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第1話

何故、人は都合よく記憶を消せないのだろう。 良い記憶ほどすぐに忘れてしまったりする。逆に嫌な記憶ほど強く脳内にこびり付く。たとえ忘れていたとしても、何かのキッカケで思い出してしまうこともある。そうやって思い出してしまった嫌な記憶は、新たに脳内にこびり付いて一生消えることは無い。蛇のようにずるずると、まとわり続ける。自分にとっての嫌な記憶は、今も『俺』の体をずりずりと這い巡っている。従って俺──宮村 律──は、誰も好きになれないと知った。 「俺と……付き合ってください!」 真っ赤な顔を下げ、俺に差し出している右手は僅かに震えていた。 きっと、小っ恥ずかしくて死にたい気分なのだろうな。 律は面倒臭いなと思いつつ、そんな目の前の男を無感情に見つめながら適当に返した。 「あー……別にいいよ」 思えばコレが、全ての始まりだった。 事の始まりは約三ヶ月前。 高校二年に進級し、とりわけ目立つ何かも、どの組織にも通ずるような派手なグループに属せるようなコミュニケーション能力も持ち合わせていなかった律は、新しいクラスに馴染めず昼食はいつも中庭で一人食べていた。新しいクラスに馴染めず─……と言っても、一年時に友達と呼べる者がいたわけではない。誰も自分にかまってくれない、だなんて悲劇のヒロインぶりたいわけではない。友達と呼べる者が居ないのは全て自分の行いのせい。本当に欲しければもっと必死に貪欲に欲しがればよかっただけの事。それを敢えてせずに一人を選んですごしているのはやはりそれが律にとって一番心地よいと感じているからに他ならなかった。元々、学校のような閉鎖的な空間が得意ではないことも独りで過ごすことに拍車をかけていた。そんな律が唯一物理的にも精神的にも独りになれる時間を過ごせるのがこの学校の中庭だった。この学校は建物が二つに分けられて渡り廊下でつなげられている。空から見ればカタカナのコの字になっており、真ん中のぽっかり空いた空白部分が中庭というわけだ。中庭の真ん中には大きな桜の木が一本だけ堂々と植えられていて、まるでこの木を囲うように気を遣って学校が建てられたようにも感じる、何ともバランスの良い造りだった。そしてその木に添えられるように茶色い木製の二人掛けほどのベンチが設置されている。これは律が入学した時から……つまり去年の四月にはすでにあった物だが、桜の木の貫禄のせいかベンチの存在は薄いように思えた。ベンチ自体も年季が入っているとは言い難い木目の新しさを感じる。恐らくここ二、三年に置かれた物なのかもしれないな、となんとなく思っていた。そのベンチが古いか否かを気にするほどの繊細さを律は持ち合わせていないので些末なことだが、貫禄溢れるこの桜の木と並んでみてしまうと、ベンチが必死に桜の木を惹きたてようと頑張っているようにも見えて些か滑稽な様だった。建物に遮られて陽のあたりはさして良いとは言えないが、程よい風が適度に通っており、あまりの心地よさに居眠りしてしまうこともしばしばあった。そんな中庭の端っこのベンチの右端は、入学した時から自分の特等席だと律は勝手に思っていた。そして例にもれず今日もお気に入りの携帯ゲーム片手に、購買で買った菓子パンを一人、もちもちと食べていた。このゲームアプリは昨年末配信された無料でプレイできる謎解き推理ゲーム。しかしプレイヤー自身は犯罪者というなんとも珍しい設定。大体の謎解き推理物においてプレイヤーは、かの有名な推理小説のキャラクターで例えればホームズ役になれるはずだ。しかしこのアプリでは犯罪者として疑われているプレイヤーが何とか巧みに隠蔽工作をし、疑いから逃れるというもの。律は推理というものをしたことはなかったが、こうやって視点を変えてみると何とも新鮮な気持ちになり気分転換として殺人の罪に問われている自分自身の疑いを嘘で塗り固めて逃れるのがここ最近のブームだった。……まあ、現実でこっちの立場だったら迷わずバレて刑務所生活待ったなしだろうなあ、と律が選択した単純な嘘に騙されていくゲームのキャラたちを見つつ、パンを頬張っていると突然、人影に包まれ顔を上げる前に声をかけられた。 「ねぇ、キミ宮村(みやむら) 律(りつ)くんだよね?」 顔を上げると、目の前に居たのは入学式から女子生徒の間で、常人離れしたルックスのせいか『王子』と騒がれ持て囃されていた男子生徒、由伊(ゆい) 陽(はる)貴(き)がそこにいた。 名前くらいは知っている。だって、首席合格で新入生代表挨拶をしていたし、女子のみならず、男子にまでもその性格の良さから人気があった。そして持ち前の優秀さを活かして、生徒会にも推薦され今年副会長になった同学年の憧れの人物なのだから。そんな奴がなんで自分なんかの所に来たのかさっぱり分からず、律は菓子パンをもぐもぐしながら首を傾げた。 「……なんですか?」 「あの俺、由伊って言うんだけど……」 頬を若干赤らめ、目を泳がせもじもじし始める目の前の男に律は訝(いぶか)しげな顔を向ける。 なぁに急にもじもじしてんだぁ?この人は。 律はよく分からないまま砂糖の塊のような甘さの菓子パンを食べ続けた。数秒経った後、意を決したように彼はぱっと顔を上げ、何の気なしにずっと見つめていた律とばっちり目が合った。瞬間、彼はカァッと顔を赤くし、折角上げた端正な顔を勢い良く下げ今度は右手を律に差し出して、口を開いた。 「俺と……付き合ってください!」 これが冒頭の経緯だ。ぷるぷると震える彼の手を見て陰キャ歴長い律は察して「(あぁ……)」と脱力する。やけに緊張した雰囲気を出すから何事かと思った。 ……よくある、罰ゲームね。はいはい。陽キャの間でたまにあるアレだろ?ゲームに負けたヤツは罰ゲームとして陰キャの女、ないし男に嘘告白するっていう悪趣味なアレ。皆に王子ってちやほやされているコイツでも、そういう事するんだ。……性格が良くて、優しいって評判のこの男でも。 律は何故か無性にガッカリした。元々コイツに期待していた訳でもないし、寧ろ興味なんて無かったが、結局こういう人間でも量産型の人間なのだな、と勝手に落ち込んでいた。顔が赤いのは、羞恥心、手が震えているのは、笑いを堪えているから……辺りかな。律は面倒になり、適当に返した。 「あー……いいよ別に」 好きにすれば、と。そう答えた瞬間、勢い良く頭を上げていた由伊は「え⁉本当に⁉」と物凄く驚いていた。紅に染まった顔と、見開かれた濃い茶色の瞳、オレンジに染めているらしい髪の男はいかにも嬉しそうに顔を綻ばせていた。 ……あー、優秀な奴は演技すらも上手いんだなぁ。 そんなに表情を変えても、崩れないルックスに律は感心した。この学校、偏差値はそこそこ高いからか、校則に関しては都内でも緩いと有名だ。でなければ、染髪しているような生徒が代表に選ばれるわけはまずないし、そもそも生徒会の会長もたしか一年の時から髪を青くしているって、集会の時に隣に並んでいた女子がひそひそと話していたのが聞こえた。由伊は何やらぺちゃくちゃと凄い勢いで話しているが、律は菓子パンを食べながらぼうっと別な事を考えていて、全く聞いていなかった。 優等生でも染めたいと思うんだなぁ。……あ、この菓子パン、中に餡子入ってたんだ。俺、餡子は苦手なんだよなぁ……。あ、そうだ。 「なぁ、由伊」 「なに⁉」 「付き合った記念に、コレあげるよ」 律は悪戯ににやりと笑って、自分の嫌いな餡子を差し出した。 すると、由伊はパァッと星が見えそうなくらい瞳をキラキラさせて「いいの⁉」と言いながら食いつく。おお、そんなに好きか餡子。では全部やろう。 グイグイと由伊にパンを押し付け、由伊は嬉しそうに全部頬張っていた。リスみたいにほっぺたを膨らませて、幸せそうにもぐもぐしている。さて、このゲームはいつ終わるのだろうか。暇つぶしくらいになれば良いけどなと、目の前の男が、吐き出したい欲求を堪えて律のために餡子を丸のみしようとしていることなんて気づきもしないまま律はのんびり、パンを口いっぱい頬張るイケメンを見つめていた。 「ふわぁ……」 ピコピコといつも通り、由伊の家でテレビゲームをする。 何故か、罰ゲームで嘘交際を始めてから律は由伊に週に五日は「家に遊びに来ないか」と誘われていた。一番初めは、律くんが気になってたゲームがあるからおいで、二回目は律くんが好きなスイーツ店のケーキを買ったからおいで、三回目は律くんの好きな映画借りているからおいで、……そんなこんなでズルズルと律はいとも簡単に物に釣られて由伊の家にお邪魔しまくっていた。けどここ最近、流石に週五日は迷惑だと思い、誘われても週三日までに抑えることにしていた。断り始めて暫くはまた物で釣られそうになったが、由伊も意志の固い律に諦めたのか三日かかったが漸く妥協してくれたらしい。何をそこまで自分を家に呼ぶ事に固執するのか律は不思議でならないがわざわざ理由を訊こうとまでは思わなかった。どうせ彼の仲間にちゃんとやれ、とでも言われているのだろう、と。律からすればタダでご飯が食べられ、自分の好きな物が何でも揃っている場所に何時間でも居ていいなんて言われたら断らないはずないし、寧ろ居心地が良かった。もはや握り慣れたコントローラーを手にしてゲームをしつつ、横に居る由伊をちらりと見る。真剣な表情でテレビを見つめ、律に負けぬよう目凝らして必死にゲームをしている、学校の王子。一年前の自分からしたら友達がろくに居なかったくせにいきなり、学校のプリンスとお家で遊ぶ事になるなんて思わなかっただろうよ、と端正な横顔を見つめていたらテレビから軽快な音楽が流れた。 「よっしゃあ!勝ったよ、律くん!」 由伊はにっこにこで嬉しそうに律を見てくる。二人きりの時だけ、律は下の名前で呼ばれている。それが律に対して「ちゃんと恋人扱いしているでしょ?」という由伊なりのアピールなのか何なのかは知る由もないが。由伊の台詞を聞き画面に顔を向け、自分のキャラがゲームオーバーになっている姿を見て「あーあー」と適当に言った。律は飽きたと言わんばかりに携帯を取り出し、ピコピコと弄りつつ、このゲームオーバーの文字を見て思う。自分達のゲームはいつ終わるのだろうか、と。そろそろ三ヶ月経ったし、もう良くないか?誰も楽しんでないだろ、コレ。ふとそう思い、携帯に目を向けながらなんとなく由伊に話しかけた。 「なぁ、由伊」 「なぁに?律くん」 そのまま由伊を見ずに言う。 「このゲーム、いつ終わりにするの?」 「え?いつでもいいよ?」 思ったよりあっさりとした答えに、律は拍子抜けをしてしまった。三ヶ月も続けたから、もしかして半年ぐらい付き合えとか言われるのかと思ったのに。 ……ああ、そう。いつでも良かったのか、終わるのは。 律は普段と変わらぬ声音のまま「そっか」と返し、早々に鞄を持って立ち上がる。 「ならもう止めにしよ」 由伊も慌ててコントローラーを置いて立ち上がる。 「あ、うん!もう帰るの?今日は早いね」 少し残念そうな顔をしたのは多分、自分の気の所為だろう。 「終わるなら早めの方がラクだし」 「え?……うん、そうだね?」 由伊の頭にハテナが見える気がするがそれも俺の気の所為だろう。律はズボンのポケットに手を突っ込み、由伊の部屋を出ようとドアノブに手をかけた。 「じゃあね。今までありがと」 一応礼を言って部屋を出ようとした、その時。グイッと力強く腕を掴まれ、ダンッと強く壁に押し付けられた。律は背中を激しく打ちつけ、思わずゲホゲホッと咳き込む。目の前が、くらりと揺れた。 「な、なにすんだよ急に!痛いな!」 そう怒鳴り、由伊の顔を見た律は固まった。誰だ?目の前の男は。俺の知っている由伊 陽貴は、いつもニコニコ笑顔で誰にでも優しく、怒ることはなくて困った顔をして微笑むだけの、優男のはず─……。 今律の両手首を力強く壁に縫い付け、見下ろしているこの男は由伊じゃない。キッと律を睨み、眉を寄せ前髪で影ができ、怒りに満ちていた。律は自分よりいくらか背の高い由伊を見上げる。心臓がバクバクする。ギリッと握られた両手首は、悲鳴をあげている。 痛い、痛い、痛い─………………怖い。 「……ねぇ、今までありがと、ってどういう事?」 静かな声で問われた律は、どう答えるべきか分からず恐る恐る声を出した。 「……だって、……罰ゲーム……だよね?」 思ったより自分の声が震えていることに気づき情けなさに少し落ち込む。律の言葉を聞いた由伊は一層目つきを悪くさせ、ドスの効いた声で律に「は?」と言った。声だけでなく全身も震えだしそうな体を必死に抑え込み、口を開く。 「……付き合う、ってやつ……、何かの罰ゲームで……仕方なく、……でしょ?」 精一杯そう言って由伊を見つめると、由伊は「はぁ⁉」と目を見開いて、律の顔を覗き込んだ。 「うぐっ!」 律の頬を片手でガッと掴み、無理矢理上を向かされ思わず声が出てしまう。由伊ってこんなに力が強かったんだ。 「……宮村、ずっとそう思って俺と一緒に居たわけ?」 呼び方、宮村になってる。……いつもは、『律くん』なのに。 「……俺が、冗談で他の人とやった何かのゲームの罰だと思ってたわけ?」 言葉を発する度に、強くなる力に律は現実から背けるようにぎゅっと目を瞑る。 「……目、開けろよ」 低い声に、びくりと肩を揺らす。 「……なぁ、本気で言ってんの?」 痛い、痛い…… なんでこんなに怒っているのか分からない。じゃあ逆に、あの告白が本気だったとしたら尚更、理由が分からない。 「俺、マジだったんだけど」 「……え」 由伊から絞り出された弱々しい声に驚き、恐る恐る目を開ける。そこには先ほどまで怒気を放っていた由伊は居らず、情けない顔をした由伊がいた。 「マジで宮村の事好きなんだけど。気づかなかった?」 落ち込んだ表情の由伊を、思わず見つめてしまった。顔がいいと、落ち込んだ顔すらも色っぽいのだな、なんて拘束の力を緩められた瞬間から呑気な事を考えてしまう。 「……マジ、って……なんで?……俺、キミとなんの接点も無かったじゃん」 いつの間にか力が緩められ、痛みが無くなった分、律は落ち着いて話す事が出来た。 「……一目惚れだよ、ばか」 そう言うと、由伊は律から手を離しずるずると座り込んだ。脱力してしまった彼を心配になり、律も一緒にしゃがむ。 「……ひとめ、ぼれ……?俺に?」 「そうだよ……。入学式の時、宮村遅刻して来たじゃんか」 「あぁ、そういえば」 入学式の日は寝坊して、もう走っても遅刻確定だったから諦めて歩いて行ったんだった。 「宮村が、校門から昇降口までの桜並木の下を歩く姿が凄く綺麗だと思ったんだよね」 「えぇ?」 徒歩姿を褒められたのは人生で初めてだ。 「桜の花びらが舞い散る中、色素の薄い髪がサラサラ揺れてさ、気だるそうに歩く宮村に、すごく見惚れた」 世の中には随分、変わったヤツが居るものだ。 「それから目で追うようになって、でも宮村とクラスが違うからどう頑張っても接点が作れなくて……。ほら、宮村友達居ないでしょ?だから、共通の友達通してってのも出来なくて……」 「……あれ、今は俺の事が好きなんだよーって話だよね?」 なんでちょっと貶(けな)されたんだ、心外だな。……事実だけど。 「だから、俺が目立つしかないと思ったんだ」 あー、友達いない云々についての俺からの言及は無視ね、無視。超無視。 律は諦めて聞くことに徹した。 「テストとかスポーツで一番取ったり、皆にちやほやされて話題になったり、生徒会とかに入れば皆の前に立つ機会多くなるし……とか、いっぱい考えた……」 え、この人が優秀な理由って、もしかし……なくても、俺? 「でも、どれだけ頑張っても宮村の瞳は俺を捉えてくれなくて……。二年に進級して同じクラスだって知って好きな気持ち、我慢できなくて俺、もうどうにでもなれと思って、あの日、宮村に言ったんだよ」 真っ直ぐに見つめられた瞳に、俺は「ああ、そうか」と思った。あの時の赤い顔は、羞恥心。震えていた右手は、緊張や恐怖だったんだ。 「……でも、そっか……。罰ゲームだと思ってたのか……」 明らかにしゅん、とした声に律は思わず手を伸ばした。自分に何ができるわけでもないくせに、気づいたらオレンジ色に染められた髪を優しく撫でていた。 「……宮村?」 きょとんと見てくる瞳を、俺は真っ直ぐ見つめ返す。 「ごめん。俺が勝手に思い込んでいた。ごめんなさい」 そう言うと、由伊は少し顔を赤くして目を泳がせ俺に訊いてきた。 「……じゃあ、三ヶ月越しの宮村の本当の気持ち、今、訊かせてよ」 ずっと、ゲームだと思っていた。罰ゲームで誰かにやらされているのだ、可哀想だと他人事のように思っていた。でもそれは誤りで、由伊は本気でぶつかってきていた。きっと、由伊にとって、一緒に食べて、一緒にゲームして、一緒に笑い合ったこの三ヶ月の日々は、恋人との大切な甘い時間だったのだろう。女子からの誘いを断っていたのも本気。俺に振り向いて欲しくて、勉強も運動も生徒会も頑張っていたのも事実。 ……なんで、思い込んでしまったのか。……悪いこと、しちゃったな。 だから更に残酷な罪を重ねないよう俺は、由伊を見つめて言った。 「ごめん」 「え」 驚愕した由伊の声が聞こえる。 「……ごめん。付き合えない」 律は再度、はっきりと困惑する由伊の瞳を見つめ返し、思いを告げた。 「え、え、なんで?俺といた三ヶ月つまんなかった?俺、何が足りない?何かした?」 律の手をぎゅっと握り、捨てられた子犬のような瞳で切なく縋ってくる由伊の姿につきり、と心が痛んだ。 「由伊は何もしてない。悪くない。悪いのは、俺の気持ちだから、ごめん」 そう伝えると、由伊の両目にみるみる涙の膜が張る。 「お、俺が男だから……?本気って知ったら気持ち悪く、なった?引いた?……き、……きらいに、なった?」 ぽろぽろと大粒の涙を流し、鼻の頭を赤くしながら泣く彼に、律は頭を横に振る。 「違う。由伊が男だからとか由伊が悪いんじゃない。……俺が、誰も好きになれないんだ」 その言葉を聞いた彼の瞳は見開かれ、律を捉えたまま固まる。待てどもさっきの台詞の真意が語られないことに少々不満げな顔をした由伊に、慰めにすらならないような言葉を何故か続けて聞かせていた。それは言い訳に似た本意。律の言葉を聞いた由伊は、一瞬呆然としまた泣き出した。学校のやつらが見たら驚愕するくらいにはぼろぼろと子供みたいに泣いて、言った。 「そういうのが……いちばん、残酷なんだよ……っ」 律はただひたすら、こんな自分を好きになってくれた由伊に謝る事しか出来なかった。 謝り続けたが、いつまでも自分が此処に居座り、彼が望む言葉を返せない自分が中途半端な情を注ぎ続けていたら、ただ彼を傷つけ続けるだけなのではないかと思い、最後にもう一度「ごめん」と伝え、由伊の部屋を後にした。追いかけてくる事もなく、縋られることもなかった。ただただ、切なげに涙を溢し続けていた。彼の綺麗な心を傷つけてしまったのだ。もう話しかけてこないだろうな、こんなクズなんかに。 ……ごめん、由伊。 律が去っていた自室で一人、由伊は床に座り込み天井を見上げた。 夢かと思った。 『あー……別にいいよ』 ずっと好きだった人が、自分の告白にイエスと答えてくれたこと。好きな人と両思いになれたこと。夢だと思った。でも、それは、本当に夢だった。 『……罰ゲーム、……だよね?』 今まで怖がらせることのないよう必死に抑えていた醜い己をさらけ出した由伊に、怯えていた彼。力任せに握ってしまったから、細く白い手首にはくっきり痕がついてしまっていた。それはそれでなんとも言えぬ満足感を心の奥底に感じたのは彼には言えない。本当は大切で、壊さぬようにずっとずっと手を出さずに堪えていたのに。何度爪が手のひらに食い込もうと、何度下唇に血が滲もうと。だが律の思いもよらない台詞に、由伊の思いは呆気なく崩れ去ってしまった。高校入学前に改めて律を見かけたとき、本当に綺麗で愛らしい人だと思った。色素の薄い茶色の髪、白い肌、骨格が華奢で、そこら辺の女より細い腰、平たい身体、アキレス腱の筋が浮き出て、足首が細いせいでまるで、切ってください、と言っているようだ、と。末広の二重で垂れ目がちな大きめの瞳。長いまつ毛がアクセサリーのように縁取られていて、これが女だったらさぞ周りから羨まれていたのだろうなと思うほどに、彼の容姿はかわいらしかった。人を映すことなんか滅多にないような彼の瞳に映ってみたかった。あわよくば入り込みたかった。桜色の唇は、少しかさついているように見えた。しかしそれらの容姿の良さにまるで気づいていないとでも言いたげに着飾らず、表情を変えない彼を笑わせて見たかった。彼の、心からの笑顔が見てみたかった。細い首は、青い血管が透けていてとても美しい。喉仏が出ているのが扇情的で、飲食物が通る度にそれが上下するのがやけに色っぽくてずっと眺めてしまう。人を寄せつけないオーラを常に纏っているからか、彼には友達が居なかった。……いや正確には居ないわけでは無かった。一人、滅多に学校に来ない男が彼と話しているのを唯一見た事がある。だが、滅多に来ないから友達と呼べる程でも無いのだろう。だから由伊は、独りの律が好きなのだ。誰のモノにもならない、そういう意思を感じさせるこの男が。着飾らない、自分の存在を鼻にかけない、寧ろ己の存在を認識されたくないとでも言いたげな孤高の人間が、自分だけを見つめてくれるようになったらどれだけの優越感を味わえるだろうか。この美しい男を、自分の手でぐちゃぐちゃにしてやりたい。蕩かしたい。 ……そう、思っていたのに。 「ごめん」 バレてしまったのか、醜い思惑が。でもただ由伊は、律を好きだっただけだ。聞こえた拒絶の声には意図せず涙が溢れてしまう。どうして?俺は宮村を幸せにする自信があるよ?どうしてダメなの?何がダメなの?男だから?でも、律は首を横に振り由伊の言葉を否定した。由伊が悪いのではない、自分が悪いのだと。人を、好きになれないからだと。そうか、だから彼は誰も瞳に入れないんだ。興味が無い、好きでも無いから。映したくないのだ、人間を。……そんな人間が誰かを好きになったらどうなるのだろう。 律が去っていった部屋の扉をじっと見つめる。ずっと謝り続けてくれていた彼。 ……好きだよ、律くん。じゃあ、好きにさせてみせるね、かわいいかわいい俺の律くん。 まずは自分のことをよく知ってもらわなきゃ。そして、律くんの事ももっと良く知らなきゃ。隅から隅まで全て知り尽くして、律が自分を一瞬でも捉えた時……、俺以外見えなくしてあげなきゃ。力を入れすぎていたのか、いつの間にかまた手の平に爪が食いこみ、血が滲んでいた。 「宮村!俺はねぇオムライスが好きだよ!」 「へぇ」 「あと、炒飯も好きだけどシーチキンが入ってるヤツがいいんだよねぇ」 「ふぅん」 「あ、オムライス好きって言ったけどトマトは好きじゃないんだ、ケチャップは平気なんだけど!」 「へー」 「ぐちゃあってするあの食感がもう嫌!」 「んー」 ぴこぴこと操作する律の指は止まらない。至極どうでもいい。もう丸三日、由伊はこんな調子で律に話かけてきていた。自分の好きな物、嫌いな物、生年月日、星座、得意な事、苦手な事、好きなタイプ、好きな動物、苦手な動物─……などなど。その言葉たちは嫌でも律の耳に入ってくる。そうして思った。自分たちは三か月も一緒にいてお互いの生年月日すら知らなかったのだな、と。由伊は律の事については何故かあまり訊いてはこなかった。それが自身に踏み込まれるのを恐れていた律の心情を察してなのか、はたまた律の事を好きだと宣いつつも結局は、自分の事にしか興味がないような男だったのだろうか。律はこの間の一件があってから、多少なりとも気まずい感情を持って登校して来たのだが、それは杞憂(きゆう)だったようだ。以前と変わりなく好き勝手に話し掛けてくる。変わったことと言えば、家に誘って来なくなった事と、先も言ったように自分の事を話すようになった事くらい。これまでは当たり障りのない事を話していただけだったけれど、何故か今は由伊が自分の情報を延々と話してくる。まぁけど、そのどれもが律からしたら興味が無いので、毎回聞き流している。自分がちょっと気に病んでいたのがバカみたいじゃないか、と思うくらいに晴れやかな笑顔の彼を見て、律は溜め息をついた。そして、もう一度律が溜め息を吐きたくなる問題がある。 「ねぇ由伊くん〜。もういいじゃあん。あっちで一緒に話そおよぉ〜」 ……由伊は必ず取り巻きを連れてくるから騒がしくて仕方ないのだ。 まるで自分の男だ、と言わんばかりに由伊の腕に自身の腕を絡めた女子が、甘えた声を出す。由伊がそれを無視して律に話しかけるものだから、律は理不尽に睨まれる羽目になるのだ。……俺なんも悪いことしてないよね? こんな感じで毎度毎度、気疲れを起こしていた。 「あとあと……」 「チャイム」 由伊がまだ話を続けようとしてきたので、始業のチャイムが鳴った事を教えてやる。 それを無視しようとしていた由伊は律に指摘され「うぅー、またねー」と不服そうに女子を引き連れて自席に戻って行った。それを見届けつつ、今日何度目か分からない溜息を吐く。息を吐くと疲れをより感じた気がして、ぐでっと机に伏せた。 「宮村ぁ〜号令前に寝んなぁ」 担任に名前を呼ばれ、顔を上げる。勉強はあまり好きではない。出来ないことは無いと思うけど、だからと言ってしたいわけでは無い。 「宮村ぁ〜!次目瞑ったら怒るぞぉ〜」 はっ……、いつの間にか目を瞑ってしまっていた。ぱちっと目を開けて、先生を見る。 「よーし、じゃあ始めんぞー」 教科書を開き、数式が目に入る。ああ、コレはダメだ。……寝てしまう。三度目にはいよいよ担任からのチョップをくらい何気にちょっと痛くて涙目になった。 一日の授業がやっと終わり、生徒達は荷物を持ってそれぞれ友人と他愛無い話をしながら出ていく。由伊もさっき、律儀に挨拶をしに来て生徒会の集まりへと向かって行った。この間まで、しつこいくらい誘ってきたのに最近はパタリと止み、今は放課後の時間を生徒会にほぼ毎日費やしているらしい。かまわれることが無くなった律はかなしいかな、否、これ幸い、と、用事がないのでさっさと鞄を持って帰ろうと席を立ち上がった。その時、 「ねぇ、宮村」 思いもがけない人物から呼び止められ、律は「え」と声を出してしまう。 この子、由伊にいつも着いてまわってる女子じゃん……。 いつも律に理不尽な睨みを効かせてくる女の子。そんな彼女が放課後の、誰も居ない教室で話しかけてくるなんて絶対によい話でないことは明らかだ。 「アンタさ、なんでいつも由伊くんに構ってもらってんの。弱みでも握ってるわけ」 まさかのセリフに、返す言葉が思い浮かばない。てか寧ろ、由伊の弱みってなんだ。あるのか、あんな完璧そうな人にも。 「ホモなの?アンタ」 顔を近づけて言われ、思わず一歩下がる。もう教室には誰もいない。何かをするのなら絶好のチャンスそのものだ。……無視して帰ろう。 そう決めて、鞄を持ち直し教室を出ようとすると、ぐいっと腕を強く掴まれた。 「ちょっと、無視しないでよ」 「……なに」 諦めて応えると、彼女は嫌な笑みを浮かべて言った。 「着いてきて」 女の子の手を無理には振り払えず、ずんずん力強く進んでいく彼女の後ろを引っ張られながら着いていく。 「ねぇ、どこ行くの……っ」 焦る律の言葉を無視し、彼女はある教室の前で立ち止まる。 「ここ、入って」 教室の扉を開け、暗い室内が視界に広がる。僅かな埃くささが鼻につく。恐らく何年も教室としては使われていないのだろうな、という雰囲気にどくり、と心臓が嫌な脈を打つ。 「……入りたく、ない」 聞き入れてもらえるだなんて思ってはいなかったけれど、心が危険信号を出している以上足が進められなかった。ここは嫌だ。何がなくとも好んで入りたいとは思わないだろう。訴えればあるいは……だなんて淡い期待もむなしく律の力ない呟きに、苛立ちを隠そうともせずちっと舌打ちをした彼女は掴んでいた律の腕を思い切り引っ張り、闇が広がる教室の中へと放り込んだ。その拍子で何かに躓き、そのまま埃っぽい床に倒れ込んでしまう 「い、って……」 体を打ち付け痛みに少し呻き、扉の外に立つ女の子を見上げると、彼女は笑いながら言った。 「ホモはホモらしく、可愛がってもらいなよ宮村」 「……え……?」 言葉の意味が分からぬまま茫然とその場で硬直した。彼女が扉を閉めてガチャリと鍵をかけその場から立ち去る足音だけは、はっきりと認識できた。室内は遮光カーテンが閉められており、唯一開けられ、僅かながらにも光が差し込んでいたドアも、女子によって閉められてしまったせいで現実から遮断された気分になった。心臓の音が速くなるのが嫌でもわかってしまう。 閉じ込め、られた……。 「お前が、宮村?」 絶望に苛まれてあわてふためく暇もないまま、不意に後ろから男の声が聞こえ、ばっと振り向く。良くない状況だ、まずい、どうしよう─…… 「俺、宮村じゃない……田中……」 「いや、さっき宮村って呼ばれてたろ」 男はハハッと軽く笑い飛ばす。咄嗟についた嘘で逃れられるはずもなく、がしりと肩を掴まれ、ダンッと音を立てて床に押し付けられた。 「い゙っ……」 暗闇に目が慣れて、人の顔がぼんやり見えるようになる。どうやら、男が複数居るようだ。 なんで、こんなことに。 「俺たちさ、お前のこと犯せばあの女にヤらせてもらえんだよね」 「まぁ、男とヤるとか普通にキモイから勃たねーと思うけど」 ギャハハと下品な笑い声が教室内に響き、律は変な汗が噴き出してくる。 「……じゃあ、離せよ」 必死に声を絞り出すと、男は律の両手を床に縫い付け「はぁ?」と馬鹿にしたように言う。 「っせーよ。黙ってろ」 「やめろっ!離せ!」 男達は恐らく三人程居て、後ろにいた二人が俺の体を押さえつけ、残りの一人が律の服を脱がしにかかっている。ブレザーを脱がされ、ベルトを外されズボンと一緒に雑に下ろされる。一瞬だけ隙ができたので、男の顎を殴り立ち上がろうとしたが、 「うぐッ……」 顔を思い切り床に叩きつけられ、左頬がじんじんと痛む。頭を揺さぶられたせいで、吐き気もしてきた。 「やめ……っ」 「大人しくしてろよ、めんどくせーな」 下着を脱がされそうになり、精一杯抵抗した。きっと一般男子よりは性関連に疎い方だと自分では思っている。多少、最低限の事は知っているし、経験がないわけではなかった。果たしてアレをカウントするのであれば……の話ではあるが。ただその経験を持ってしても律の性行為に関しての知識は曖昧で『暴力』であることしか分からない。嫌なのだ、どうしても、触られたくない。たとえ将来好きな人ができたとしても律にはその人を触れられるかすら危ういものなのに、こんな得体のしれない人間にどうして人生で、何度も、何度も、何度も、身体を暴かれなければならないのだ。男だからとか、女だからとか、そんなものは関係ない。人として踏み込まれたくないのだ。自分でさえ触ったことのない身体の内部なんか触れられたくない。 ─……こわい 空き教室内に放置されていた今は使われていない机や椅子に散々体をぶつけあちこちが痛む。口の中も切ったらしく、血の味がする。頭も痛い。抵抗する度に殴られ、律は『あの出来事』がフラッシュバックしてしまう。 ……やばい、ここでパニックになったらやばい……やばいやばいやばい…… 「顔上げろ」 ついに下着を脱がされ、ワイシャツの前を思い切り破かれる。 ボタンが弾け飛び、からんころ、と音を立てていった。もう抵抗してはいけないと悟った律は大人しく、力を抜く事にした。 ……どう抵抗しても無駄だ。俺は『また』、人形になるしかナインダナ。 * 「ゔぅ゙……っ」 パンッパンッと激しく肌と肌のぶつかり合う音がする。あまりの痛みに律は叫びそうになるが、下唇を噛んで耐えていた。声を出すと殴られてしまう。散々弄ばれた身体は、徐々に熱を持ち始め信じたくはないがコイツらの手に翻弄され始めている。後孔に無理矢理捩じ込まれ、嫌でもソイツの形になってしまう。ずっと、ずっと激痛で吐き気が止まらない。流したくもない血と涙が、無意識に流れてしまう。 「なぁ、中々イイ顔してんじゃん」 「……んぅ……ッ」 ぴちゃぴちゃと水音が鮮明に聞こえ耳までも犯される。ゾクゾクと駆け上がるこの感覚が、嫌で嫌で仕方が無い。腰が疼いてしまうのも、憎たらしい。けれど、苦痛を越えた後の快感にはどう足掻いても抗えず、段々と声を漏らすようになっていった。こんなものは快楽とは呼ばない。暴力以外の何物でもない。男のモノがゆっくりと律の腸壁を擦りあげる度に、腰がびくりと大袈裟に反応する。 「ぁ……あん……っ」 「ココも触ってやんねーとなぁ」 「んぁ……!ぁ、や……ッ」 痛いほど強く胸を触られたかと思えば、二つの小さな粒を好き勝手にくにくにと弄られ、思わず喘いでしまう。そのうち、もう一人の男に自身の中心の浅ましく醜い欲望をくちりと扱かれ頭がボーッとした。人間にとって敏感な三箇所を一気に攻められ、律は開口しきってしまう。 「おい、涎垂れてんぞ。そんなに気持ちいいのか、男に掘られて」 「ひぁああッ!」 ぐ、と最奥を突かれ、びくびくと身体が痙攣し思わず白濁を吐き出してしまった。 「何勝手にイッてんだよ、テメェ」 「ぁ、あぁ、ま、まって……イッたばっか、やぁ. ……ッ!」 吐き出したばかりで敏感なモノを、男に無理矢理扱かれる。先程からナカを突いている男の腰は止まらず、前立腺への刺激も止まらない。敏感な自身を弄られ、律は快感が苦しくてぎゅうっと後ろを締め付けてしまう。 「くっ……締めすぎだろ、お前ッ」 「おい、動画撮っとこうぜ。勝手に射精した罰」 「おー、いーな。おめーの携帯で撮れよ」 ぬちゅぬちゅと水音が激しくなり、律は目を見開いて携帯を構える男に手を伸ばす。 「ぅあ、ま、まって、やだ、ぃや……ッ!で、でちゃ、おしっこ、おしっこでちゃう……ッ」 男はニヤニヤしながら、「おー、お漏らし宮村くんでちゅか〜?」などと言っていたが、もう律の耳にはそんな言葉は届かず、尿道を上がってくる恐ろしい程の何かが与えてくる快感に喘ぎが止まらなかった。 「あ、あぁああぁ……ッ!」 びくびくっと大きく痙攣しながら、律はぷしっぷしっと大量の水を吐き出した。 「うわ、おいこれ潮じゃね?」 「は、嘘だろ。男も潮とかふけんのかよ、ウケる」 「う、イク……ッ」 「ぁ、あぁ……ッ!」 ずぷり、と深く突かれ、再び身体が痙攣した。じわぁ、と熱い感覚をお腹の中に感じる。ゆっくりと、引き抜かれ質量を無くした下腹部は途端に寂しくなり、後孔はくぱくぱと無意識に開閉していた。 「うわぁ……えっろ」 とろり、と後孔から垂れる男の精液も動画に撮られていたが律は、身体が痛くて身動きが取れずボーッと寝転がりそのまま意識を失ってしまった。 「またな、宮村くん」 そんな下卑た笑い声を纏う男たちの声はもう、聞こえていなかった。 「……いッ……」 次に目を開けた時、男達は居なかった。代わりに、カピカピになった下半身と軋む身体、悲鳴をあげている腰。これらの痛みが夢では無かったのだと、嫌でも教えてくる。とにかく帰らなければ。今が何時かは分からない。ただ、まだここに居ることが気づかれてないということはそう遅い時間では無いのだろうと決めつけ脱ぎ捨てられた下着と制服を着直して、ずるずると重い体を引きずって教室を出て、誰にも会いたくなくてさっさと学校を出る。あまり人通りのない道を選び、家に着く。靴を脱いで、急いで風呂に飛び込んだ。頭から冷水を被り、必死に体を擦った。消えない、消えない、消えない─……男達の感触、声、消えない。プラスされる、記憶。重なる男たち。フラッシュバックが、やまない。消えない過去として蓄積していく現実が、酷く重い。 『嫌だ』 「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!」 ダンッとシャンプーのボトルを壁に投げつけ、泣いた。呼吸が乱れる、構わない、死ぬかもしれない、構わない。寧ろ、……死んでしまいたい。 誰も助けてくれなかった。誰も。一人だった、誰も居なかった。いつも一人、あの時も今回も、……これからも、独りなのだろう。分かっている、期待なんてしちゃいけない。すればするだけ自分が惨めになる。 『嫌だ』 頭に響く自分の声ですら、今の自分を否定しているように思えてならない。ゴシゴシとタオルで擦りすぎて、皮膚がめくれてしまった。それでもいい、構わない。嫌なんだ。見知らぬ男から与えられたのは、苦痛の筈なのに、自分は、感じてしまっていた。もっと、血が流れればいい。流れた血液から、同時に醜い己の細胞も流れていけばいい。 いつの間にか手に持っていた剃刀と、流血している腕。シャワーの水が血を洗い流し、排水溝へと導いていった。棄(す)てられる己の一部を視覚化された事により安心感を覚えた。落ち着いてきたところで胃が痛いことに気が付いた。 キリキリと軋む胃を抑えつつ、暫く冷たいシャワーを浴び続けた。 自分が何をしたと言うのだろう。 運が無いと言ってしまえばそれまでだけれど、そんな言葉一つで終わらせるには、あまりにも重く苦しい毎日だった。 『たすけて』 この言葉一つ言えない自分もまた、憎らしいと思った。

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