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第1話

 オメガとは美しい人種だ。限りなく黄金率に則った配置の目鼻立ち。ふっくらと肉厚で柔らかな口唇に、小造りな顔。  一次性の男女の別を問わず、腰にかけてキュッと引き締まり、豊かな下腿を持つ。相対的に脂肪の蓄えが多く、口内にはβに比べて発達した味蕾があり、凹凸が大きい。  獲物であるαを虜にするべく産まれてきた性のスペシャリスト達は、たとえ社会の弱者であろうと、限りなく美を体現するものだ。同時にあらゆる雄を翻弄する誘惑者でもある。  だが、それもやはり――例外は存在する。 「やめてぇっ!」 「ヒイィィィ!勘弁してください!」  ドタドタ、バタバタ、ガチャ!バタン!  大慌てで立ち去っていく二人の男達の足音を遠くに聞きながら、呆然とベッドの中央で足を開く男が一人。 「……またかよ」  取り残された男はくしゃりと顔を歪ませ、両手で顔を覆った。部屋に充満する芳香が、ドアの隙間から漏れ出たのだろう――廊下から阿鼻叫喚の声が聞こえてくる。  一宮涼風。今年で25歳。一次性は男、二次性はΩ――15歳で初めての発情期を迎えてからかれこれ10年。  彼氏、彼女いない歴=年齢である彼は、――とある特殊なΩである。 「勘弁しろは俺だよ!――どうするんだよ、臨戦態勢の俺の身体をよ……」  耐水マットを敷いてあるもののぐしょりと濡れそぼつシーツ。取り残された"準備万端、食べ頃ど真ん中"のΩ。本来ならそれは、あらゆるαに向けた据え膳に他ならない。本来は。  コンコンと入り口のドアがノックされる。 「あ、あのぉ、お客様――ご無事でいらっしゃいますか?」  一宮は床に打ち捨てられた上掛けをふわりと腰に纏うと、億劫な身体を持ち上げる。ついでに、サイドチェストに用意しておいた錠剤を二錠――銀の包み紙には"発情抑制薬"と記載がある――をバリボリと噛み砕いて嚥下する。  大股で入り口へと急ぎながら、臀部から自身の分泌液が滴り下腿、膝裏、足首まで伝うのが煩わしくて舌打ち一つ。  一宮は右手でオートロックの扉を内からガチ開いた。彼は腰で扉を抑え、乱れかかって視界を防ぐ前髪を右手で掻き上げる。左手で抑えた上掛けを改めてキツく握り直したのは、目の前に立っていたのが華奢な女性従業員だったからだ。  凡庸な顔立ち、凡庸な身体、――何より一宮の"香り"に怯えない所を見るに、彼女はβの女性なのだろう。  彼女は半裸で出てきた長身の美青年に呆気に取られ、だが、それも一瞬の内に収めてみせた。流石は、一流ホテルの従業員である。 「あー……"俺は"、無事ですよ。ただその――ホテルにご迷惑をお掛けしたってのは、分かってます。………すみません……」 「いえ!…いいえ、お客様の事情は重々承っております。弊ホテルの対策が行き届きませず、お騒がせいたしました」  女性は深く腰を折って一礼した。一宮が周囲を見渡せば、先程までが嘘のように廊下の大騒ぎが収まっている。これはおそらく、目の前の彼女の手腕だろうと思われた。  廊下のあちこちにはフェロモンの遮断効果が高いミストバリアが張られ、人っ子一人いない。人払いをし、この階一帯を封鎖、尚且つミストバリアによって僅かのフェロモンの漏れさえ許さない鉄壁の守り。  思わず一宮は頬をひきつらせた。随分と大事になってしまった。 「イエ……ナンカコウ、申し訳ナイ……」  これは本来、意図せずヒートを迎えたΩに対する処置だ。  三ヶ月に一度の発情期はΩの代名詞ではあるが、これは時折、本人の意図せぬ所で開始されることがある。  誰彼構わず雄を惹き付ける厄介な"発情フェロモン"。発情でへにゃへにゃのふにゃふにゃになってしまったΩをレイプ被害から守るためのマニュアルがホテルには存在し、それが今発動したのは明らか。 「いいえ。一宮様がご無事で何よりでございます」 「うん。俺の連れ二人は、どう?大丈夫だったかな?」 「階下のスタッフが保護させていただきました。バース専門医が常駐しておりますので、的確に対応しております。ご安心ください」 「そっすか……、ハ、ハハハ!………はぁ」  一宮は逃げ去っていった"αの男達"の動向に、思わずズルズルと座り込んだ。  何せ彼は、即効性の抑制剤を飲み込んだものの発情期は真っ只中だったので。  慌てた女性スタッフは一宮の傍に屈みこむも、触れて良いものか躊躇って結局手は出さなかった。だが、困ったような顔でこう切り出した。 「……一宮様。あの、これは私個人として申し上げますが――」 「いいよ、言って」 「私はβの一般人ですから、その感覚は良くわかりませんが……。Ωには――αにも――運命のただ一人がいらっしゃるのでしょう?――ですから、一宮さまのフェロモンはその方のためだけに存在するのではないでしょうか」  スタッフ女性は優しい人なのだろう。その言葉に罪はない。だが一宮の落ち込みも相当激しく、その言葉を止めることは出来なかった。 「他のαが軒並み怖がって逃げ出す、天下無双の嫌われΩ――そんな俺の運命の番だなんて、俺がその人に申し訳ないじゃない」 「一宮さま……」  ――一宮涼風。彼のフェロモンはあらゆるαもβも怯え縮こませる無敵のΩフェロモンだったのである。 ◇ 「すず。昨日の休暇はどうでしたか?」  小首を傾げたストロベリーブロンドの青年は、気遣うように問い掛けた。細渕フレームのシルバーグラスは彼の知的な印象に良く合っている。彼は、一宮の雇い主にあたる。  一宮は束の間思索に耽った自身を戒めるように首を振る。かっちりと着こなしたブラックスーツ。ヒート休暇明けとは思えぬ風情の彼は、ただ目元に僅かの色気を残すのみで、後は何らβの男性と変わらない。  よく陽に焼けた肌、茶の色合いが濃いウェービーヘア、ただ一つその双眼のみが凍てつくアイスブルーの色合いを持っている。 「……大変、ゆっくり休めました」  せめてもの矜持にと一宮は強がりを溢した。その答えに眉根を寄せた青年は、ため息と共に首を振る。 「フム、またダメでしたか――"彼ら"ならあるいは、と思ったのですがね……」  "彼ら"とは昨夜の二人連れαの事だ。α同士のネットワークは多岐にわたり、Ωとのカップリングを求める情報ネットワークも勿論ある。  前述の理由で出会うαの悉くに"振られ"てきた一宮を憐れに思った雇い主がそのネットワークを介して紹介してくれたかなり上位のα(α特性が強い)だったのだが。結果は昨夜の騒ぎの通り、惨敗だった。  一宮はグッと両手を握ると、90度の最敬礼を示す。 「和巳様、――その……折角のお気遣いを、大変申し訳なく……」 「いいえ。私こそ申し訳ない。貴方に合うαを必ず見つけてみせる!……と、宣言してからこちら、もう一年になりますもんね」 「いえ!いえいえいえ。本当にお気になさらず――俺のような出来損ないΩを雇って頂けたばかりか、番候補の斡旋まで――和巳様には恐れ多くて、足を向けては寝られない程です」 「すず……」  小鳥遊和巳、21歳。彼は小鳥遊グループの跡継ぎ息子であるα。  だが、彼は単なるαではない。Ωが"αの母"であるならば、小鳥遊は"Ωの父"であるといえる。αと番ったΩの出産比率は、α対Ω比にして31。四人子を為して、Ωが一人産まれれば良い方で、子を一人や二人しか産まない現在においては、ほぼαしか産まれない事になる。  そんなこんなで母数を減らし続けているΩだったが、小鳥遊はこの苦境を救うべく産まれてきたキングαだと謳われている。あるいは、グレートファーザーとも。  小鳥遊の精子をΩの母体で受精させれば、九割の確率でΩが産まれてくる。絶滅に瀕したΩの数を増やす手だてとして各国の政財界においては、小鳥遊ほど有名なαはいないだろう。 「そんな卑下をしないで。――私が、貴方を抱いてあげられれば良かったんですけど…」 「和巳様……」 「私は悲しい種馬ですから。――あらゆる機関に絞り尽くされて、いつも疲労困憊している虚しいαだ。――一生番になんて縁がないんでしょうね……」  これまで解明されてこなかったが、今般になって俄に有名になった研究結果がある。  この論文は番を持つ前のαの精子と、番を持った後の精子を比較研究したものだ。これによれば、番う前のαが持つ精子は一次性に関わる染色体とΩの因子を持っているという。対して 番を持ったαの精子はΩの因子を失いα因子を多く含むのだという。  すなわち――。 「私が番を持てば、類いまれなるΩ因子を持つ精子が変質してしまうかもしれませんからね……」 「和巳様、そんな、そんな仰り方は――」 「フフ、……すず。どこまでもこれは事実でしかないから」  首を傾げた小鳥遊は億劫そうにデスクチェアに腰かけた。腰を庇う仕草に眉根を寄せた一宮は、その腰を擦ってやる。 「……ですが、俺はそのお陰で和巳様に拾って頂けた。こんな、身体だけが頑健な出来損ないΩに仕事を与えて下さったじゃないですか。俺は感謝しております、本当に――」  Ωとしては異例の事ながら、一宮はαである小鳥遊のボディーガードを請け負っている。  小鳥遊(本人というより親族)は、その体質上、 αからの脅威に比べΩからの急襲がまずいと考えた。  "Ωの父"と呼ばれれば聞こえはいいが、彼は所謂"Ω製造機"とも取れる。その市場価値は大層高く、その身を我が物にしようというライバル組織や、逆に宗教上許されないと忌避するような敵対組織による刺客が後を絶たない。  Ωの発情を起爆にした捕獲作戦によって、周りのSPが骨抜きとなり、危うく小鳥遊が誘拐されそうになった事件が過去にあったのだという。  一宮は、そんな彼にとって救いとなる人材だった。  第一にΩである一宮はΩに惑わされることはない。第二として、Ωとしては異例なことに、彼はすこぶる優秀なSPだったのだ。 「出来損ないなんかじゃありません。――強く美しい貴方は、きっと選ばれる時を待っているんですよ」 「……和巳様、それ、昨夜のホテルでも言われましたよ」 「おや、私と同じ感性の方がいらっしゃった?嬉しいですね」 「……お言葉は有り難いと思います。ですが、"運命"に出会う事なんて夢見てませんよ」 「すず…」  和巳は、デスクチェアから伺うように傍らの一宮を見上げた。 「高望みなんてしません。ですが、折角Ωに生まれたんです。愛する番を得て、この手に我が子を抱いてみたいと思っているだけなんですよ。 ……ハハ、数十年かかるかもしれませんが、和巳様の種を買わせて頂いて、Ωの子もいいかもしれませんね」  長い出産適齢期を持つΩではあるが、一宮は区切りとしてβ女性の高齢出産の境――35歳までには区切りをつけて人工受精にシフトしようと心に決めていた。 「……ッ、すず。そんなッ、貴方に精子バンクで買わせたりなんか――」 「ハハハ……俺もそう願ってます。――あなた以外にも一人くらい、運命でなくたって俺に怯えないαがいるんじゃないかって。だから和巳様、あなたが"友人を捨てて"俺を抱いてくれるなんて、そんな悲しいこと願ってませんよ」  確かに、小鳥遊は一宮のフェロモンに怯えない。これまでの人生では唯一と言っていい。  だが、小鳥遊も一宮も互いに運命は感じなかった。本当の"運命の番"ならば互いを認識するのかという点は怪しいところではあったが。  何より小鳥遊は極上も極上のα――彼も彼の精子も市場価値が恐ろしく、一宮はゼロの数を数えようとも思わなかった。  また崇め奉られ、あるいは種馬として使い倒されてきた小鳥遊にとって、一宮はSPである以上にαΩの異端者としての"唯一の友人"であると自負している。 「俺は貴方の友人ですよ。貴方が望まれる内はずっと。だから、もうこの話はおしまいです」 「すず。――……いえ、分かりました」 「さて、斎藤さんに今日の予定を伺わなくては」  β女性の斎藤は、小鳥遊の秘書だ。スケジュールを取り仕切る彼女は、その一方で多忙なシングルマザーでもある。  時差出勤してくる彼女を待ち受けるべく、一宮は部屋を後にした。

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