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第3話

「桐島」  桐島は抱かれた後、呼吸を乱したまま、天井を見上げていた。部屋の外はもう薄暗く、大分長い間桐島を翻弄していたのだと黒沢は思った。 「…………っ」  喉を痛みに引きつらせて、桐島は咳込んだ。汗に濡れた肌が、小刻みに揺れる。身体中に散らばる紅い痣が、まるで薔薇の花びらのようだった。 「つらいか」  苦しくないように仰向けだった身体を横にしてやる。桐島はちらりと黒沢に視線を向けたが、すぐに目を閉じた。かなり、苦しそうだ。男は初めてだった。しかも、セックスそのものが、桐島は初めてだったようだ。何を言われても構わない。だが、謝るつもりもない。開き直っている黒沢に、桐島は小さな、かすれた声で言った。 「……捕って、食われた」 「え?」 「嘘、ついた。黒沢」 「桐島」  桐島は笑っていた。まるで小さな花が精一杯開くかのように、可憐な笑みだった。その時、黒沢はまだ桐島への興味が衰えていないことを知った。それどころか、心を捉えられてしまったようだった。その後、二人は学内でも連れ立って歩くようになり、周囲は驚きの目で見ていた。今まで閉じ込めてきた桐島の頑な心を解いて、笑顔を浮かべさせたのは自分だと確信を持っていた。それに応えるように、桐島は黒沢以外には前と決して変わらない態度をとっていた。その一途さが愛しくて、柄にもなく、黒沢は桐島を守りたいと思った。大学以外では逢うこともあまりなかったし、セックスもあまりしなかったが、黒沢はもっと深く桐島を知りたいと思ったし、桐島もそれを頑に拒みながらも、近いうちにすべてを黒沢に許すだろうと信じて疑わない信頼の目を向けるようになっていた。  三か月もしない頃、桐島は突然大学からいなくなった。黒沢に何も言わずに。父の馴染みの探偵会社の人間を使って調べさせた。桐島は身を売るまでに堕ちていた。母親と二人で、亡くなった父の借金を返すために大学には奨学金で通い、空いた時間は黒沢と僅かに逢うか、かなりハードなバイトをしていたと知る。そんな素振りは、一度として見せたことはなかった。いつも穏やかな瞳で、黒沢を見つめていて。それだけで幸せだ、と言って、静かに微笑んで。自分は桐島の何を、どこまで知っていたというのだろう。黒沢は調査書を破り捨てた。母親が入院したため、桐島はどんなことをしてでも金を手に入れなければならなくなったのだ。自分にいったい何ができるだろう。黒沢は考えた。夜も、昼も。父に金を出してもらうことは容易い。父は国内でも名の知れた自動車工業会社のトップだった。だが、それでいいのだろうか。自分に、何ができるだろうか。父の力を借りずに、自分自身の手で何かをしたいと思ったことは初めてのように思う。ましてや、人のために何かしたいなどと思うなんて。そう思わせた桐島のことを思うと、殊更、胸が痛むのだった。女も、金も、大げさに言えばこの世の何もかもがどうにかなると思っていた、未熟な黒沢の初めての敗北だった。  黒沢は大学を卒業すると、父の会社に入り、がむしゃらに働いた。桐島には、一度も逢うことはなかった。それが黒沢の自身に課した約束だった。黒沢に何も言わずに消えた桐島の気持ちは、時が経てば経つほどに、痛むほどにわかった。桐島が自身の内にすべてを閉じ込めて生きているように、黒沢も桐島の不在の痛みを忘れないように自身に傷をつけ、それを癒さずに生きていくつもりだった。遠く離れていても、離れた気はしなかった。桐島を放すつもりはなかった。初めて彼を見たその瞬間から、黒沢の中にはその気持ちがあったのかもしれなかったが、その気持ちの変遷は、今はもうどうでもいいことなのだった。地位も、名誉も、金も、すべてを自身のものにして。それから桐島に逢おうと思った。桐島が黒沢を覚えていようといまいと、自身への決着として。  三年後、取締役会では何の異議も唱えられることなく、黒沢は異例の速さで副社長へと昇格した。これも社長である父の七光があったことは否めなかったが、とにかく成果は挙げてきた。文句を言わせないだけの実力を身につけた。多少の揶揄も間違いなくあったが、力があることは周囲も認めていた。そして、桐島を見つけた。彼はまだ借金を返すために、身を売っていた。六年。長い歳月を経て、彼は変わっただろう。躊躇う気持ちもあったが、計画通りに彼を斡旋してくれるというモデルクラブに知人経由で、連絡を取った。彼はその世界ではトップクラスだとも言われるほどになっていた。一晩の値も法外に高く、今では客を選ぶこともできるようになれたと聞いた。黒沢の周囲でも、桐島と寝た、という話をたまに聞くようになった。妻子持ちの友人が夢中になりそうで、クギを刺したこともある。あり得ることだ、と自分に言い聞かせながら、胸の奥がちくりと痛んだ。考えまいとしていたことなのに。  今、桐島は何を考えているだろうと、約束を取り付けてからずっとそのことを考え続けていた。あまりにも桐島に心を奪われてしまった自身に黒沢は苦笑した。そして、その夜は、来た。

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