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第2話

 柔らかな唇が触れた瞬間、ふわっと体に暖かさが通った。手足の先まで熱が灯った感覚に、ラウは思わず目を瞬く。  同時、わっと上がった歓声ともとれるどよめきに、ラウははっと我に返った。音が見える勢いで、少年の小柄な体を引き剥がす。  急に引き離されてきょとんとした少年の顔と、焦ったラウの顔が対照的だ。  ラウは周囲の連中が煩く騒ぎ出す前に、その場から逃げ出すことにした。  状況を把握していない少年を小脇に抱えると、脱兎の如く店を飛び出した。  夜の街は明るく賑わっている。まだ宵の口だ。人の出は今が一番多い時かもしれない。  ラウは少年を小脇に抱えたまま、スルスルと小器用に人並みを避けて人気のない路地に入り込んだ。  公衆の面前で、幼気な子どものナリをした少年とキスしたとあっては、醜聞になりそうだ。  今更思っても詮ないことを考え、抱えていた子どもを放り投げる。  無造作な扱いに、だが少年は軽快に地に足を着けてラウを振り返った。 「どうですか?」  低すぎも高すぎもしない声が、柔らかく問いかける。  何故抱えられて店から連れ出されたのか、一向に気にしていないようだ。  ラウは何が、と口を開きかけて、体の変化のことだとすぐに気付く。間違っても、キスの感想を聞いているわけではない。一瞬やわい唇の感触が蘇ったが、気が付かないフリをして少年を見る。  重く緩慢だった手足は、少年を抱えていてもなお風を切って軽く進んだ。 「具合がいい……」  答えてから、ひどく艶かしい色合いに聞こえて閉口する。  今更軽く触れただけの唇の接触で、狼狽ていることが滑稽だった。 「……これで、毒が中和出来たのか?」  傷を負った体に毒を抱えていることは、疑いようがなかった。それを彼が中和したことも否定しない。  確認すると、少年はけぶるような銀の髪をふるふると左右に振った。 「一度では無理です」  思わず天を仰ぎたくなる回答だった。  氷雪の魔物の毒は、鋭い四本の爪から体内に入り込んだ。柔らかな腹を裂いて肉を抉り、中に毒を撒き散らしたのだ。体の自然治癒力と免疫力により、ある程度の中和は体内で可能だ。だがそれ以上の中和は難しい。抉られた肉が塞がり、裂かれた皮膚が繋がっても、その奥にしっかりと毒は潜んでいる。  長の時間をかければ、あるいは完治も有り得るかもしれない。だが体温が上げられず、重い手足を引きずったままでは、思うように依頼もこなせない。  少年は再びラウの両手を握り、澄んだ翠の瞳を向ける。 「貴方の体は、僕が治します」  命を助けてもらった。これは、恩返しだ。  そう宣言し、気合に満ちた顔を向ける。そしてラウの手を握ったまま、それで……、と笑顔で続けた。 「体が治ったら、僕を殺してください」  少年らしい、爽やかで無邪気な笑顔を浮かべたまま吐かれた台詞だった。  ラウはそれを反射で拒否した。 「断る」  光の速さで返すと、少年の澄んだ翠の瞳が驚愕でより大きく見開かれる。 「なんでですか!?」  断られるとは思ってもいなかった、と言う反応に、ラウは頭を抱えたくなる。  逆に何故断られないと思ったのか。 「そんな呑気な顔で殺してくれと頼むヤツを殺せるか……」  嘆息混じりに返すと、途端少年はきゅっと、表情を改めた。 「じゃぁ、神妙にお願いします!」 「そういうことじゃない!」 「じゃぁ、どういうことですか? どうしたら僕を殺してくれますか?」  前のめりで距離を詰められ、ラウはその圧に押されて思わずのけぞる。  この子どもは、真摯な目で殺してくれと頼んでいる。正直、子狼一匹殺すくらいわけない。息をするように、首を刎ねられる。  だが。 「俺は剣士であって、殺し屋じゃない」  魔物退治や害虫駆除などは仕事のうちだ。だが、誰にもなんの被害も出していない生き物を殺すのは範疇外だ。  そんなことをうっかりでも告げれば、じゃぁ、人を襲ってきますとでも言い出しかねないので、ラウは言葉を選ぶ。 「どうしても死にたいなら、他をあたれ」  にべもなく言い放つと、翠玉の瞳がゆらりと膜を張って揺れた。幼気な子どもをいたずらに虐めているようで、じくりと抱く必要のない罪悪感が湧く。  だが彼の瞳がそれ以上揺れることはなく、強い決意を秘めた眼差しがラウを見据える。  噛み締めた赤い唇が戦慄き、銀の髪が左右に振られる。 「ダメです! 氷雪の魔物を倒した貴方だからお願いしたいんです」 「理由にならない。早く親元へ帰れ」 「……親は、いません。死にました」  ギリっと引き結ばれた赤い唇が、声を絞り出す。  ラウはその声の強さに一瞬瞠目したが、すぐに首を振った。 「ならよけいに生きてろ」  命を無駄にするな。親の分まで、とは言わないが、死に急ぐことはない。  にべもないラウに、だが彼は一歩も引かなかった。 「ダメです……! お願いします!」  死を望むには強すぎる意志が、ラウの前に晒される。ラウを見上げる透き通る翠は真摯で、そこにはぶれることのない確固たる信念があった。 ―――ああ、これは頑固だ  瞬時に悟り、ラウは彼の説得を諦めた。とは言え、自身の主張を翻す気もない。何故死にたがるのか、その理由も聞く気もなかった。どんな理由を持っていたとしても、ラウが彼を殺すことはない。  ではどうするか。  よし、逃げよう。  ラウの判断は早かった。どう押し問答をしたとて、平行線であることに変わりはない。ならば話すことは時間の無駄だ。  死地をくぐり抜けてきたラウは判断が早い。この場での一番有効な方法は、逃げるが勝ち、だ。  ラウは地を蹴って、一足飛びにその場から逃げ去った。

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