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27、ご挨拶
25日の朝、空は朝から累の家へと向かっていた。
昨夜は、興奮冷めやらぬ調子で帰宅した空と壱成だ。今日の感想を話し合いながら盛り上がっていた二人だが、空がふと『このあと累がくるかも』と話したら、壱成はハッと何かを悟ったような顔になり、「俺……実家にでも帰ってよっか? あの……ほら、そういうことするのに必要なものはさ、俺の部屋にもあるし……」と言い始めた。
初め空は、壱成の言わんとすることが分からなかった。遅くにやってきた累と三人で、クリスマスケーキでも食べれたらいいなと考えていたのである。……が、壱成が何にそわそわしているのかと気付いた空は、顔を真っ赤にして「か、帰らなくていいよ!! 今日いきなりそんなことしないって!」と喚いてしまった。
だが案の定、累はコンサート後の付き合いで忙しそうで、イブの夜に会うことは無くなった。それを聞いた壱成がなぜだかホッとしているのを横目に、空はクリスマスケーキを壱成とともに食べ、風呂を済ませて眠ったのである。
毎年クリスマスといえば、彩人は必ず仕事で家にいない。そのため空にとって、クリスマスは特別な休日というイメージがないのである。その代わり、壱成は毎年空のためにケーキを買って帰ってきてくれたし、サンタが実在すると信じていた頃までは、枕元にプレゼントを忍ばせておいてくれたものだった。
高校生になった今年、クリスマスプレゼントにと贈られたのは、少しお高めのレザースニーカーだ。空が雑誌をペラペラめくりつつ「こういうのかっこいいよね」と話していたことを、壱成が覚えていてくれたのである。
そんなこんなで、例年通りのんびりしたイブの夜を過ごした空である。自転車で5分もかからないほどの距離にある累の家に到着し、スマートフォンを確認する。時刻は10時過ぎだが、朝起きて累に送ったLINEには既読さえついていない。
「累、寝てんのかなぁ。ま、そりゃ疲れるよね……寝てたら一回引き返すかなぁ」
と、ひとりごちつつ階段を登り、玄関の門扉を押し開く。累の自宅の半地下部分はガレージになっていて、自宅に上がるには、数段の階段を登らねばならないのだ。
累が寝ている場合、この家には入れないことになる。昨晩夜中に彩人が持ち帰ってきたケーキやチキンを手土産に持ってきたのだが、それを玄関先にぶら下げておくわけにはいかないなぁ……と、そんなことを考えつつインターホンを押してみると、予想に反して、すぐにがちゃりと鍵が開いた。
累の寝ぼけ眼が見られるのかと思ってドキドキしていた空だが――なんと、顔を出したのは、累の母親・ニコラであった。
「あっ……えっ……? あ、お、おはようございます!!」
なんの心の準備もなく、突如として現れたオーラ満開の美人ヴァイオリニスト、ニコラ・ルイーズ・高比良を前にして、空の心臓は別の意味でドキドキが止まらない。既にばっちり化粧をすませ、ゆったりとした白いセーターに身を包んだ累の母親は、今日も素晴らしく美しかった。
「あれ、まさか、空くん?」
「はっ……は、はい! ごぶさたしております……」
「ワ〜〜〜オ! 大きくなったねぇ、ほら、入った入った!」
「お、おお、おじゃまします……」
普段、累とニコラは英語で話をしていると聞いている。確かに、ニコラの日本語は流暢だが、時折少し変わった発音をしたり、単語を思い出すように視線を彷徨わせたりするのである。空は極力はっきりと話すように心がけることにした。
空が渡した手土産にひとしきり感謝の言葉を述べた後、ニコラはふんふんと鼻歌を歌いながらキッチンで紅茶を淹れ始めた。その姿をチラチラを気にしつつ、空はリビングのソファに腰掛ける。
「ごめんね、累、まだ寝てるの。まったく起きない、ぜんっぜん起きない」
「そ……そうなんですね。昨日、すごかったですもんね、疲れたのかな」
「えっ、聴きにきてくれた!? ありがとう」
かちゃ……と目の前に置かれた紅茶からは、花の香りのようないい匂いがした。ニコラは斜向かい置いてあるひとり掛けのソファに座って足を組み、嬉しそうに微笑んだ。こうして笑った顔は、累そっくりである。
「いい演奏だったよね。ハノーファーの時より、ずっとよかった。パワーがあったわ」
「え……ええ、僕もそんな気がしました」
「ね〜〜、だよね〜? あの子、ドイツより日本のほうが合ってるのかもしれないね。音大のひとたちとも、なかよくなったし」
「ああ……はい。音大の演奏も僕、見に行きました。累くん、とても楽しそうでした」
なんとなく畏まってしまうので、自称も俺から僕に変わっている空である。相変わらず緊張したままだが、空が累のことを語っているのを、ニコラは神々しいような微笑みを浮かべつつ聞いてくれるのである。もっと怖い女性だと思っていたのだが、こうして息子の話を聞けるのは嬉しいことなのだろうなと、空は思った。
「……空くんは、今もずっと、累と仲良しでいてくれてるね」
「あっ……は、はい」
「……そう。なるほどね、だから累は、あんなにいい音が出せたのか」
ニコラは軽く何度か頷き、綺麗に整えられた指先でカップを手にした。長い脚に、ほっそりとしたデニムがよく似合う。改めて、あのガッチリずんぐりした父親・陣吾の遺伝子はどこへ行ったのだろうかと不思議になる。
「累は息子。でもわたしは、あの子をひとりの演奏家として、リスペクトしながら育ててきたの。さいしょにヴァイオリンを持たせてみたときに、すぐに分かった。この子はきっと、わたしよりすごいヴァイオリニストになるんだろうなって」
「……は、はい」
「もちろん、あの子のことは可愛い。大好きよ。でもね、あの子を本物の音楽家として育てようと思ったらね、わたし、親子の……emotional……そう、親子の情みたいなもの、少し邪魔だと思ったの。べたべた褒めたり、うまくいかないことにわたしがイライラして怒ったり、機嫌をとってヴァイオリンを弾かせるようなこと、したくなかったの。あの子には、純粋に、音楽だけを見ていて欲しかったの」
ニコラは白いレースカーテンの向こうへ視線をやりながら、物思いに耽るような表情でそう語り始めた。自分なんかがニコラの話を聞いていていいのだろうかと空は思ったが、累の家族のことだ、興味がないわけがない。空が静かにこくりと頷くと、ニコラは赤い唇で微笑んだ。
「陣ちゃんには……ああ、累のパパね。彼にはね、『ニコちゃんは冷たいよ』なんてしょっちゅう言われた。けど、昨日の累の演奏を見て、これで良かったんだと思ったの。そりゃあ、あの子にはいっぱい寂しい想いをさせて、申し訳なかったと思うわ。でも……見たでしょう? あの美しい音色に、堂々とした累の姿。……わたし、本当に嬉しかったのよ」
累の両親が、陣ちゃんニコちゃんと呼び合っているところには軽く萌えた空である。が、今気にするところはそこではないと思い直して、空は「本当に、かっこよかったです、累くん」と言い、カップをテーブルに置いて、ニコラの方へ向き直った。
「あの……累くん、楽しそうに話してました。ドイツで、家族みんなでクリスマスマーケットに行った話とか、ご両親が仲良しだって話」
「えっ……? そうなの?」
「はい。だから……申し訳ないなんて、思わなくていいんじゃないかなって、思ったっていうか」
累とそっくりの青い瞳が、じっと空を見つめている。どぎまぎするあまり視線が泳ぎそうになるが、空はニコラの目をしっかり見つめた。
「累、すごくお母さんのことを尊敬してるって言ってました。自分にもあんな音が出せたらいいのにって」
「……ほんとう? あの子、すごくクールだから……そんなこと、一度も言ったことない」
「ほんとです。ご両親のことを話す時の累、優しい顔をしてるので……」
空の言葉を聞き、ニコラは何度か目を瞬いた。そして「ああ……そうだ」と何かを思い出したように視線を持ち上げる。
「累ね、小さい頃からほとんど泣いたりぐずったり、しなかったの。でもこどもの頃、ドイツに行くことが決まったときだけ……あの子、泣いて怒ってすっごくいやがって、反対したのよ。『そらくんとはなれたくない』って」
「えっ……あっ、そうなんですか……?」
「口もきいてくれない日が続いて、困ったよ。申し訳なかった。けど、あの子を一人で置いていくわけにいかないでしょ? ……でもある日ね、『ぼくもドイツにいく。かぞくでいたほうがいいって、そらくんがいってたから』って言ったの」
「あ……はい、僕には両親がいないので……。家族は一緒の方がいいんじゃないかなって、思ったから」
「……そっか、ありがとう。あの頃から今も、累はきみのことがすごく大事なのね」
ひょっとして、交際していることがバレてしまったのか……と危惧した空だが、ニコラはにこにこと優しい笑顔である。ここはどういう反応をすべきなのかと迷っていると、ニコラはそっと空の前に跪き、きゅっと空の両手を握ってきた。空の手よりも少しだけ大きな、指の長い手だった。
「あなたがいてくれて良かった」
「へっ……」
「わたしたちのぶんまで、あなたがあの子を支えていてくれたのね。そっか……なるほどね」
ニコラはするりと空の手を離し、立ち上がりしなに空の頬に軽くキスをした。空がぽかんとしていると、ニコラはいたずらっぽく微笑んで、二階を指さす。
「累、起こしてやって。わたしはこれから仕事の打ち合わせで、夜まで帰れないよ。陣ちゃんも接待で遅くなるって言ってたから、のんびりしていってね」
「あっ……あ、はい。ありがとうございます」
「今度、みんなで食事、行きましょうね。お兄さんたちにも、よろしく言ってね」
「はい、わかりました」
ベージュのロングコートをさっと羽織ったニコラは、キッチンの脇に置いてあったヴァイオリンケースと高そうなバッグを持ち、空に手を振って家を出て行った。
広いリビングに一人になり、空はようやく「はぁ〜〜〜〜〜……緊張した……」と息を吐く。
「心臓に悪いよ、もう……。累のやつ、お母さんいるならいるって言っといてくれたら良かったのに」
と、ぶつぶつ文句を言いながら二階へ上がり、累の部屋をノックする。……が、返事はない。
空はそっと、累の部屋を覗き込んでみた。
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