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19(side今日助)

「戯言がうるさくてさぁ。ジョーダンしつこいって笑っても諦めないから、好きにすればって言ったわけ。そしたら彼女になってた。たいてい怒るか泣くか、だけどたまーに頭おかしい奴はそうなるんだよ」  理解の及ばなさを押し出して小首を傾げる咲は、彼女が彼女になったことにすら興味がなくてきっと好きにさせていたのだろう。 「その役目がいいって、だからあげたのに……わざわざ人の部屋汚してさ、ワガママじゃね? 泣いて暴れて物投げて。こんなに愛してるのにどうして愛してくれないの? って。死んでやる、死んでやるって。ご近所メーワクもいいとこだよな」 「けど俺はちゃぁんと話を聞いてやってね、オニューのシャツを血塗れにされても許してやった。それから、じゃあ俺と遊ぶのやめよっか。そう言ったら号泣して謝りながら乗っかってきたワケ」 「部屋を片付けさせて、そんでもっかいシてやった。餞別はそれで十分だろ?」  いつものように猫っぽい人を食った笑みを浮かべて、俺の手を離す。  黙りこくって唇を噛む俺を眺めて、咲は喉の奥でくくくと笑った。 「やっぱりオマエは優しすぎる」  濡れた指先が噛み締めた唇を愉快げになぞる。他人事のようなその行動にくっと目をつむって、深く、諦めるように息を吐いた。  咲、違うんだよ。  俺は優しいんじゃない。  俺は臆病なんだ。  優しくない咲は、怖いもの知らず。  臆病者の気持ちがわからない。  身を挺した執着も普通なら突き刺さって然るべきだ。  プラスでなくてもいい。マイナスの怠惰や怒気、悲愴、なんでもいい。こんなにも平然ともういらないと捨てられず、大なり小なり感情を揺らすはずなのだ。  なのに咲の瞳は透明なままで、日々のありきたりな出来事として処理している。  美しい瞳にそっと指を這わせると、くすぐったそうに彼は瞼を閉じた。 「咲は……誰にも渡したくないものはあるか? じゃなくても、二度と会えないとしたら悲しい……そんなものは?」 「なに、突然。ふふ、ねぇよ。まず本気で悲しいと思ったことがねぇもん」 「……それは……」  先生みたい、といつも彼に揶揄されるが、それでも俺は咲を知りたくて慎重に言葉を紡ぐ。  なのに俺の口はすぐに二の句を失って、空気を吐いた。  確かに、咲が涙したところは見たことがない。でもそんなことがあるか?  あるのだとしたら、咲は感情……人の心を、知らないことになる。  底抜けに穏やかじゃいられないこの現代社会において、喜怒哀楽の全てを極めると流れる雫を持ち合わせていないなんて。  俺の尋問に興味を持ったのか、咲は「次は?」と急かした。  じゃあ、喜怒哀楽の、どれがある?  咲がこれまで取りこぼしてきたモノは、どれくらいあるんだ?  ……そりゃあ、酷い罵倒を浴びせられても笑っているわけだ。  逡巡し記憶をさらい二、三年程度しか咲と過ごしていない俺の知っていることをかき集めると、嫌に納得した。  上機嫌や不機嫌があるなら、怒りや喜びがあるはずだろう。  だけど俺の記憶には、咲が怒りを滲ませた顔をしたことも、意味を持って拳を振るったことも、声を荒らげたことすらない。むしろ人に(おとし)められた時ほど冷静なように思う。  怒りがないなら納得できる。

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