってくれた。  言ってくれたんだが……俺からしたら、現実的ではない、と思っている。  同性同士の結婚とか認められてないし、仮に養子縁組にしたってわざわざそこまでして一緒になる意味がわからないから。  なら、今と変わらず。むしろ愛の大きさが今より溢れていって、一緒になる方が手っ取り早く感じているからだ。手続きが面倒?  それもある、けど。とにかくお互い愛し合ってればもうそれで良いんじゃないか?と。子供の考えなのかもしれないが、どうも動かない俺。動けない俺?  大和くんの事は好きだ。大好きに変わりない。愛してるし、この先の事を考えてもこの人しかいないと思ってる。つーか、そう。喧嘩もするけどこの人しかいない。絶対に。  大和くんしか考えられない。そこは信じてほしいわけ。 【Q.結婚しようとしたキッカケは?】 《これはね、もうこの人しかいないなって。支えてくれるし、支えたいと思ったからね》  配信者が動画内で言う。配信者の相手はただの会社員で動画とか出るのはNGだから、って女性フリー素材を使ってモザイクのように隣にいるのが見える。仕草とか、それこそ雰囲気とかわからないし声も編集で加工されてるけど、きっと可愛らしい人なんだろう。  急上昇に上がってる動画はコメントもリアルタイムでどんどん更新していって「おめでとう」「リア恋乙」「Next Stage→子作りしてみた動画」「俺等もお前等を支える」などいろんな感想がある。  俺の気持ちはこの配信者と同じだ。でも、それで入籍したのはこの配信者は男で、相手は女だから。  認められてる組み合わせだ。だから結婚しようとした。それが正解。 「そうだ清志、この前、就活がどうたらって言ってたな」 「あー、なんかはやめな行動が良い気がして」  大和くんの答えは全くはやめな行動してないけど。 「来週、会社見学をやるみたいだぞ。うちに就職しなくても、来るだけ来てみたらどうだ?」 「え、マジで、いいの?つーか普通に大和くんの働いてる姿見てみたいんだけど」 「俺も清志に案内とかしてあげたかったんだが、来週は外回りメインでな……」 「うわー、残念……でも、行こうかな」  動画は垂れ流し。大和くんは動画を見続けてるが俺は大和くんの横顔を見て話す。なんなら大和くんも俺を見てほしい。  少しでも結婚というワードから離れてほしいからな。 「じゃ、受付の子に言うから。また時間とか決まったら連絡するよ。会社の場所はわかるか?」 「わかる。この間、忘れ物届けたし」  そう返すと大和くんは思い出したように、ふっ、と笑って『そうだった、あの時は助かった』と言った。  頭を撫でられ、自然に俺は大和くんに寄り添って、まだまだ続く【報告・入籍致します】動画を観ていた。  こんなに幸せなのに、これ以上のものがあるとはやっぱり思えない。 「おかしくねぇ?」 「平気だって。大学の入学式の時よりしっくり来てるぞ。成長してんな」 「いや、変わってない気がするけど……これ持っていけば入れんだよな?」  大和くんの会社見学当日。  見学証明書ってのを見ながらちょっとドキドキしてる。大和くんの配慮で俺の知ってる人が今日、案内してくれるみたいだ。  大和くんの同期で、以前何度かご飯に行ったことがある松尾(まつお)さん。ご飯といっても大和くんとご飯食べてたお店で何度か会って、じゃあ一緒に食べようってなっただけなんだけど。顔見知りがいれば少しは緊張せず、わからないような事は聞けるから安心出来る。  見学は午後からだけど、本屋にも寄りたいから少しはやめに家を出ようか。 「んじゃ、俺は行くな。見学は終わったら連絡くれ。帰りは駅前でなんか食おうか」 「おう。スーツでデートは初めてだなー」  浮かれてなんぼ。  大和くんもクスッと笑って再度、行ってくると言いながらキスをしてきた。  大和くんの残り香が漂うなか一人、顔を真っ赤に染まる俺は全然ピュアっ子だな。 「清志君……こっち!」 「松尾さん!」  電車には乗り慣れてる方だが、今日の乗り方は少し違う気がしてソワソワした。  通勤ラッシュは酷いと聞いてるから今の時間でこの気持ちはやばいよなぁ。もっとちゃんとした大人になりたい。ドシッと構えられる男っつーか。ただの見学でも俺の想像以上の社会だとしたら、驚くよりその場で学びたい見学にしたいし。  まあ、ここに面接するなんてほぼないに等しいけど。大和くんと働いてみたい気持ちはあるが、気持ちだけじゃ生活出来ないしな。 「清志君」 「お久し振りです、松尾さん今日はお世話に――「清志君」 「松尾さん……?」  松尾さんは基本的にテンションが高い人だ。もちろん酒の場でよく会っていたからそう見えてるのかもしれないが、素面でもまあまあにテンションが高いと思っている。  隙あらば彼女作りたいとか、彼女がいたとしたら「会いたい」の連呼だったりとか、美味い物は勢いで口に突っ込んで来たりとか、知らない人とは前からの知り合いみたいなノリで話していたりとか。とにかくいつも大和くんに『調子に乗るな』って怒られてるイメージしかない人だ。  そんな松尾さん。今日は会社だからだろうか。まず、笑っていない。  そして、会ってそうそうに掴まれた肩が痛い。 「清志君、落ち着くように」 「え、なに」  つい出た言葉は素の俺。偽ってるつもりはないが、目上の人だ。敬語っぽい言葉で松尾さんとは話してたが、あまりの松尾さんらしくない雰囲気に圧倒されてしまう。会社ってすごい。社会人が、すごい。  ビクつく体は顔にも出てしまう。そして俺はクズなのかもしれない。  社会人はこんなにも人を変えてしまうところなのか、将来安泰は大和くんの隣しかない――って。 「清志君、今すぐ病院へ行こう」 「へ?」  呑気に思っていたそれぞれは一瞬で終わる。  松尾さんが発した言葉があまりにも理解出来ないものだったから。  病院……なんで?  俺はこの会社に見学しに来たのであって、病院に行くほど……あ、思っていた以上に緊張してて顔色悪くなってたのか?  心配してくれてんのかな。だとしたら問題ないんだが。手間を取らせて悪いなー。松尾さんごめん。 「俺さ、清志君と大和の関係知ってるから。だから病院へ行こう」  ――俺と大和くんの関係。 「大和、外回り中に事故って病院に搬送されたから」 『手術中だから』  記憶に残ってる最後の言葉。  それからは俺がどう動いたか覚えていない。気付いたら病院だったから松尾さんが引っ張って連れて来たんだと思う。  目の前には白い壁にドア。もう少し上に目をやれば〝集中治療室〟と書かれたものがある。俺は椅子に座っていて、隣には大和くんの両親。さえ子さんと昭夫(あきお)さんがいる。松尾さんは会社に電話をしているみたいで、ここにはいない。すすり泣きしてるさえ子さんの声でハッ、とした俺は震えそうになった。 「昼間からの飲酒運転での事故みたいだ……小道の信号無視で曲がろうとしたら息子に……」  大和くんのお父さんである昭夫さんがポツリと呟く。同じようなことを松尾さんも言っていた気がした。  大きな道路の一本裏で起きた事故。当たり所が悪かったみたいで救急車の時点で危なかったとか。手術は俺と松尾さんが来た時には終わってて、なんとか一命はとりとめたみたいだがまだ安心は出来ないと医者に言われたらしい。 「清志君……私、もう……っ」 「さえ子さん……」  俺の震えに気が付いたみたいで、さえ子さんも苦しいはずなのに手をギュッと握ってくれた。  かける言葉が見付からない。さえ子さんも昭夫さんも、それ以上喋らずただただ時間を待つしかなくて、気付いたら夕方。松尾さんは会社に戻って外回りの時は持っていかない大和くんの荷物を持ってきてくれてた。  どうにもこうにも待つだけの時間は苦痛にしかなくて、ちらほら見える看護師さん達にいらぬ不安を抱きながら、やっぱり待つしかなくて――希望の光は、白いドアから出て来た担当医師だけだった。 「先生っ、息子は……?」 「大和さんは、今は大丈夫です。ただ油断出来ませんのでしばらくはICUでしょう」 「今は、って……」  引っ掛かった言葉。 「急変する場合もあります。一晩、私や看護師が付きっきりで見ますが……もしもの時も、あるかもしれません……」  医者が発したその言葉はあまりにも現実味のない言葉だ。  泣き崩れるさえ子さんに、支える昭夫さんも手で目を押さえている。松尾さんは動けてない。  俺は、信じられない。  だって今朝、会話したし。今夜は外食の予定だった。今日の見学の事で興奮しながら喋って、俺の姿を見ては微笑む大和くんにまたドキッとして。その後は多分、良い雰囲気になってて。そんで朝を迎えて、コーヒーを淹れて、カップを渡されてた。はず、なんだよ。  この状況に、信じれない俺は正しいはずだ。 「ご家族様であれば、窓越しになりますが大和さんと面会出来ます。あなたは、大和さんの弟さんですか?」  信じ切れずにいた俺に話しかけてきたのは、医者の先生だった。大熊(おおくま)、と書かれた名札。 「あ、いや、」 「……」 「……弟では、ないです」 「そうですか……お母さん、お父さん。面会されますか?」  当たり前な事を言って、当たり前な返事。  俺は大和さんの身内ではなくて、さえ子さんと昭夫さんは頷いている。  先生は二人の返事に『では、こちらへ』と集中治療室の入り口に手を向けた。その際、さえ子さんには謝られ、昭夫さんには背中を撫でられた。  俺はなにも言えず、ただ自分の足を見ているだけで二人の背中も見ずに立ち尽くす。 「松尾さん」 「んー」 「俺と大和くんの関係、知ってるって……」 「あぁ」  あれから数分。たったの数分も俺からしたら何時間も経ってるような感覚で立っていたが、松尾さんに声を掛けられて椅子に座り直した俺は思いの外ショックを受けていたようだ。  大和くんが事故ったからショックを受けたとかじゃない。単純に、やっぱり子供だった俺自身にショックを受けた。同時に、やっぱりそうなんだなぁって思い知らされた。  俺と大和くんは赤の他人。――当たり前だ。 「なんで知ってたんですか」 「大和が言ったからなぁ。俺が清志君と会う前から。付き合ってる人がいる、男なんだ、って」  最初よりは緊張感がなくなったのか、松尾さんは自分の足先をパカパカ開いたり閉じたりしながら俺に話し始める。  同期で一緒に営業回りをした最初の頃から仲良くなり、飲みに行っては仕事のことや実家、ちっぽけな話など。積み重ねではあるが会話には困らないほどの仲になっていたらしい。  そこで松尾さんの恒例、恋バナに花を咲かそうと問いただした結果、俺の話になったとか。 「結婚の話も知ってんぞー」 「え、うそ」 「その話をした日はマジで酔っぱらってたな。まだ学生だから早いかもしれない、ドン引きされるかも、って大和らしくなくて腹抱えて笑ったわ」  そしていつものように調子に乗って『プロポーズしちゃえよ!』と勢いで背中を押すかたちで大和くんに言った、と。 「次の日にはジュエリー店に入って行った大和を見て、お幸せにーって思ってたんだけど――清志君、返事まだしてないみたいじゃないか」 「……」  松尾さんには、なんでも話してるんだな。俺が歩に相談していたように、大和くんも松尾さんに相談していたのか。  二人のなかなかの信頼度にちょっとだけ頬が緩み、そしてまた強張る。  もちろん、あの時あのバーですぐに返事をしたとしても俺はまだ大学生で大人になりきれてないから、籍は入れずに世間一般で言う“婚約者”の立ち位置だっただろう。  そんな関係になっていても、まだ赤の他人だ。大和くんの家族になれたわけじゃない。今日の事があってもショックを受けていた。  でも、この先も同じことがあったら?  逆に俺があそこに入っていたら? 「……大和くんにはこんな気持ち、経験してほしくないなぁ」  深く息を吐いて、真っ白なドアから窓に目を向ける。日が沈んで暗い外は、病院に来てからそれだけ時間が経っていたということを示す。  大和くんだからか想像しにくいが、気持ちはきっと俺と変わらないだろう。好きな人だ。愛してる人なんだから、待ってるだけでも苦しいこの空間に立たせたくない。それより近くに居たいし、居てほしい。 「ICUって、家族しか入れないらしいですよ。松尾さん」 「……」  一枚の紙で関係が成り立ってしまうあの手続きの先は、これなんだな、って。同性同士の意味が、わかった気がした。     *    *    *  あれから二週間。大和くんは奇跡的な回復力にもう一般室に移ったみたいで、俺は久々の大和くんに会う。  一時は本当に危なかったみたいで、さえ子さんから電話があった時は心臓が飛び跳ねたが、同じく俺はロビーにいるだけだ。さえ子さんと昭夫さんの表情でその時の大和くんを察するしか出来ない。  正直、辛かった。出来る事はなんでもしたつもりでもぽっかり空いたような穴は埋まらないままで、家に帰ってもだだっ広い部屋が苦しかった。  こんな思いはもう二度としたくない。出来ればもう事故には遭わないでほしいし、俺もそうならない安全な人生を歩みたいと思っている。 「警戒心高まるこれからだよなぁ……」  ぴろ、と広げた一枚の紙。【養子縁組届】と書かれたのは区役所で貰った紙だ。  貰ったあとに、大和くんと俺の解釈が間違ってたらどうしよう……と思っていたが、どの道あの経験は嫌だってことで俺が押し切る事にしようと覚悟を決めたのだ。  大和くんと話をすることや、具体的に両親達に話すという難関は何度かあれど、決めたのだ。 「大和くん」  病室についた目の前で大和くんの名前を確認。個室みたいで、なおさら話しやすい場にホッとした。  スライド式のドアを開けると雑誌を読む余裕のある大和くんが目に入る。よかった、本当に元気になってる。 「清志!」  目を見開いて驚く大和くんは久し振り。そんな表情を見れて嬉しいし、一瞬だけ犬に見えたのは内緒の話にしよう。 「大和くん、んー……大変だったね」 「ん。まあ、な。でも良かった、清志に会えなくて寂しかったわ」 「良かったなんて言葉は俺が使うんだよ」 「確かに。俺もう正直ビビったよ」  笑ってる大和くん。  飲酒運転をした加害者とはもう話がついてるのをさえ子さん達から聞いた。相手側からの謝罪と病院代など、俺からしたら難しいものも全部終わってるって。  0と100で相手が悪いにも関わらず難癖つける人もいるみたいだが、大和くんのは素直に応じたって。丁度、明日その人が直接謝罪に来るみたいだ。 「手術の痕、残るよな?」 「俺そういう痕、初めて見た……痛そうだな」 「今は痛くないぞ」 「そうか」  自然と握った手は温かい。たわいのない会話は二週間を埋めるようなもの。いくらでも切り出せる俺は余裕がある。 「お、もうこんな時間か。面会時間ってそろそろだよな」 「そうだなー。もう退院したいわ」 「あと一週間だろ?明日もその次の日も来るよ」 「あああぁ……」 「変な声出すなって」  枕で顔を押さえての雄叫び。控えめだけど。  子供っぽい行動が見れて笑う俺は帰りの支度をはじめる。  そういや大和くんから聞いたけど、俺の親も来たみたいだな。  どんな話をしたんだか、それとも電話してる時と同じような会話だったのか。わからないが、仲が良いってのはわかる。 「大和くんってもう字とか書けんの?」 「あ?書けるけど、なんだ?」 「じゃあこれ。俺の返事でもある」  ぽす、と大和くんのベッドに置いた封筒。あの紙が入ってる封筒だ。  首を傾げながら手にする封筒に、時間が迫ってきてる俺はパイプ椅子から立ち上がる。 「失礼します、調子はどうですか?」 「お、っとー……先生も来たし、俺は行くな。じゃ、また明日」  丁度良いタイミングで来た先生。大熊先生だ。  既に封筒を開けていた大和くんに説明する時間がなく――あと猛烈に照れてきて――逃げるように病室から出て行った俺。  俺が想像してる大和くんは明日見れるか、もしくは退院後に見れるか。わからないが、やっぱ愛しい人の顔見れるのって最高だな。  それと声。ドアを閉めた瞬間、中から大きな声で『清志!』と聞こえた。気持ちが同じで良かった。最高。  締まらない顔は周りから見たらおかしな人と思われてるかもしれないが、今はそう思われても良いぐらいには俺の心がスッキリしている。 「退院したら、なにしようか」  まずは〝愛してる〟かなぁ。――歩にちょっと話せば食いついてきそうな話だろう。  E N D  

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