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第1話 陰キャと陽キャ、異世界に立つ

 赤信号の向こう。校門の手前で友人が手を振っているのを見て、一ヶ谷(いちがや)陽光(あかり)は「おー!」と気のいい声を返して車道に踏み込んで行った。  一ヶ谷陽光は、陽キャである。「一ヶ谷おめー、チョー陽キャだべ!」と言われて、「オレめーっちゃ陽キャー!」となんの躊躇いもなく、確信を持って、ノータイムで答えられる陽キャである。  二週間前に染め直した金髪も、中高ずっと生活指導の教師をその無邪気な性質で懐柔し、「まあ一ヶ谷なら仕方ないか」と言わしめて獲得したものである。  バスケ部員であり本来ならば朝練があるような一ヶ谷が通常の学生が登校するような時刻に登校しているのも、前日の夜にお気に入りのマンガの新刊に読み耽って寝坊した事をなんとも無邪気に先輩に電話しても「仕方ないな」と許されたが故の事であった。  そしてその愛すべきアホちゃんは、アホちゃんであるが故に、友人たちが急に血相を変えて身振りを激しくし始めた理由がなんであるか分からないのであった。 「いやどしたん? 今行くって!」 「——!! ————って!!」 「いや何ー!? 聞こえんって!」 「車、一ヶ谷!! 来ッ——」  友人に向けていた意識が、車道に——周囲2メートルに行く。  途端、爆発音のようなクラクション、そしてタイヤとアスファルトを擦れさせて迫る、熱を孕む強大な鉄の塊——誰にでも分かるような、暴力的なまでの死の気配が、自分の左耳の真横に有るという"事実"を知覚した。 「へ」    自分に向かって友人が手を伸ばしている光景と背中に小さな衝撃が走ったことを、生命の危機に瀕して急に活性化を始めた脳に一ヶ谷は感じ取った。  彼の視界は、そのまま真っ白な光に支配された。 ————————  予想していた車体との衝突は、果たして訪れなかった。  ほんの一瞬だけ、一ヶ谷陽光は、少し圧迫感がありながらも暖かな感覚(ひかり)を覚えた。  一ヶ谷陽光は陽キャである。いつも友達に囲まれていて教室では真ん中で大きな声で話す事を楽しみとしている。  常に友人に囲まれる、という事を、一ヶ谷陽光は当たり前であると考えていた。と言うよりも、自分を取り巻く事柄、情報、そういったものにあまり理由や価値を見出そうとして見出そうとさえしない青年であった。  友人を作ろうと思って作ったことはない。人がいるから話しかけて、答えられたら楽しいということをずっとやっていたら友達がたくさんできていた、という認識を彼自身はしている。その認識さえも彼の中では言語化はされていない事柄である。  要するに、一ヶ谷陽光は、真面目な言い方をすると、分析や、分析による理解といったものをまるでやらない人間であった。  忌憚なく述べてしまうと、今だけを生きる刹那的(しあわせ)なアホであった。  故に、こういった不可思議な出来事に対してもなぜ、どうして、これは何なんだなどという発想は出てこない。  ただひとつ、死を知覚したという対処し得ない恐怖から逃げるように、『怪我とか死んだりとかしたら、おかんや()ーちゃん、悲しいよな』『……でも謝れないのか。厳しいな』と、ちょっとだけ、残念に思った。  光の後、闇が訪れる。  心地よい浮遊感が急にキャンセルされて臓器が忘れていた質量を急に取り戻したかのような、過程も何もない疲労感のようなものが襲ってきたので、一ヶ谷陽光は少しえづいてしまいそうになった。その声も圧迫感でかき消されたが。  直感的に、『俺は光の中を通って、ここに放り出されたのだ』ということを一ヶ谷陽光は理解させられた。  トリップの感覚はあまり良くない。  飛行機に乗ったあとみてえ、と幼少期に一回だけ乗った、悪天候の中を飛んだ格安機体の記憶が急に脳の引き出しから飛び出てきた一ヶ谷は思った。  そのうちに、ゆっくりと、しかし確実に黒い靄のような不快感が引いていく。 「成功……、召喚にッ、成功しました!」  悲鳴にも似た女性の声が、歓喜の響きを帯びている。  一ヶ谷陽光は、その声を切っ掛けに意識を回復させた。  目の前には、大きな一枚の麻布をトーガ風に巻き付けた女性——あまり一ヶ谷と年齢は変わらないように見えるので、少女とさえ言えるかもしれない——がへたりこんでいる。  木細工の杖に縋り、髪の金糸は眩しいほどで……耳は、左右に尖って突きだしている。  樹皮で編んだような簡素なサンダルを履いた足元は、その質素な身なりとは不釣り合いに重厚な深紅の絨毯。  金縁の絨毯の周りから見える床面は大理石で、その高級さを真に理解していない一ヶ谷にも絨毯越しにひんやりと重い感触を伝えていた。  ……と、周囲が見えてきた一ヶ谷の視界の端、右下。  が目に飛び込んできて、一ヶ谷は思わずそちらに顔をやった。  尻もちをついたような格好で座っている青年の服は、たしかに自分の通う高等学校のものだ。  傍らに投げ出されているのも、学校指定の、校章が付いているカバンである。  ただ。一ヶ谷陽光はこの男子生徒に見覚えがない。  会話した事があるならば一ヶ谷陽光はその顔を何となく覚えてはいるから、この男子生徒とは同じクラスなった事ないんかな、と一ヶ谷は思った。 「助けてください」  目の前の女性は叫んだ。 「この世界を、お助けください! 勇者様!」 「……分かった!」  一ヶ谷陽光は、人から頼まれたら、笑顔でとりあえず引き受けてしまう性質(タチ)の男であった。

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