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「ねぇ? 逃げようと思えば、非常階段から逃げられんだぜ。エマージェンシーってさ」  角の壁からはなにも覗いていない。  空白に声をかけたって、返事なんてあるはずない。 「今でも俺が怖いなら、嫌いになったなら、憎んでいるなら、自分の人生を大事にするなら、傷つきたくないなら、気が向かないなら、意味不明な男と縁を切る賢いオマエになってくれるなら、絶対に振り返らずに今すぐその階段を駆け下りていけばいい」  それでも口を動かし続ける。  喉を搾って、平気な声で願う。  嫌なら脇目も振らず、あわてんぼうのサンタクロースみたいに、三段飛ばしに駆け下りていってほしかった。  どうしてか自分が悪いと思い込んでいる愚かな駄犬の半端な同情で、俺のシンデレラになろうだなんて許せない。  だってあれ、残酷な話だもんね。  甘く着飾って近づいたくせに突然逃げ出して、名残を置き去りに名乗り出もせず、自分一人一夜の夢とやらで小綺麗に浸って満足しちゃうお姫様。  王子様に見せた夢のことなんか、きっと一秒たりとも覚えてねんだ。  冷たいガラスの靴にほのかに移った体温を愛おしんで生きていけと。  高貴な男をあさましい乞食に落とそうとしているようにしか思えない。  実際あの王子、ひとかけらに縋って国中漁り必死に求めてたろ?  だからショーゴが俺のシンデレラだと、すげー困るんだよ。  俺が王子役なら、わかっていても置き去りにされたガラスの靴に頬ずりしながら腐った恋愛を囁いて地べたに蹲り、オマエの足に触れるもう片方のガラスの靴になりたいって、気が狂うほど願うんだからさ。 「ショーゴ」  ピタリ。  あとほんの数十センチ、曲がり角を曲がる寸前で足を止めた。  イジワル? 違う。  余裕ぶって? 違う。  ならビビり? ちょっと違う。  これは俺がカケラたちから得た感情を総動員してかける、最後の情けだ。 「ショーゴ」  安心しな。  怖いこと、ないんだよ。  これ以上足を進めないし無理やり踏み込んだりしないからって。  絶対ダイジョウブ。それが安心。 「ねぇ、ショーゴ」  信頼してちょーだい。  信じて、頼って。  フェアにいこう。俺らはフェア。前もって逃げ方と逃走経路は教えてあげる。嘘も誤魔化しもない。  絶対ユラがない。それが信頼。 「ショーゴ、ってば」  おまえに優しくしてーんだ。  泣き虫でも、全部いい。  俺は目を見られるのが怖いお前の顔が見えない場所で立ち止まってるし、お前の目を覗き込んだりしねーよ。  絶対ミステない。それが優しさ。 「ショーゴ、ショーゴ」  それから、ショーゴ。  かわいいね。  つい構いたくて、甘やかす。  こんなに話しかけても髪の一本、ため息の名残も見せてくれなくても、俺はなにもしないまま離れていかない。  絶対マモりたい。それが愛玩。 「ショーゴ、ねぇ……」  一人ぼっちでこのどん詰まりに置いて行ったりしねーから。怖いでしょ? 「ショーゴ……ショーゴ……」 「……っ……」 「なぁ、ショーゴ……」  声のかけ方を、これしか知らないことに、一言めを発してから気がついた。  もっとそれらしい言葉をかければいいのだろうが、無反応の曲がり角にかける言葉はそれしか出てこない。  ただ、名前しか呼べない理由は、なんとなくわかっていた。 「ショーゴ……ショーゴ」 (なぁ、今度は俺、間違ってないかな? お前の呼び方、これで合ってる? わかんねんだ。自信なくて。でも寂しいよ、ショーゴ。こっち向いてよ。お前がわかんなくて哀しい俺に、これでいいって、言ってよ、ショーゴ) 「ねぇ、ねぇ……」 (ショーゴ、返事してよ。俺のこと、いないことにしねーで。どんなカタチでもいいんだ。お前の中のすみっこに、ほんの少しだけいさせてほしいんだ。そのためなら俺、なんでもするよ。きっと役に立つ。もっと頑張るから。もう間違えない。だからお願い……こっち向いて? ショーゴ、もう要らないって、言わないで) 「ねぇショーゴ、ショ、……」  繰り返しショーゴを呼び続けた。  バカの一つ覚えみたいに繰り返したけど、影すら見せてくれないショーゴ。  そうすると盲目に恋をする俺でも少しは気がついて、口を閉じた。  ──怖かったから、だ。  俺が、名前しか呼べない理由は。  ホテルでショーゴを呼んだ時。  あの頃は恐怖を認知できていなかっただけで、わかった今は、無防備に寝そべって全てを認められる。  俺は怖かった。  ショーゴが……怖かった。  一般的ないし普通の範疇、世間の理解が及ぶ範囲のステキな愛し方。  いろんな知識と経験からそれらのモノマネを完璧にこなして、自分では、本当にできている自信があったのだ。  だけどショーゴは、俺のできないそれで、自然体に笑うから。  すると俺は、自分のそれがちっとも同じじゃない気がして、怖かった。  喜怒哀楽の全てが真実なんだよ。  お前が、ショーゴがくれるものは、いつも一生懸命で、ホンモノだ。  ショーゴの高い温度を持つ愛し方を目の当たりにするたび、オートマチックに出力する自分のアイがくすんで見える。  だから怖かった。  ──なぁ、ショーゴ……俺はじょうずに、お前を愛せてんのかな?  そう聞きたくて口を開いても、答えが怖くて聞けなくて、それがなぜかもわからず、お前の名前をただ繰り返す。  あの日わからなかった焦燥と肌寒さと不快感とこみ上げるヘドロの理由が、今はちゃんと、わかる。  俺は怖かった。  お前が怖かった。  求められる役目をこなせないならもう要らないって、お前に見限られるのが、俺はとても怖かった。  はは、俺は臆病なんだよ。  もうこれ以上見たくない程度には。 「……わかった」  指先すら見えない曲がり角を性懲りもなく見つめて、俺はどうにか足を動かし、そこへ背を向けた。

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