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第8話
「え……。なんで……ッ」
翌朝、アダムは棚を見て呆然とする。わなわなと震える指先は、隠しきれない動揺を表していた。
「さ、サミー。ここにあった箱知らないか?」
「んー? 僕、知らないよー?」
「……」
そんな、なんで……。言葉にならない音が喉の奥に絡まって塞ぐ。何度見ても同じだ。いつもそこにあった、大切なカラクリ箱の姿がなかった。
くらりと視界が回り冷や汗が浮き上がる。落ち着け、落ち着け、と何度も言い聞かせるように言葉を紡いでも、から回って滑るばかりだ。
これまで貯めてきた大切な蓄えも、苦痛を我慢して健気に半分にして飲んできた丸薬も、全て全て消えてしまった。
思わず膝をつきそうになって、すんでの所で力をこめる。
昨夜は魔の森から帰ってきたあとに、サミーと夕飯を食べてお風呂に入って眠った。何も変わりがなくて、今起きている事件さえなければ、心機一転だと気持ちを切り替えていただろう。
「どうしよう……っ」
兎にも角にもこのことを報告して、ヒートを抑える薬を飲まなければならない。
いくらフェロモンが他の誰かに作用しなくたって、アダムの体が発情することに変わりはない。世間に出回っている普通の抑制剤は体に合わないため、打てないのだ。仮に苦しさから逃れたくて縋っても、酷いショック状態に陥り、最悪の場合は死ぬだろうと注意を受けた。だからどんなに素材に値段が張ろうとも、父親から教わった薬しか服用できないのだ。
こうしているあいだにも体は徐々に熱をあげ、頭の奥にもやがかかる。吐き出す呼気はこんな時でも熱を帯びていて、悔しさに涙が浮かぶ。心はこんなにも凍りついているのに、体だけが言うことをきかない。
「……そうだ、料理長にならっ」
一縷の望みをかけてアダムは家を出た。
職場へ向かう途中、昨日の女性陣の言葉が何度も頭を巡った。言われたとおりだ。三ヶ月もあの職場にいて、自分には親しいと言える相手が一人も居ない。困った時に頼れる相手が一人も居ないのだ。
親としてちゃんとしなければ。それだけを考えてきたが、完璧であろうとする姿勢が一線を引いているように見えたのか。
何が原因かなんて、今はどうでもいい。ただただ悲しくて、自分が酷く独りぼっちに感じた。
だけれど、アダムの心を落とす事件はこれだけでは済まなかった。
引き摺るように息を荒らげて、どうにか職場にたどり着いたアダムを迎えたのは、非難するような視線と罵倒だった。
「この盗っ人が! 食料だけならまだしも、ついに俺たちの所持品にまで手を出したなっ!」
「……っ?」
いったい、何を言われているのか。
通常のアダムならすぐにでも立ち直り、何が起きたのかを整理するだけの冷静さがあった。だが、今は抑制剤もなく、頭も体も茹でたような熱におかされている。
黙り込んだまま何も答えないアダムを見て、周囲は「まさか、ほんとうに?」とざわめき、徐々に視線に悪意が混じる。
「昨日、最後まで職場に残ってたのはお前だよな?」
なにかと突っかかってくる例の先輩が、高圧的に問う。
「……きのうは、先にかえりましたっ」
「嘘をつくなっ。お前の荷物が最後まで残ってたって、先輩が証言してるんだよ」
「それは……っ!」
アダムが疑いを晴らすために言葉を続けようとすると、邪魔をするかのように足を踏まれる。痛みに呼吸が乱れて意識が逸れると、計算したかのように、疑念を煽るような言葉を重ねられてしまった。
「それにお前は最近遅くまで仕事してたんだろ? ……まあ、こうなったら本当に仕事をしていたのかも疑わしいけどな」
「っ違います! 俺はちゃんと仕事を……っ」
熱い、あつい、あついっ。
怒りでさらに燃え盛る体が、ぶるぶると震える。波のように襲いかかる発情の熱のせいで、瞬けば今にも涙がこぼれ落ちそうだ。頬を染めた気だるげな姿は、ある種の色香をはらんでいる。
長い白金のまつ毛がうっそりと濡れると、周囲の男たちがゴクリと唾を飲みこんだ。その変化に聡く気づいた先輩の眦がキツく釣り上がる。
「……おまえっ! こんな時までも周囲を誘惑して、そうまでしてチヤホヤされたいのかよっ」
「そ、っんな」
「卑しいオメガめっ! 盗みを働くだけじゃなく、浅ましい淫売なんかここには必要ないっ」
どんっと肩を押されて体が後ろに揺らぐ。目前の先輩から視線が逸れた。そこで初めて、周囲がどんな瞳で自分を見ていたのか気づく。
疑念、嫌悪、不信感、憎悪……。誰一人として、アダムのことを慮る者はいなかった。
後ろに倒れるとき、全ての世界がゆっくりに流れていく。何人もの視線に晒されながら、どうしてこうなってしまったのかと、遠くのところでそんな思いが浮上した。
そして、どんっと背後に尻もちをつく。再び止まっていたように感じた世界の時間がすすみだす。
アダムを見下ろす男は、いつも見てきた憎たらしい表情に愉悦を乗せて笑った。
「ざまあみろ」
そして、アダムにだけ見えるように、唇だけで言葉を象った先輩が扉を締める。
アダムはただただ呆然と閉められた扉を見上げた。
こんなにも近いのに、すぐ目の前にあるのに、どうしてだろう。ものすごく遠くに感じる。
今すぐに立って誤解を解いてしまえばいい。どうして荷物を置いて帰ったのかを告げればいい。
信じてもらえなくたって、言うべきことは言わなければ、誰も自分を守ってはくれないのだから。
普段のアダムならどんなに心を折られようとも立ち上がった。
けれど、ヒート中のアダムは心も体もうんと弱くて、子供のように「どうして、どうして」と繰り返すばかり。
真っ暗闇の中に一人だけ取り残されたような気持ちだった。
つきつきと痛む心臓から逃れるように俯いた時。
アダムの頭上に影がさす。
「何をしているんだ」
鼓膜を揺らした声は、ぶっきらぼうで冷たい。
──もうここには来ない。
あの日、そう言って去っていた男の声だった。
「おい。なぜ、そんな状態でここにいる?」
「──ッ」
見上げるときに涙が零れないように。
真っ赤に染まった瞳で見上げて歯を食いしばる。銀色の光を見つけて、アダムはどうしようもなく泣き喚いてしまいたくなった。
「……っ、いえ。なにも、ないです。それより料理長に──」
「黙れ」
「ッ」
誤魔化し笑いを浮かべて、震える足で立ち上がろうとした刹那、両足を掬い取られて持ち上げられる。
ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐると、鼻先が触れ合いそうな距離に端正な顔があった。
「な、なんで……っ」
「ヒートだな? そんな状態でどうしてここにきた」
「それは」
宰相はアダムを抱き上げると、しっかりとした足取りで裏門へと向かう。アダムは問われたことになんて答えたらいいのか分からず口を噤んだ。
「自分の身に起きていることも説明できないほど馬鹿か?」
「そんなんじゃ」
「じゃあ話せ。どうしてここに来た」
真っ直ぐな視線に晒されて、力強い腕に抱きしめられて、心を頑なに締め付けていた紐が緩んでしまう。頼れる相手がいなくてどうしたらいいのか分からなかった。
あんなふうに別れてしまって頼るだなんて、なんて卑怯な奴だろうか。
けれどもう、一度緩んでしまった心は、いとも簡単に崩壊する。
「っ、たすけて、ください……っ」
アダムの泣きそうな叫びが、小さく空気を震わせた。
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