162 / 162

【閑話】湖畔で

「あんたね……」 「なんだよ。ちゃんとアンリに話は通してるぞ。あいつが欲しがってた鉱石はもう渡してあるんだ。その代わり、助手を貸せってことで契約は成立してる」  ここのところ、こうして時々ロイに呼び出されている。  実際、ロイの言うようにアンリからも行けと指示されてしまうので、逆らうこともできない。  その時のことを思い出しながら、リュシーは当てつけるように溜息をついた。 「俺の手をって……毎回何もしないじゃないですか」 「何もしないことはないだろ。散歩したり、買い物行ったり、あぁ、ほら。この前は枯れ葉を見たり……」 「紅葉狩りのことですか」 「あぁ、それだ」  そんな他愛ない話をしながら、今日だって湖の畔をぶらぶら歩いているだけだ。  ……何なんだろうこの時間は。  思うたび、リュシーは何度溜息を重ねたかしれない。  ただ一つ言えるのは、ロイが毎回妙に機嫌がいいということだ。  尻尾はずっとゆらゆらと揺れているし、頭に見える狼の耳は気が抜けたみたいに後ろに倒れている。  なにより隻眼でもその眼差しが柔らかいのがよくわかる。 (一体なんなんだよ……気持ち悪い……)  リュシーは半眼で更に溜息を漏らす。それでも主人の言いつけを守り、ロイが望むことに付き合うしかない。今ならば、共に湖畔を遊歩するという……それが今回の仕事だ。 「部屋の掃除とか……したいんですけど」 「ジークがいるだろ」 「それは……そうですけど。一応、あの人はあれで患者なので……」 「患者なぁ……」  ロイが何ごとか思い出すように視線を上向ける。  頭上には雲一つない青空が広がっていた。陽光はぽかぽかと温かい。風はあるがそれも穏やかで、気温は少し低めながらも過ごしにくいというほどではなかった。 「……まぁ、ジークがいる限りアンリはお前には手ぇ出さねぇのかな」 「……は?」 「だとしたら、いつまでだっていてくれりゃいいけど」 「はぁ? あんた何言ってるんですか?」  ロイはどことない頭上を見詰めたまま、独りごとのように言って苦笑する。  そのたびリュシーが眉根を寄せても、お構いなしだ。 「なぁ、リュシー」 「……なんですか」 「お前、アンリの(もと)って、本当に離れられねぇのか?」 「……無理ですね」 「そう……なのか。やっぱり」 「多分ですけど」 「いや、どっちだよ」  リュシーはロイとは違う方向に目を向けていた。  目線の先に、大きな岩がある。湖畔を一望できるその場所まで歩いて行くと、リュシーは黙ってそこに腰を下ろした。 「……疲れたのか?」 「いえ、別に」  リュシーの前に立ち、ロイがその顔を覗き込むようにして首を傾げる。  リュシーは諦めたように息を吐き、言葉を継いだ。 「さっきの話ですけど……。アンリ(ご主人)は……俺の命の恩人っていうか……そういう存在で」 「命の?」 「昔、死にかけていたところを助けてもらったんです」 「へ……?」 「多分、ご主人が拾ってくれなかったら死んでたんじゃないですかね。俺」 「…………はぁ?!」  リュシーがあまりにも淡々と話すため、ロイは一瞬反応が遅れた。  驚きを隠せず目を瞠り、思わずリュシーの肩を掴む。 「……痛いんですけど」 「それで離れられないってことかよ」 「……」 「それを楯にいろいろ強要されてるってことかよ?」 「強要……まぁ、完全に違うとは言いませんけど、でもそれを受け入れてるのは俺なので。別に現状にそう不満はないですよ」  もう慣れましたし、とばかりに平然と見返せば、ロイの方が僅かに瞳を揺らした。  隻眼は複雑そうに細められ、伏せるように逸らされる。  リュシーは小さく苦笑しながら、凪いだ湖面へと目を遣った。 「可哀想だとか思ってるんですか?」 「……そうじゃねぇ」 「だったら……」 「……そうじゃねぇが……」 「だったら何ですか」 「…………リュシー」 「!」  不意に風が吹き抜ける。 無造作に伸ばされたロイの長い髪が逆立ち、切りそろえられたリュシーの青い髪がさらさらと流れた。  凪いでいた水面にさざなみが立ち、辺りを取り囲むように立ち並ぶ木々がざわめく音がする。 「……っ」  長めの前髪が目元を軽く打ち、リュシーは思わず目を閉じる。  と、その後頭部に何かが触れる感触がした。  目を開けて顔を上げると、思いの外近くにロイの顔があり、抗う間もなく唇を重ねられた。 「っ……ん……!」  片手で肩を掴まれたまま、後ろ髪を引くようにして顔を上向けられ、噛みつくみたいに吐息ごと塞がれる。  目を瞠り、とっさに相手の胸を叩いたけれど、ロイの手は緩まない。  抗議しようと口を開けば、待っていたように舌先が滑り込んできた。 「ん……ぅ、やめっ……んん……っ」  どうにか声を上げても聞いてはくれない。  顔を背けようにも大きな手のひらに頭を固定されていてそれもできない。  ただいいように口内を蹂躙されて、リュシーの双眸に生理的な涙が浮かぶ。  相手はロイだ。アンリじゃない。  これは自分から受け入れている行為じゃない。  なのに意に反して力が抜けていく。背筋を甘い痺れが競り上がってくるような感覚がする。  ……これも全てアンリの躾のせいなのか。 「……悪い」 「わ、るいと思うなら、……」  口付けが(ほど)けると、リュシーの上体がふらりと傾く。  ロイはそれを当たり前のように支え、そのまま胸に引き寄せるようにしてその華奢な身体を抱き締めた。 (……何なんだよ)  思いながらも、リュシーはしばらしくロイにされるままになっていた。  身体に力が入らなかったこともある。けれども、そうしてただ無言で抱き締めてくるロイの鼓動を、もう少し聞いていたいと思ったからでもあった。  ロイの心臓の音は、思ったよりも早かった。  思ったりよりも大きく感じられた。  ……それが少し可愛いと思った。

ともだちにシェアしよう!