「そうそれ、試させて下さらない？」 美しい金色の髪に緑色の瞳の乙女が林檎を齧るイラストの描き込まれたラベル。少年は黄金色に輝く小瓶を手に取り蓋を開けると、凝った作りの蓋についた一滴を桃色の小さな紙に擦りつけた。 それをそっとご婦人のほっそりした指先に恭しく差し出す。 店の制服であるモスグリーンのズボンに揃いの色のベスト。レモンイエローのシャツを着た華奢な少年は、金の星屑を散りばめたような橙色の瞳を輝かせて説明を始めた。 「この香りの持ち主は当時17歳のオメガの乙女です。金髪に緑の瞳のとても美しい方で、今はさる王族に嫁がれて幸せに暮らしているそうです。 先代から続く、この店の人気商品ですよ。青い林檎を思わせる爽やかさと、最後に残る花々の芳香が売りです。しかしお客様にはこちらの香りのほうが、よりしっくりくるかもしれません」 そう涼やかな声で言いながら、今度は青い小瓶を飴色の飾り棚から手にとった。 ここはハレへの街の香水店。しかしただの香水を扱う店ではない。 扱っている商品の多くはすべて実在する人間のフェロモンを模した香水なのだ。 この世界にはアルファ、オメガ、ベータの3種類の人間が存在する。 人口が最も多いのはベータ、逆に希少なのはオメガ。 同じく数は少ないが、アルファは優れた能力を有し支配階級に多い。 アルファとオメガは番という特有の関係を持ち、アルファが発情中オメガの項を噛むと番が成立する。この国では夫婦関係と同等に扱われている。 オメガには個人差はあるが一〜数カ月に一回ほど、一週間程度続く発情期という期間があり、妊娠可能なその期間にアルファやベータには抗い難い性フェロモンを放出するため、外出することができない。番のいないオメガはこれにより定職につきにくい。 調香師でもあった先代店主は、自身のオメガであった母親の苦労を目の当たりにして育った。長じた後はオメガの社会進出を後押しするため、積極的に香水づくりの現場で雇ったのだ。 また、香水の原料を作る現場で働くオメガたちから、アルファを呼ぶフェロモンに着想を得た香水を作り、それが国内外で高く評価された。 なかでもオメガとアルファのドラマチックな関係性に憧れを持つベータの間でまず大人気となった。 その人気は香水に自分の運命の番の存在を知らしめられた異国の王が、遥々ハレへまで彼女を探しに来たことで決定的になったのだ。 先代は番を作るとオメガのフェロモンを嗅ぎ分けられなくなるため、敢えて番を作らずに生きてきた。 45歳を過ぎて授かった一人息子が店を継ぎ、オメガを保護する領主の館で育てられていた、親のないオメガの少年を養子とした。 二人は今、本当の兄弟のように仲睦まじく香水店を切り盛りしている。 「あら、私はあなたがつけている香水がいいわ。すごく良い匂いね。なんの香りかしら。まるで春を連想させるような果物とお花の……　甘酸っぱい素敵な……」 青いワンピースドレスの若い女性が、年若い店員にすり寄るようにして訪ねた。 「あ、あのそれは……」 少年は困った顔でサンストーンのような目を泳がせて言い淀んだ。 「それは非売品なんです。すみません」 後ろから現れた背の高い人物を見て、途端に客の女性たちの視線はそちらに集中した。 「もしかして、あなたが調香師の、メテオ・アスター？」 「はい。いつもうちのシリーズをご贔屓にして下さり、ありがとうございます」 調香師という職人的な職業柄、とっつきにくいと思われがちだが、メテオはどちらかといえば、人当たりもよく明るい。そのため店を訪れる多くの女性たちから好意を持たれやすい。メテオ目当てでくる女性客も多くて店にランしかいないのを見ると、あからさまにがっかりされることもある。 兄のメテオはいつも一緒にいる義理の弟のランからみても、とても格好良いと思う。 背は高くすらりと長い手足、灰色がかった茶色の髪に、琥珀色の大きな瞳。 整った鼻筋、少しだけ大きな口も愛嬌があって良いと思う。それに彼はアルファなのだ。 ランが店に立つようになってからまだ一年足らずだ。 兄はランの接客がまだ不安なのか後ろにある工房から度々店舗にやってくる。ランと女性の間に割り込むと、そのまま商品の説明を続けてしまった。 ランといえばまだ成長途中のやせっぽっち。目ばかり大きくて額は丸く、あとのパーツはつまんだように小さめの顔はどう見ても子どもに見られやすい。 だから店に出ていても店員と気が付かれないことも多かったので、メテオと二人で揃いの制服を作ってきている。 3人いた客はみなメテオのお薦めを買って帰り、ちょっとしょぼっとしてしまうランだ。 メテオはランに後ろから近づくと、悟られぬようにさり気なく首筋の香りをかぎ、ポケットから取り出したアトマイザーからアロマウォーターをシュシュッと振りかけた。 ランの自身の香りが香水と混じりごちゃごちゃとした感じになる。あまり良い状態とは言い難いか、ランのフェロモンを隠せてメテオは満足した。フェロモンは不思議なことに本人には香らないためランは困っていない。多くのオメガが香水になって初めて自分のフェロモンの香りに気がつくという。 「新作のリフレッシュウォーターだ」 「あ、女性の身体に良さそうなハーブ水だね。ラベンダー、イランイラン、ゼラニュウム……　男性のオメガも周期によっては必要なものだよね。良い香り」 ランが兄に寄り添い自分を取り巻いた薫りにうっとりしていると、店のドアについたベルがシャランと鳴った。 「こんにちは〜　メテオ会いたかったよ〜」 飛び込んできたのは輝くストロベリーブロンドに菫色の瞳の美少年。 そしてその後ろからは黒髪に青い瞳の目元に涙ボクロのある色っぽい男。そして隆々とした筋肉が二の腕から覗くいかにも軍人か兵士いった風貌なのに貴族風のジャケットを着た男と、やたらに派手な三人連れがやってきた。　　 金髪の美少年は早速ランを押しのけ、メテオの腕にすがり細く滑らかな腕を、これみよがしに絡ませた。 「ちょうどよかった。早速作業するから準備してくる。そこで待っていてくれ」 「わかったぁ」 バサバサの長いまつげと世にもまれな菫色の瞳で上目遣いにメテオをみると、甘い声で返事をしている。 メテオが奥の工房に引っ込むとピアは先程のしなりは何処へやら、急にしゃんとしてランを睨み付けた。 「ラン臭い！　また香水つけすぎてる！　店員にあるまじき行為だよ」 「そうかな？　いい香りだと思ったけど……」 ランはいちいち絡んでくるピアが苦手だ。 見た目も輝くばかりの容姿で、アルファはおろかベータからも引く手あまたのモテモテぶりらしい。治安の良いハレへの街でもその人気から独り歩きすると危ないからとわざわざ館から同行者がつくほどだ。 ランとピアはごくごく小さい頃は香水の原料となる植物を育てているオメガたちの農園で、それなりに仲良く暮らしていたのだが、ランがアスター家の養子になると、ピアからの当たりが強くなってきた。 「ランさあ、まだ発情期来てないんでしょ？　もういいかげん農園に戻りなよ。発情期きたら、メテオと一緒にはいられなくなるんだからさあ」 多分大好きなメテオと一緒にいられるのが羨ましいのだろうと思うが、ピアのようにメテオに自然に沢山甘えられるのはむしろ羨ましい。 更に羨ましいのは…… 「ついにプレ発情期きたから香水作ってもらえるんだ〜。発熱一週間あったからいよいよだっていうし〜 メテオのアルファフェロモンで誘発してもらったら発情しちゃうかも♡　そしたら番になっちゃうかもね！」 すると後ろから手が伸びてゴツンとピアの頭にゲンコツが落ちた。 「そうならないために抑制剤をもって、私たちがいるんだろうが」 「ソフィアリ様」 流石のピアも頬を膨らませつつも文句を引っ込める。 ソフィアリの長い黒髪がさらっと肩から滑り落ち、それを後ろにはらうと、背後に控えていた大柄というより筋骨隆々としすぎた男に声をかける。 「ラグ、ピアと中に入って」 黒髪の小山のように大きな男は頷き、ピアをひょいっと掴みあげるようにして工房の方に入っていった。 「ソフィアリ様、ごきげんよう。今日も午前中、紫の小瓶が売れましたよ。相変わらずのうちの人気商品です！」 ピアとは違い、大好きなソフィアリの久しぶりの来店は大歓迎だ。農園やアスターの屋敷で暮らしていたまだ幼い頃は、隣の領主の館にいってはソフィアリや番のラグによく構ってもらった。 ソフィアリはその妖艶な美貌からは想像もできないほどやり手の領主だ。　 彼がオメガであることをあげつらうものはこの地にはいない。 故あって中央貴族の身でありながら身体一つで温暖なこの地に領主としてやってきた。 彼が農園近くにあったかつての領主の別邸を改装し、発情期のオメガたちを匿う施設をつくりそこに自らも住まっているため、オメガ館の主とも呼ばれている。 その際、オメガの地位向上のため働くメテオの父と懇意になり、彼に自身のフェロモンのノートから香水を作らせ、それが中央でも大人気となったのだ。 それが最近のオメガ香水の人気を支えているのだ。 彼のフェロモンは『紫の小瓶』の相性で愛される香水となっていた。 ユニセックスで清廉たる力を秘めながら 何故かあとを引く良い香りなのだ。 しかし今はその香りは香水でしか偲ぶことはできない。彼には先程の軍人上がりの屈強な番がいるのであるから。 「ラン、ピアの言うことも一理あると私も思うよ。発情期に番でないアルファとオメガは一緒にはいられない。アスター老師もメテオに番を持つことを禁じているのだから、店に出るのはともかく、住まいはこちらに戻るといい。お前の身は館で預かろう」 小柄な者が多いオメガの中でもソフィアリはスラリと背が高く、その姿はどちらかといえばアルファにみえなくもない。 深い青い瞳は知的な光を宿し、しかし醸し出す色香はオメガのそれだ。 尊敬するソフィアリからの助言は、ありがたかったが、メテオと番にはなれなくてもこれまで通り傍にいたかった。兄弟のままでもその絆だけでも繫がっていられると信じているのだ。 「僕、まだ発情期きてないから……　それまでは兄さんと一緒にいたい。お店にでて、これからも一緒に仕事もしたいし……」 健気にそう言い、橙色の瞳を涙で潤ませるランに、ソフィアリは秀麗な顔に複雑な笑みを浮かべた。 「それに僕は香水を作ってもらえてないし、兄さんにとっては、まだまだ半人前……　番になんてなれるはずない……」 そういうと香水瓶など小間物を売っているコーナーに引っ込んでしまった。 その様子にため息をつくソフィアリだ。 「あいつがランの香水を作らない理由なんて一つだけなのだけどなあ」 アスターの店の香水の新作は中央のアルファたちの間でも毎回人気なのだ。 たまらなく心惹かれる香りの主を求めてはるばるこの他にやってくるものも多い。 そして本当に番になることもあるのだ。お互いの香りに惹かれるほど強いつながりを持つアルファとオメガは、相性が良いと言われているのもそのためだった。 そんなものたちに最愛の弟の香りをわざわざ教えるような真似をあの兄がするとは思えない。 ランの親のオメガの香水はランには知らされていないが、老アスターが好み、コレクションしている秘蔵の香りとされている。 メテオにも老アスターにも、そしてソフィアリからも十分特別扱いをされていると、ランにはわからないのだ。まあ、そういうふうにわからなくして囲っているともいうのだが…… そしてメテオが屋敷中、果ては市内中のオメガの香水を作ろうと、このところ躍起になっていることの意味も、単にのけものにされて寂しいと考えてしまっているのだろう…… このすれ違いのせいで何か良くないことが起きなければよいのだが…… 自身も嵐のような体験を経て番を得たソフィアリは、その未来を案じていた。 農園とオメガの館は一時期オメガによる売春を斡旋しているのではと陰口を叩かれていた時代もあった。他国やこの国でも僻地では、未だにオメガは性産業に従事していることが多いからだ。 その事実無根の噂を払拭するべく、この地に住まうオメガを申し出があれば館と農園で匿い、本人が望まなければアルファとは会わせないようにしている。 また、オメガばかりに肩入れするとベータからも反感を買いやすくなるため、どの種のものであっても無償で教育を受けられる子供のための町内毎の小さな学校と、職業訓練校を整備した。主に香水の香料に関する分野に特化した学校でこの地の、産業の明日を担う人材を育成する目的で作られた。 卒業後５年その仕事に従事すればそれまでの学費は免除となり、大抵のものは辞めずに仕事を続けている。 香水だけでなく関連する香りの商品を売る店をやりたいものには審査後出資している。 ソフィアリは中央から持参した莫大な私財を投げ売ってこの地に尽くした。 おかげでこの地はオメガの楽園であると同時に他の種の者たちも互いに差別し合うことなく豊かに暮らしている。 だからこそこの国のオメガの中では高い教育水準で育ち、容姿も端麗で、芳しく薫るこの地のオメガを目指してくるアルファも多いのだ。そしてそのままこの地を気に入り住まうものも多い。 この地はそれらの人々の力を借りてさらに繁栄していくのだ。 ソフィアリたちが店を訪れた翌日の午後。 兄にお使いを頼まれて市場まできていたランは帰り道、乾燥したこの地には珍しくまとまって降ってきた雨にあってしまった。 しょうがなく飛び込んだ食堂の店先で雨宿りをする。 市場で買い物をする前に濡れてしまったので一度家まで戻ろかと考えていたら、同じく飛び込んできた男がいた。 目が合ったので思わずニッコリと微笑んでしまった。職業柄愛想がいいランなのだ。 彼はしばし言葉をなくして、ランのことをとくに瞳を覗き込むようにして食入るように見つめてきた。 「……似ている」 呟きは雨音に溶けて消え、ランの耳には入らなかった。 男は中央から来た旅人のような格好だった。この地のものは温暖な気候のため、ラフで涼しい麻や綿花の服を着るが、中央方面から来たものは上着からして厚地でぱりっとしてみえる。 もちろん彼も今は肩にくすんだ緑の上着をかけ、シャツ一枚になっている。 鞄はかっしりとした黒い革製で、ブーツも黒。それがなにか軍属のようなものを彷彿とさせた。 ダークブロンドの髪は後ろに撫でつけられていたが、湿気のためか少しみだれていた。 強面の、格好良い人。という印象だ。 「お兄さん、中央の人？」 人懐っこい笑みを浮かべてランは尋ねた。 「そうだ。この土地は雨があまり降らないって聞いていたから油断した」 メテオと同じか少し年上だろうか？ ランにつられるようにして微笑んだ顔は、険がとれて優しそうにみえた。 「君は中央にいたことがあるのか？」 なんとなく世間話が始まってしまった。 あまり知らない人と話してはいけないとメテオに小さい頃はよく言われたけど、もう自分は小さくないから大丈夫だろうとランはおしゃべりをはじめる。 「いいえ。生まれも育ちもここです。今は兄と二人で暮らしてます！ 香水を売っているので、この街の記念によかったら寄っていってくださいね。アスター香水店って言います」 「ああ、あの。調香師メルト・アスターの店は有名だ。お兄さんがいるのだね？」 探るような聞き方だったが、ランはなんの疑いもなくペラペラと話してしまう。 「はい、兄ですが血は繋がってないです。僕は農園で育って、その後養子になったので」 すると男は天を仰ぐような仕草をした。 そして、なぜか大きな身体を屈ませて、親しげに目線を合わせながらランに優しく話しかけてきた。 「俺は中央からソフィアリ・モルスを訪ねてきた。君が言う農園の近くの館にいきたい。このあたりには不慣れなもので、案内してくれないか？」 大好きなソフィアリのお客さんとわかり、ランの目が煌き、更に可愛いらしくなった。 そして雨に余計なアロマが拭いさられてラン本人の芳香がふわふわと薫る。 男はそれを感じて密やかに吸い込むと、胸の奥からさらにこの瑞々しいフェロモンを誘発してやりたい衝動覚えたが、強く抑制した。 日頃から心を折りたたむことに長けた軍人だからこそできる技である。 それほどに、この少年のフェロモンは誘惑に満ちていた。 多分絶対にオメガだろう。中央では番のいないオメガはチョーカーをして頸を守っているが、噂通りこの街ではオメガもチョーカーなしでごく自然に暮らしいてるようだ。 それにしても、なんと甘く芳しい。 香水となって遥か遠くにいる番を呼び寄せたという、王妃の香りの香水も嗅いだことがあるが、これほど心を動かされなかった。 「あ、あの。お兄さん、良い香りがします。香水お好きなんですか？　僕の好きなシトラスとムスクの香り……」 うっとり微笑む小さく可愛らしい口元をみて、今すぐ唇を寄せて奪い取りたくなった。 「俺の名前はクィート・モルスだ。君は？」 「僕の名前はラン・アスターです。はじめまして」 はにかむ笑顔でさらに芳香が弾けて増した。 まだ僅かに雨が落ちるので往来は少ないが、この香りを誰にも辿らせたくない気持ちに支配され、鞄を持っていない方の腕でランを引き寄せるとクィートは駆け出した。