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青い正しい夢を見る 38

「   じゃあ、ちゃんと泣いてる?」 「────え?」  いつも「眠れているか」で終わる質問の続きが出た事に面食らってぱちりと瞬きをすると、医者は窺うように軽く首を傾げて片眉を上げた。  泣く?  この人は何を言っているんだろう。  泣くくらい、誰だってする。 「はい」  そう返したけれど、言葉が消える頃にふと泣いた記憶が思い出せない事に気が付いた。  なんだかそれは今まで見えているのに気付いていなかった事を指摘されたようで、ふと差した影のように僕を落ち着きなくさせた。  いつもの薬局の、いつもの女性が薬を差し出してくれて、その薬の名前を確認して頷いた。  抑制剤と、睡眠導入剤。  あんなに眠るのが好きだったのに、いつの間にか手放せなくなってしまって、もう何年たつのか…… 「だんだん寒くなって来ましたね」  当たり障りのない一言に、「そうですね」と返す。  小さなその調剤薬局はその人一人しかいなかったのに、今日は奥で物音が聞こえた。それに怪訝な顔をしてしまっていたんだろう、にこやかな笑みのまま、僕の疑問に答えてくれる。 「ああ、春からもう一人増えるんで、よろしくお願いします」  今は慣れる為にバイトに来てもらっている と言って笑う。  バイトをして、学校を出て、そして就職をする。  なんて事はない一般的な話で、昔から思い描いていた事なのに、それに沿う事は僕には難しい。  バイトも、仕事も、Ωでは雇う方は二の足を踏むだろう。発情して回りにフェロモンをまき散らしてしまえば、それだけで何人もの人生を狂わせてしまう。  そんな僕に、普通の生活なんて出来る筈もなくて、バイトに入った人を羨んだ所で建設的な何かは出てこない。  妬ましさを込めた羨望を隠して、当たり障りのない笑顔を返す。  「そうなんですね、お世話になります」  その笑顔にやっぱり当たり障りのない返事を返して、お礼を言って薬局を出ると、季節が変わりきった匂いになっている事に気が付いた。  顔を上げて見てみると、この間まで赤いと思っていた木々の葉っぱが茶色くくすんで今にも力尽きてしまいそうだ。  うら寂しいような、寂寥感の漂う乾燥した冬の匂いにぎゅっと手の中の薬袋を抱き締め、ふと医者に言われた言葉を思い出していた。 「  僕は   いつ、  泣いたかな ?」  あの屋敷に来た時?  初めて体を割り開かれた時?  殴られた時?  叱責された時?  理不尽に貶められた時?  いや……野村さんが自分を庇って火傷をしたあの時だって…… 「    」  枯れ落ちた葉が足元でかさりと乾いた音を立てながら転がっていくのを目で追いかけて、僕は動けずに立ち尽くした。

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