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番外編 貴方の香りに包まれたい1

兄さんの香りは言葉で言い合わすのが難しい。 一言でいうと「すごくいい香り」以外の言葉が見当たらない。 傍にいたらいつでも抱きしめてもらって、胸元でくんくんしたくなる。 自然と目が細まってうっとりするほどいい香り。 優しく撫ぜられているような、猫ならにゃーんと鳴いてすり寄るみたいな。 そんな心地にさせられる香り。 身振り手振りを交えながら父であり数年前に店を引退した調香師のアスターに、ランは作りたい香水のイメージをそれはそれは一生懸命伝えていく。 今日は兄が中央に出張中のため、父と二人でお留守番。お客さんが引けてきたので早めに店じまいをして二人で店舗の裏にある工房で新しく考案された調香方法を勉強中だ。 兄は父が国内外で集めてきた一つ一つの香りをもとに数学、心理学、生理学など様々なものを取り入れ組み合わせて調香していくのだが、優れた感受性や想像力を駆使していけば兄にも負けぬランだけの香りを作れると老アスターはランに力説してくる。試しにどんな香りを作りたいかと聞かれたランは、兄のアルファのフェロモンを模した香りが欲しいと即答したのだ。 しかしどうやら香りの中身が漠然としていて父に伝わらないらしく、白髪の父は首をかしげて小さなサンプル瓶を広げなおした。 「うーん。ランよ。お前も調香師の息子ならばもう少しわかりやすい表現を頑張って考えてみるのだよ」 兄とそっくりな年老いても端正な父の顔は未来のメテオの顔でもある。そこからまた頭の中で出かける前に蕩けるような笑顔を浮かべてランに行ってきますのキスをしてくれた兄の顔を思い出す。 ランは父が持ってきてサンプルと共に並べてくれた宝石の如く色鮮やかなオメガの香水の瓶を見下ろす。七色はゆうに超えた愛らしくも気品あるその造り。 父が旅して探したオメガたちの香り。 叔父であるソフィアリの紫の小瓶は今でもとても人気で限定版の瓶が出るたびにラベルも一新されていた。てもランが好きなのはラグを表す大きな熊とソフィアリを表す海の女神のような人物が共にハレへのラベンダー畑を歩いている初期ラベルだ。 二人の人生そのもののようでそれこそ物語性を感じる。 (兄さんの香水だったら……) 各々の香水が持つストーリーから、兄の香水のイメージを膨らませていった。 (爽やかだけど、少し甘くて。飽きが来なくて、いつでも纏って傍にいたくなる香りがいいな。瓶は兄さんの瞳の色みたいな明るい琥珀色がいいなあ。ラベルは自分で描いてみようかな) そうして始まった香水作りだが、言葉で伝えるのは難しすぎて、ランは小瓶に入った一つ一つの香りのサンプルを沢山出して、ああでもない、こうでもないといいながら組み合わせようとする。 ベルガモット、レモン、マンダリン、シトラスみたいななにか柑橘系。ローズウッド。ちょこっとラベンダー。甘さも欲しいし。少しウッディ。ムスクははずせない? シンプルな香りの方がいい気もするし、複雑にした方が好みの気もする。 頭には浮かぶのだけれど、それを再現するのは本当に難しい。 「嗅ぎすぎて鼻が疲れたら一度自分の手の甲を嗅いでリセットするとよいぞ」 隣で穏やかな笑みを浮かべてそんなアドバイスをくれながら見守ってくれる父への尊敬がまた増した。 なんとなくまとめてきたけれど、それだけではやはり何かが足りない。 やっぱり本人にはかなわない。メテオの持つメテオだけの体臭が混じって初めて兄を形作るわけだ。そんなことまで含めてオメガの香水を作るというのは一つの香りに科学、文化、気候等沢山の知識の広がりを感じる。ランは本格的に調香をしていくわけではないが、お客さんに豊かな説明ができるように知識は学びたいし、単純に兄の香りに模した香水が欲しいという欲求があった。 今も兄はたまに出張で遠い街にいって数日帰らないことがあるから、そんな時はよすがになる香りを身近に置けたらどんなに寂しさがまぎれるだろう。 恋人期間を飛び超えて番になった今、ランとメテオは新婚さんのようなものだ。 兄弟として店先に立っていた頃よりも兄の不在がこんなにも寂しく心細く感じるようになるのだとは思わなかった。父や母だって助けに来てくれるし、寂しかったら農園のみんなの家で過ごしてもいいよと言われるがだからといって香水店の家を長く空けたく無い。 番とは本当に魂なのか心なのかわからないけれども、どこかつながった一対になるのだなあとひしひしと感じた。 不在中普段兄と共に使っている寝台、寝具から洗濯のたび兄の香りが薄れていくのが寂しくて、ランはこっそり兄のクローゼットに忍び込んで衣服に包まれてうたた寝することだってある。 兄は流石に発情前の時期にはなにをおいても絶対に帰ってくるといっているが、いつか発情期と出張が当たる日も来るかもしれない。 そんな時に寝台、寝具、愛用の小物、子どもの頃から持っているぬいぐるみ、部屋の中すべてに。そしていつも着ている制服にも。 兄の香水を振りかけたらいつでも兄が傍にいるような気分になれて、きっと幸せが増すに決まっている。 ランはきっとなにか楽しいことを思い浮かべているのだろう。色白の砂糖菓子でできたようなまろい頬を興奮で上気させ何時にもましてダークオレンジの瞳を嬉しげに煌めかせている。メルトも白くなったあごひげを撫ぜ付けながらついつい昔の癖で新作香水のアイディアがむくむくと浮かんできた。 「アルファの香水か。ふむ。面白いな。番の香りを持ち歩く、か。案外流行るかもしれん。アルファやベータ目線だとついついの抗い難い魅力を持つオメガの香水にばかり目をやってしまうが、オメガやもしかしたらベータの女性など男性的でも美しく凛としたアルファの香水をつけて身体ごと包まれたい気持ちになるのかもな。 妙香方式をもう少し誰でも扱える本数のサンプルで構築しなおして、イメージや好みの印象など直観的に誰でも扱えるようにしてだな……」 父は熱中すると周りの声が入りづらくなるが、どうやらそれはランも同じだったようで似たもの親子は日が傾くまで二人して工房の研究室に籠もって夕餉に帰らない二人を心配した母に探しに来られたのだった。

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