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運命と共に堕ちる③
小屋の中のグノーは薬が効いたのか動悸が治まりひとつ溜息を落とした。自分とした事が油断した。誰もいないと思っていたので、山小屋の中になんの躊躇いもなく足を踏み入れてしまった。
ナダールと二人で旅をしていて、無闇にαも寄ってこなくなっていたので自分のフェロモンに無頓着になっていたのだ。
「あ~ぁ、ホント嫌になる」
こんな事は一度や二度ではない。最後までやられた事はないけれど危険な目には散々遭った。居心地が良すぎて油断した。
それにしても今回のヒートは少しおかしい。いや、これは本当にヒートなのか? グノーは冷えた頭で考える。
本来ヒートを起こしている場合は例え薬を飲んだとしてももっと身体の変調は続くはずだ。だが、今の自分はもうすっかり元の自分に戻っている。まだ、少し不安定なので出て行くことはしないが、こんなに簡単に熱が引くのはおかしい。
そもそもヒートの時期が少し遅いのだ。いつもならもうとっくに来ていてもおかしくない。
αと一緒にいるせいで自分の中で今は駄目だとストッパーがかかっているのかも知れない。なんとなくそんな事もあるのかな……と思っていたのだが、先程一気に溢れたフェロモンにいつもならそのままヒートに突入するのに、それが来ない事に不安を覚える。
おかしい。
先程のフェロモン放出はおそらく無意識でナダールを呼んだのだ、これはヒートではない。
ヒートがこない、Ωにとってこれ程嬉しいことはないが、やはり不安になる。ヒートがこない理由で考えられることはひとつしかないからだ。
子供ができた?
まさか、と心の声を打ち消す。そもそもナダールに抱かれたのは一度だけ、しかもちゃんとしたヒートの時期ですらない。そんな事はある訳がない……そう思おうとするのに、考えるたびに心が震える。
『子供の生めないΩなんて、家畜以下だな』
蔑むように言い放たれた言葉。自分を見つめるたくさんの感情の無い瞳。自分にはΩとしての機能すらないのだとそう思っていた。このまるで膨らみのない腹の中に子供がいるのかなんて、自分には分かりようもない。
怖い、嬉しい、でも……怖い。
自分は本当に子供が生めるのか? こんな欠陥品の人間に本当に? いや、まだ決まった訳じゃない。たまたま少し遅れているだけで、そんな事ある訳ない。
いくら否定しても心の中は、でも、もしかしてと自問自答を繰り返す。ナダールと自分の子供……彼は喜んでくれるのだろうか?
『君、自分がナダールに釣り合ってると思うの?』
カイルに投げられた言葉が今更また心に刺さる。それでも子供ができたのなら生みたいと思うのがΩの本能だ。
もしナダールに望まれなかったら……
正直怖い。彼の恋人になるのも、番になるのも拒んでいるのは自分の方なのに、それでも子供は欲しいだなんて、なんて都合の良いことを考えているのだろう。
自分が望まれない子供だったから、本当はこんな形で子供を生むべきではないと分かっている、それでももしこの腹の中に子供がいるのなら……
まだ何者も存在を主張しない腹を撫でる。妊娠を告げたらナダールはなんと言うだろう? おろせと言われたら自分はどうする?
まだ確証がない以上彼に言うべきではない。抱えた膝に顔を埋めて、少し休もうと瞳を閉じた。
季節は冬を迎えようとしていた。
二人は翌日にはその山小屋を離れた。グノーのヒートがそこまで酷くなかった事と、あのルークと名乗る少年がどうしても気になったからだ。もし万が一仲間を引き連れて戻ってこられても困るなという判断のもと、二人は早々に小屋を離れたのだ。
小屋に残された少年の荷物を漁ってみたりもしたのだが、特に変わった物も、身元が分かるような物もなく、あれは一体なんだったのだろうとナダールは記憶を反芻する。
一方でグノーの方は黒髪だったらブラックの仲間なのかな? と首を傾げる。
「ブラックもそいつと同じで黒髪なんだよな。あいつもいつも黒っぽい格好してるし、俺のことを知ってたって言うなら、その辺りくらいしか思いつかない。でも俺そんな名前の子供知らないんだよな。まぁ、お尋ね者にはなってるみたいだし、一部じゃ俺、有名人かもな」
はは、とグノーは呑気に笑う。
「笑い事じゃありませんよ、変な輩に目をつけられてたらどうするんですか」
「その時は返り討ちにすればよくね?」
グノーは本当に喧嘩っ早い、まるで望む所だという雰囲気にナダールは溜息を零す。あくまで平和を好むナダールとは相容れない所だ。
ナダールはグノーの被るフードを更に下へと引き下げた。
「顔を出したら駄目ですからね!」
「そんなに下げたら前見えないだろ!」
「とりあえず今は駄目です!!」
二人は渓谷から少し離れ、近くの町へと下りて来ていた。日常品の買出しもさることながら、メインは薬の調達だ。
メルクードではたいした量を売ってもらえなかったグノーの抑制剤と、ナダールもできれば自分の抑制剤を予備で欲しいと意見が一致したので買出しへと繰り出したのだ。
小さな町ではαやΩの絶対数が少なすぎて売っていない事もあるのだが、その町はそこそこ人口も多く、町に入った早々αの商人がいたので尋ねたら、大通りの薬屋で売ってるよと教えてもらえた。
二人がその店を目指し歩いていると、ナダールはふと嗅ぎ覚えのある匂いに足を止めた。
「どうした?」
「いえ、弟の匂いが……したような気がしたんですけど」
「弟?」
「はい、すぐ下の弟はαなので、そういえばあなたは会った事ありませんでしたね」
グノーがメルクードに滞在していた間、彼は長期で遠征に出ていた。ナダール自身も弟にはもうずいぶん会っていないし、気のせいか……と前を向くと騎士団員の制服を着た一団が目に入った。
「あ、気のせいじゃなかったみたいですね。あれ、真ん中の大きいのが弟のリクです」
そこにはナダールほどではないが大柄でがっしりした男がこちらに気が付いたのか険しい顔を向けた。顔立ちはさすがに兄弟なので似ているのだが、彼の表情に笑みはなく眉間に皺が寄っている。
ナダールは弟に小さく手を振る。仕事中なら邪魔をしてはいけないと思ったのだが、彼はこちらに気付くと怒ったようにずんずんと歩み寄ってきた。
「兄さん、こんな所で何をしてるんですか?」
「買出しです」
そういうことを聞いているのではないと分かってはいるが、思わずへらりと笑ってしまう。弟は怒らせると怖いのだ。基本平和主義者のナダールは彼を怒らせてはいけないと知っている。
「何・故・ここにいるのかと聞いてるんですよ!」
言葉を区切るような詰問、彼は声を抑えて怒っていた。
「何故と言われても、通りがかりとしか……最近私旅をしているんですよ、知ってましたか?」
「知ってる。仕事放棄してメルクードから行方くらましたのも知ってる。あの時たまたま家に帰ったら家の中しっちゃかめっちゃかだったからよく分かってる。さて、理由を説明してもらおうか?」
リクの眼力は強い、ナダールは押されるように苦笑を零す。
「仕事はいいんですか?」
「こちとら聞きたい事が山ほどあるんですよ、誤魔化さずに話せ」
「……大事な人と一緒に生きたくて。私『運命』を見つけたんですよ」
言葉にリクは黙り込んだが、それも一瞬でぎゅっと拳を握りこんだ。
「母さんから聞いてる、でも兄さんはその『運命』の為に家族を捨てるのか?!」
「そんな事は考えていませんよ、黙って出てきてしまったのは申し訳ないと思っていますが、いずれ挨拶に……」
「今、父さん捕まってる」
「え?」
「王子暗殺未遂……兄さんは関わってないよな?」
「そんなのある訳ないでしょう!」
「だったら、私と一緒に来てください。そっちのあんたも一緒に」
リクはナダールの後ろに隠れるように立っていたグノーをひたと睨み付けた。
「何故メリア人を選んだんですか? 何故疑われるような事をした!? 今我が家は滅茶苦茶ですよ。何もかも全部この人のせいだ! あんたが兄さんの前に現れなければ、こんな事にはならなかった!!」
「リク!」
さすがの言いがかりにナダールも眉を吊り上げた。彼は何もしていない、自分も何もしてはいないのに何故ここまで言われなければならないのか分からない。
「そいつを差し出せば父さんは釈放される、今、自分がここにいるのはこの為ですよ。あなた達二人を捕らえる為に私はここに来た」
「リク?」
「まさか自分の方からのこのこ目の前に現れるなんて思ってもいなかった。さぁ、帰ろう兄さん、みんな兄さんの帰りを待っています。兄さんは無関係なんでしょう? だったらなんの問題もない」
「グノーを差し出して家に帰れと?」
「だってそいつは家族じゃない」
弟が何を言っているのか意味が理解できなかった。
確かにグノーはまだデルクマン家の一員ではない、だが私にとってかけがえのないただ一人の愛しい人だ。
「私は戻りません。彼を差し出す気もない」
「兄さんはそいつに騙されてる」
「騙される? 一体何を? 彼と生きたいと思ったのは私の意志です、誰に強制された物でもない。私は自分に嘘を吐くようなことはしていない」
なんとかリクに分かって欲しくて言葉を重ねるが、彼は首を振って溜息をついた。
その時「帰ればいい」と背後で小さく声がした。
「元々俺が望んだ訳じゃない。お前が勝手に付いて来たんだ、家族に迷惑がかかってるなら帰った方がいい」
いつの間にか、リクと一緒に来ていたのだろう騎士団員に囲まれていた。
「何を言っているんですか、私達は何もしていない。二人でいる事に他人が介入するのは間違っている」
「俺、お前の家族好きだよ。もしみんなお前がいなくて悲しんでるなら、お前は帰るべきだ。俺は一人で生きていける」
「あなたまで何を言い出すんですか?!」
「やってもない罪を被るつもりはない」
言ってグノーは剣を抜く。
「俺は行く、お前は帰れ」
言うが速いか彼は跳躍して目の前の騎士団員一人を蹴倒して、駆け出した。
「逃げたぞ! 追え!!」
ばらばらと数人が彼を追って駆けて行く。いや、待ってくれ。なんで私を置いて行く?
「帰ろう、兄さん」
リクが私の腕を引いたのだが、まるで意味が分からない。その腕を眺め、そんな事が認められるか! とナダールはその手を振り払った。
「私は帰らない、帰るべき場所はもうとっくに決めてしまった。それはお前達のいる場所ではない!」
弟の泣くような叫び声が聞こえたが、もう後ろを振り返ることはしなかった。自分は家族を捨てたのだ。愛し育んでくれた両親を私は捨てる。
心が痛まない訳ではない、それでもこの数ヶ月を共に過した彼を一人にはできない。
『運命』だからではない、彼が愛しい。抱けば自分の腕の中に納まってしまう彼が、ずっと意地を張って強がって生きている事なんてもう分かっている、そんな彼を一人にする事なんて自分にはできない。
「グノー!!」
見失ってしまう前に彼を追わなければ、誰より孤独な彼を一人になんてさせられないから。
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