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第28話
「姫さま!」
部屋に入るなり、エリファレットはベッドにいるアルベルティーナに走り寄った。矢のような勢いで中に入っていったエリファレットに、扉を開けたブロームが嫌な顔をする。ラウはしかめっ面をしたブロームの脇を苦笑して通り、まるで感動の再会のようなエリファレットに肩を竦めた。
聖域で孵化した氷雪の魔物の首を切り落とすことに、それほど時間は要さなかった。孵化したての氷雪の魔物は動きも鈍く、ラウが持つ研いだばかりの太刀の力もあり、首は柔らかいものを切るようにすっぱりと切り落とせた。
だがそこからが大変だった。倒れ氷雪の魔物は瘴気と化し、蟲たちをさらに狂気に陥れた。アルベルティーナはエリファレットの心を守り、体を治癒すことに手一杯で、自身まで守れる状況にはなかった。ラウは狂った蟲たちが襲いかかるのを必死で切り捨て、これを退けた。それは太刀が瘴気を浄化し、蟲の狂気が収まるまで続いた。
結果エリファレットは心身ともに守られたが、長時間蟲の羽音に晒され続けたアルベルティーナはそのまま昏倒した。ラウはエリファレットとアルベルティーナを抱え、聖域を何とか脱して外で待ち構えていた救護班に連れていかれるに至った。
それから数日、エリファレットは目を覚まし、驚異の回復力を見せた。だがアルベルティーナは未だ床上げができない状態だった。
エリファレットはアルベルティーナのベッドの脇に膝をつき、まだ青白い顔をする麗人を心配する。
もとをただせば、原因はエリファレットにある。そう自責するエリファレットは、涙目でアルベルティーナに謝罪を繰り返す。
「エリファ、妾は大事ない。そんなに心配せずともよい」
それよりもエリファが健やかでよかったと、アルベルティーナは微笑む。
優しく寛容で包容力のある森の女王に、エリファレットの目がさらに潤む。
「残りの蟲は近く対処してくれるのであろう?」
エリファレットの背後で少し面白くなさそうな顔をしたラウに、アルベルティーナが問いかける。
彼女が昏倒して目覚めてから、エリファレットはアルベルティーナにべったりだ。わかりにくいはずの男の表情筋は、最近よく仕事をしてる。
エリファレットの銀の髪を撫でるアルベルティーナの手を一瞥して、ラウが息を吐いた。
「……もうすべて終わった」
エリファレットが目覚めるまで、ラウも何もしなかったわけではない。元々の依頼である蟲退治はすでに完了している。
面白くなさそうな返答に、アルベルティーナが花咲くように微笑む。
「そうか。大儀であったな」
労いの言葉の後に、アルベルティーナは脇に控えた老ブロームを呼ぶ。ブロームがすっとラウの前に進み出て、黒塗りの盆に乗った報酬を差し出しだ。
ラウはそれに軽く瞠目し、アルベルティーナは何事もないように微笑む。
蟲退治の仕事は完遂した。報酬は支払われる。故に、いつでも帰っていい、ということだ。裏を返せば、早々に帰れ、とも取れる。
エリファレットの銀の耳が垂れ、尻尾が不安げに揺れた。
精霊族は他種族を長くディノクルーガーの森に滞在させたくない。ディノクルーガーの森は世界の聖域に近い森だ。管理者でもない種族を長く置くことを良しとしないのだ。
それを理解しているラウは口をつぐみ、エリファレットは悲しく耳を伏せる。
「……姫さま、また来てもいいですか?」
純粋な親愛の情を向けるエリファレットに、アルベルティーナは微笑んで彼の頭を優しく撫でた。
「……妾はしばらくマルスリオスに戻ることになる。会うのは難しくなろう」
アルベルティーナの言葉にエリファレットは目に見えて顔を曇らせ、ラウははっと目を見張った。さっと老ブロームに視線を送り、頷いた老人を確認してアルベルティーナに視線を戻す。
気付いたアルベルティーナが、エリファレットに気付かれないようにしぃ、っと唇に人差し指を当てる。
エリファレットの手前大事ないとしか言わないが、彼女は精霊族の精神を壊す蟲の羽音に長時間晒されている。エリファレットが思うより、そしておそらくラウが思うよりずっと状態は深刻なのだ。それは精霊族の都、マルスリオスに戻らねばならぬほどに。
「息災に暮らせ、エリファレット」
エリファレットを脅かすものはなくなった。氷雪の魔物はエリファレットの中から消え、あるのは銀の狼族としての矜持だけだ。それを忘れず、希望の光を胸に灯し続けていれば、絶望に心手折られることはない。
「はい。ありがとうございます」
母の最期の言葉と、アルベルティーナがくれた言葉を胸に刻む。エリファレットの希望は、すぐそばにある。絶望と混乱と苦痛の中にあっても、その温もりだけは忘れなった。その声だけは滞ることなく、真っ直ぐエリファレットに届いた。
「エリファ」
名残惜し気にアルベルティーナのそばから離れないエリファレットの肩を、ラウが抱き寄せて引き離す。
「ラウ」
エリファレットの希望は、ここにある。アルベルティーナは大好きだけれど、ラウのそばだけは譲れない。戦ってでも、勝ち得る。
刻む決意は簡単に目の前の佳人に伝わって、アルベルティーナは思い付いたように形の良い脣を笑ませた。
「ラウ、妾はお兄様とそりが合わぬ者を伴侶として連れることは出来ぬのでな、許せよ」
悪戯に微笑んだ彼女が口調だけは神妙にして謝罪し、突然話を振られたラウは目を見張った。
「……」
告白したわけでもなく、されたわけでもなく。ただどちらかと言えば、ラウは振った立場にあるだろう。
だが何故だろうか。このラウが振られた感の痛々しさは。
咄嗟に反論が浮かんだが、女性のプライドは守ってあげるべきですよ、と菫色の瞳を微笑ませる仲介屋の顔が浮かんで、ラウは何か言うことを諦めた。
アルベルティーナが清々しい表情を浮かべているのだから、ラウが口をはさむことは野暮と言うものだ。
顔色を忙しく変えるエリファレットに免じて、ラウはその言葉を甘んじて受け入れることにした。
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