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第二話 ミザリー・スコットパーカー①
「エイジ、十二時だ」
エドモンドの呼びかけに、ずっとパソコンの画面に集中して書類を作成していた瑛司は、キーボードを打つ手を止めないで、軽く顎を下げた。
少し前屈みになる。ランチタイムの前に、切りの良いところで終わりたかった。書類自体は面倒ではないのだが、アルファベットを打つのがいまだに慣れない。元々英語が母国語ではないので、自然に打てるようになるまで時間がかかるだろう。自分が喋る英語自体がブロークンイングリッシュだ。
日本語ならもう打ち終わっていると、瑛司は詮無いことを考えながら、Aのキーをひとさし指で叩いた。Attention。警告。
続けてtのキーを打とうとしたら、背後に気配を感じて、肩越しに振り返った。
いつのまにかエドモンドが真後ろに立っていた。全く気づかなかったが、瑛司は軽く目線だけを上げた。
「十二時だよ、エイジ」
腰に手をやって、小首をかしげる。
「それが……何か?」
二回も言われて、瑛司は怪訝に思った。するとエドモンドは小さく頭を振った。
「何かじゃない。君にとって重要なことだから言ったんだ」
「重要なこと?」
「そう、私とランチに行くよ。早く支度をしなさい」
気安い口調だが、命令形だ。
瑛司は軽く困惑した。なぜ強引に上司からランチに誘われているのか。しかもこのオフィスで働き始めてから、初めてである。
「あの……」
あと少しで書類の作成も終わる。瑛司は一人で食べたかった。
「俺はこの作業が終わったら食べに行きますので、気にしないで下さい」
自分にしてはやんわりと断ったと思うのだが、エドモンドは面白いものでも見るように目尻をあげた。
「君のボスは誰? 答えるんだ」
「……エドモンドさんです」
さすがにまだ「エド」とは気軽に口に出せなかった。
「そう。わかっているようで安心したよ」
瑛司の心中を見透かしたかのように、エドモンドの口元がほそく笑む。
「君がボスを前にしてするべきことは、直ちにボスの命令に従うことだ。つまり、今から一分以内に文章を保存して、パソコンをシャットダウンして、その椅子から立ち上がる。OK?」
「でも俺は……」
瑛司は少々ムキになって反論しようとした。しかし、先にエドモンドが口火を切った。
「予言しよう。ここにずっといたら、エイジは事件に巻き込まれる。否応なしに」
「事件?」
「そう、時間になってもお気に入りのレストランに現れない君を探して、ミザリーがやってくる」
瑛司はあっと思い出した。文章を打つのに集中していたので、頭から忘れていた。
「その女性が来ても断ります。大丈夫です」
「全く大丈夫ではないな」
エドモンドはにべもなく否定する。
「いいかい、エイジ。誰もいないオフィスに不法侵入して、君の都合も聞かずに、勝手にデートの予約をメモにして置いていく女性だ。相手の言い分など聞くわけがないだろう。君に拒否権はない。無理やり連れ去られて、それで終わりだ」
弁護士のように饒舌に話しながら、エドモンドは瑛司の様子を窺う。感情の乏しい顔つきが、徐々に面倒そうに変わっていくのを目で確認して、満足したように頬をゆるませた。
「私の話が理解出来たら、今すぐに命令を実行するんだ。一分だけ待つ」
それからおよそ五分後。
エドモンドに渋々ついて行った瑛司は、本部前の通りを渡って、リンカーン大統領が暗殺された場所として有名なフォード劇場のそばで営業しているレストランで食事をした。店内はそう広くはなく、昼時なので混んでいたが、ちょうどカウンター席が空き、二人並んで座った。
「何を食べたい? ベーコン、トースト、パンケーキ、ワッフル。たくさんあるよ」
エドモンドはテーブルに置いてあるメニュー表を指で瑛司へ押し出す。
「何でもいいです」
瑛司は見向きもしないで不愛想に返事をした。半ば強制的に連れてこられたのである。それでエドモンドの気が悪くなっても、瑛司にはどうでもよかった。
「ああ、そう。それじゃ、私はトースト。君はパンケーキだ。コーヒーは飲めるね? 二つだ」
何でもいいと答えた瑛司の言う通りに、自分でさっさと決めると、カウンターにいた気の良さそうな店員に注文した。
「何でもいいということは、自分の人生の決定権を相手へ与えるということだ。そんな恐ろしいことを実行するとは、君は相当疲れているんだろう。美味しいパンケーキを食べて、正しい人生を取り戻すんだね。私は優しい男なんだ」
瑛司は無言だ。パンケーキを注文されて、また子供扱いされた気分になった。しかし上司にオーダーを押しつけた手前、文句は言えない。
――疲れた……
もう瑛司はぐったりしていた。皮肉大好きな上司の話を聞いているだけで、気分が重たくなってくる。ただでさえ親しく会話をする仲ではないのに、カウンターの硬い椅子に隣同士で座って、何を喋るというのか。
――どうしていきなり誘ってきたんだろう。
瑛司はいまいち腑に落ちなかった。見知らぬミザリーという女性と厄介ごとになるよりはと、エドモンドに言われるがままに連れ出されたが、そもそもあのメモは本物なのだろうかという疑念が湧いてくる。本当にミザリーという名の女性は存在するのだろうか。
「面白いね」
瑛司は顔をあげてエドモンドを見る。エドモンドはカウンターテーブルに片腕をのせて、薄ら笑いを浮かべていた。
「奇妙な表情だ。今まで見たことがない。本当は感情が豊かなんだろう、エイジは」
「さあ、考えたことがないです」
瑛司は顔を反らす。観察されているようで不愉快だった。
「じゃあ、私が考える」
エドモンドは気を悪くした風でもなく、もう片方の手の甲に顎をのせる。
「エイジの心を占めているのは、なぜ私がランチに誘ったかということだ。その理由になったメモ。そしてミザリー。果たしてミザリーは存在するのか、それとも私のでっち上げか。エイジの中で、疑惑がヒッチコック映画のように展開されている。そういう表情だ」
瑛司は顔を背けたまま、ごく小さく息を呑み込む。まるで自分の胸内を透視でもしたかのような指摘に、息を詰めて驚いた。
「私は連邦捜査官だ。超能力者ではない、まだね」
口を閉じたままの瑛司に、ジョークを飛ばす。
「捜査は得意分野だ。まず最初に説明しよう。ミザリーは実在する女性だ。君が来るまで、本当に私の部下だった。あとで室内の監視カメラで確認してみよう。ミザリーが映っているはずだ。メモの筆跡もミザリーのものだ。私が書いたものでもなければ、捏造したものでもない。指紋鑑定もしてあげようか。サスペンス映画を真似るほど暇ではないんだ、私は」
口調は相変わらずだが、理路騒然と話す様子に嘘は見られなかった。瑛司も自分の疑い深さに俯きそうになった。エドモンドの言う通りである。こんなことをして何を得られるというのか。
「そして、君をランチに誘った理由だが」
瑛司は釣られるようにゆっくりと顔を向ける。すぐ目の先に、エドモンドの自信に満ちた端整な顔立ちがあった。
「エイジとコミュニケーションを取ろうと思ったんだ。私の名前を覚えてくれる程度にね」
「覚えています」
瑛司は素っ気なく言い返す。
「エドモンドさん」
「エドだ。三回も言わせたら、私のパソコン内にある書類を全て作成してもらう。本気だ」
「……えっ?」
瑛司はびっくりして、脊髄反射で顔をしかめる。
「全ての書類の作成なんて、そう簡単にやれません」
午前中、たった一枚の書類の作成すら完成しなかったのだ。これも慣れないアルファベットで文章を打たなければならないからである。恐らく他の人間よりも数倍時間がかかっているだろう。
「嫌なら、エドと呼ぶんだね。どちらを選ぶかは、考えるまでもないことだ」
エドモンドは瑛司の狼狽ぶりを愉しむように、青い目を細めた。
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