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第17話
エンハ渓谷に到着するまでに、エリファレットは幾度となく恐ろしい夢を見た。状況は様々だったが、必ず最後にラウはエリファレットを置いていなくなった。必ずエリファレットを独りした。その度にエリファレットの心は痛み、目が覚めると走り回った後のように体中が痛んだ。
不安げな表情をするからか、そんな時ラウは優しくエリファレットを抱きしめてくれた。宥める手と同じくらい優しくやわく口を吸われ、落ち着きを取り戻した。最早中和とは名ばかりのようで、エリファレットはラウの唇に触れるのが好きだった。羞恥よりも先に安堵感を求めてラウに口付けを請うようになり、それが色を纏ってさらに触れたいと思うようになるまでに時間はかからなかった。
好きに口内を蹂躙して離れていく唇が、エリファレットの下唇を名残惜しげに吸って離れていく。時折やわく食まれると腰が痺れて、じんわりと体が熱くなった。
「……ぁ……」
間近で見るラウの顔は端正で、その配置の黄金率にエリファレットはうっとりとしてしまう。
うっそりと目を細めるラウが、エリファレットの色付いた頬に触れる。
「本当……いい顔をするな、お前」
普段見せる時とは別人だと笑うラウこそ、いつもの雰囲気と違ってエリファレットはドキドキする。
浮かされたままに、エリファレットは毎回思うのだ。
全部欲しい。全部に触れたい。でも触れられなくて、もどかしい。どうすれば満たされるのかわからなくて、ラウの首筋に抱き付く。
すんっとラウの匂いが鼻腔を満たすと、少しだけ満足する。でもこのまま動けなくなりそうで、少し怖くもなる。
「ラウ……僕は、ダメになりそうです……」
抱き締められて、ふにふにと耳を触られていると、何も考えられなくなる。このまま何もわからないフリをして、全てを投げ出したくなる。何も見ないフリをして、ただずっとラウに寄りかかっていたくなる。
抗議をするように尻尾を振ると、ラウが弄る手を止めて喉の奥で笑う。
抱き締められた体越しに響く声の、なんと気持ち良いことか。
「じゃぁ、全部俺に委ねてみたらどうだ?」
玲瓏な声に艶が増して、エリファレットはふるりと体を震わせる。
誘う声は甘美で抗い難いが、エリファレットはその言葉で現実に引き戻る。
埋めていた首筋から顔を上げ、意地悪く笑うラウから顔を背ける。
「……それは、ダメです」
何もかもを投げ出すことは出来ない。知らないフリも、見ないフリも、わからないフリも、エリファレットはしてはいけないのだ。
現実に引き戻されたエリファレットに、ラウが軽く息をつく。
「……なかなか手強いな、お前」
エンハ渓谷に到着したのは、そんな頃だった。ラウの腕の中で眠っている間に到着し、エリファレットは目覚めて見た景色に感嘆の声を上げた。
エンハ渓谷に興された街は、山間の平地を慣らして出来たものではない。エンハ渓谷の住人は、皆山の斜面に家を築く。それは見事な景観を見せる美しく繊細な建築物で、日の入り方によって様々な顔を見せた。心震え、魂さえ奪われる渓谷として名を馳せ、終の住処としようとする者も多い。だがエンハ渓谷は住民になる条件が厳しく、許可が下りる者は稀であると言う。
ラウは街の関所で馬を預けると、起伏の激しい山裾の道を慣れたように上がっていく。頂上付近になると、警備兵が何人か立って立ち入りを阻んだが、ラウと一言二言交わすと呆気なく通行が許可された。
頂上には庭園が広がり、その奥に宮殿が見えた。この渓谷を治める領主がいると言う。広い庭園には東屋がいくつかあり、ラウは一番遠い東屋に足を向けた。
切り立った崖にポツリと建つ東屋は、眼下にエンハ渓谷の見事な景観が臨めた。
ラウが近くで足を止めたのに倣い、エリファレットも足を止める。
ここから先は、道がない。
「ラウ? お迎えと言うのはどこから来るんですか?」
仰ぎ見ると同時に、エリファレットの嗅覚を知らない匂いが刺激した。
空気が薄く澄んだ頂上において、嗅ぐことが出来ない新緑の匂いだ。
匂いがした方に首を巡らせると、ラウが東屋を指差して笑う。
「今来た」
東屋に翁が立っていた。白金の髪と同じ色の見事な口髭を胸まで蓄え、手には自身の背丈の二倍もあろうかという杖を携えていた。
眉毛さえ髭と同化した白金の中から、水に沈めたような青色が覗く。
ギロリと一瞥されたのはエリファレットだったか。
「……遅いですぞ、ラウ殿」
嗄れた声にラウは肩を竦める。
「かかった時間はいつもと変わらないはずだ」
「そうでしたかな?」
老人はわざとらしくとぼけて見せてから、物言いたげにラウに鋭い眼光を向けた。ラウはその視線を平然と受けながら、老人の視線に怯んだエリファレットの肩を抱き寄せる。
一瞬ピリついた空気に、エリファレットが息を飲む。
折れたのは老人の方だった。張り詰めた空気の緊張を緩め、頭を振る。
「……かの君には疾く説明されよ」
不承不承とばかりに息をつき、老人は背丈より大きな杖で、二度ほど地面を叩いた。
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