10 / 10

第十話

 えっほ、えっほと駕篭者達の掛け声が聞こえる。  日中の、人々でごった返す刻限であれば、気にも留めない物音であるが、さすがに亥の刻の夜更けともなると、その声は寝静まった広小路に響き渡っていた。  その声を聞き付けた政司は、お(たな)の戸口を開き彼の大切な主人を迎え入れる。  日中の騒動については知らせを受けていたから、藤也が無事であることは解っていたが、やはり己の目で確かめないうちは、心が休まらなかった。  しかし、乗物が地面に下ろされても、何故か藤也はそこから出てこようとしないし、誠司が声を掛けても、返答はなかった。  担ぎ手二人は強ばった肩を回したり伸びをしたりしていたが、「お寝みになられていると思います。行きより駕篭が重くなりましたので」と誠司に伝えた。 「そうか。お疲れだろうからな」  同じ重さでも意識のない人の体であれば、常以上に重みが増すものだ。  城で起こった事を考えれば、寝てしまうのも仕方がないだろうが、このまま窮屈な状態で寝かせるわけにはいかない。  藤也を運び出そうと乗物の引戸を開け中を覗き込んだ誠司であったが、すぐに戸を閉め直す。 「どうかしましたか?」  竹風荘で下男として働いている定吉が、訝しげに尋ねる。 「いや。もうこんな時刻だし、お前たちもこのまま帰っていいぞ」 「ですが、お屋敷に持ち帰らないと」  お屋敷勤めの駕篭者が、乗物を指して告げる。 「大丈夫だ。返すのは明日で構わない。朝はゆっくりしていいから、昼時にこちらへ来てくれないか」 「わかりました。それでは、あっしらはこれで」  二人を見送った誠司は、重い引戸を閉じると鍵だけでなく、厳重につっかい棒まであてがった。  そうして後に残された乗物を振り返り、大きな溜め息を溢す。  その中にいるのは彼自身の命よりも大切な主であったが、今の彼には会いたくなかったと誠司は肩を落とす。 「お出になられてもいいですよ」  乗物の戸を開けて声を掛ける。  その中には、目を爛々と輝かせた刀夜(とうや)が気を失った女を抱えていた。  慌ただしい一日はまだ終わりではなかったのである。 ※ ※ ※ 「どうやって連れ出したのですか」  乗物から女――忍びの女であった――を引きずり出しながら誠司は尋ねる。  何故連れ出したのかは聞くまでもないが、上様や大御所様を襲った罪人として城に囚われているはずの者を、もしも勝手に連れ出してきたとあれば大変な騒ぎになっているであろう。 「今日一日付き合ってやった駄賃だと、じじぃに断ってきたぞ」  何か文句があるのかと言いたげな顔で、刀夜が告げるのに、まぁそれならばいいかと頷き掛けた誠司であったが、「先の将軍様を、じじぃ呼ばわりするのは止めてください」と嗜める。  本来なら罪人を連れ出した理由こそを、嗜めるべきであろうが、それこそがこの男の生きる理由であるから、嗜めても諭しても今さらどうにもなるものではないと諦めている。 「それで、まずは何をされますか?」  土間に転がした女を複雑な思いで誠司は見つめた。  女は忍びで藤也をも殺そうとした敵であるが、だからと言っての手に掛かるのは憐れだと誠司は思う。  裁きを受ければやはり死罪になるのであろうが、死の苦しみは一瞬で済むだろう。  しかし刀夜によって与えられる死となれば、それこそが極楽なのだと思えるようになる程の、恐怖と苦痛を加えられた先にようやくもたらされるものなのである。 「ああ、まずはこの頭をどうにかしてくれ」  誠司と同じように女を見下ろしている刀夜を見れば、出掛けたときとは異なり腰元の着物で、結った髪はあちこち乱れている。  そのような状態であるのをみれば、誠司の庇護欲は刺激され、すぐに刀夜の身仕度を整えようと動き出した。  店の、そこだけ床を張っている場所に刀夜を腰掛けさせると、誠司は結髪をほどいていった。  簪や飾りの布を取り去り、髪を束ねている幾つかの紐を切ると、うなじの側から逆毛を櫛で丁寧にすいてやる。  そうして一通り櫛を通し終わった誠司であったが、右耳の下辺りで髪が一房短くなっているのに気付く。 「これは、どうしたのですか?」  訝しげに尋ねる誠司に「ああ、避けそこねた」と悪びれないようすで刀夜は答える。 「避けそこねたって、まさか怪我はしていないでしょうね」  慌てて土間に飛び降りた誠司は、刀夜の体を足の先から順に調べ始める。  体の何処にも切られた様子はなく、ほっとしたのも束の間、刀夜の右頬にうっすらとした切り傷があるのを見つけ怒り出す。 「あなたは、何て事を……。ああ、痕が残ったらどうするんですか。藤也さまの体に傷をつけるなと言っているのに、よりにもよって顔に切りつけられるなんて」  憤慨し説教を始める誠司に、刀夜は呆れた視線を投げる。 「この程度の傷、舐めれば治る」 「そんなわけないでしょ」  消毒だ、軟膏だ、いや医者を呼びに行くかと言い始めた誠司に、うんざりした刀夜は「誠司、舐めろ」と言うや右頬を上にして首を傾げる。 「なっ、何を」  狼狽える誠司に、刀夜は命じる、その黒瞳を輝かせながら。 「お前が舐めれば治るさ」  夜に潜む獣のような瞳が、誠司を捉えた。  妖しく微笑む彼の唇から紡がれる言葉に、誠司は逆らうことが出来なかった。  ふらふらと魂を抜かれた人のように、刀夜に近づき誠司はその頬に顔を寄せる。  背後でくぐもった声が聞こえ、今夜の獲物であるはずの女が意識を取り戻したと知れたが、今は誠司も捕らわれた獣に成り果てていたから、餓えを癒やすため甘い蜜を貪り始めたのであった。 ※ ※ ※ ※ ※ 「あれは相変わらずの(うつ)け者にて、困っております」  告げる内容とは裏腹に、穏やかに愛情さえこもる声音で豊成が答えた。 「そうか、相変わらずか」  彼が気に掛けるのは、山内家の次男であり豊成の弟である藤也の事であった。  三年前の花見の日、姫姿の彼に心奪われた。  彼の父親である豊親からは定期的に様子を聞いてはいるが、始めて会ったあの日以来彼には会っていない。  思いがけず忍びに襲われるという事態になったが、それさえも藤也の背負った宿命の一つなのだと知った。  あの日父から聞き出した山内家の守る秘密とは、藤也の存在そのものであった。  藤也自身はもちろんだが、その存在を知る者達の動静が、今後も彼を悩ませる事だろう。  それほどの縁が彼と藤也の間には在ったのだ。 「姉上には、申し訳ない事をしているな」  藤也同様、三年前に始めて知った姉の存在だったが、彼女は既にこの世におらず、その死も息子である藤也を守るがゆえと聞いた。  そう、藤也は彼の現在ただ一人の甥であったのだ。  彼の治世に異議を唱え、追い落とそうとしている政敵らに、藤也とゆう存在が与える大義名分は想像しやすく陳腐なものである。  そのような争いに藤也を巻き込まないようにする事、それが彼と父との約束、そして姉の願いだった。  藤也自身も将軍はおろか武士としての立身出世さえも望んではおらず、空け者とそらんじられるまま放蕩息子を演じている。 「我が世が磐石であれば、あれが多少功を立てたとて、憂えることもないのだがな」  溜め息と共に漏れた彼の言葉に、豊成は否定も肯定も出来なかった。  あの日以来、主君である彼はよりいっそう政に取り組み、有力な大名らを取り込むため、その娘らを幾人も側室に迎えている。  その間に子を成してはいるものの、未だお世継ぎには恵まれていなかった。 「上様、本日は我が父豊親より、お清の方さまご懐妊のお祝いを言伝かって参りました」 「そうか、わざわざ済まないな。今度こそ期待に沿えれば良いのだがな」  古木を見つめたまま、彼は呟いた。  産まれてくる子が世継ぎとなれば、藤也の立場も少しは楽になるだろう。  とは言え、御子は授かりもの、男の子であれ女の子であれ時代を継いで行く若木に違いない。  若木を守り支えるために、古い枝葉があるのであれば、己もそのように在るしかないと彼は思う。  この冬、最後まで藤也を頼むと言い置いて、父は大往生を遂げた。  それを偲ぶかのように、あの日以来花を付けることのなかった古木は、今年花を咲かせたが、その幹はぼろぼろに朽ちており、最早次の春を迎える事はないだろう。  古木の最後を看取るように、一際大きな風が桜を散らす。  桜吹雪の中に、あの日の桜の精を見たような気がして、いましばらく彼はその場に佇ずむのであった。                      了

ともだちにシェアしよう!