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番外編『トライアングル』②……累目線

 数時間の逢瀬のあとに軽い夕飯を食べ、累は迎えの車に乗り込んだ。  これまでは高城音楽大学までは電車移動をしていたのだが、ここ最近は送迎がつくようになった。  そこまでしてもらうのは……と初めは遠慮していた累だが、いつぞや夜のレッスン帰りに、累を知る女性音楽ファン数人に取り囲まれてしまったことがあった。  その女性たちは酔っていて、べたべたと無遠慮に身体やヴァイオリンケースに触れてきた。しかも写真を一緒に、動画を撮らせてくれなどと迫られて、累は相当困ってしまったものである。それに相手は女性とはいえ、酔って分別を失った大人たちにぐいぐいと押し迫られるのは、正直少し怖かった。  その時は駅員に救われたのでことなきを得たのだが、それ以来、夜はもっぱら車移動である。送迎を担当しているのは、累のマネージャーとして迎えられた男だ。寡黙で無駄なおしゃべりはしてこない男なので、累にとっては気楽な相手となりつつある。  きりりとした上がり眉に鋭い眼光、グレイヘアを品よく七三分けにした、初老の男。凛とした佇まいから、どことなく武士道が香ってくるような風体の男である。名前は岩蔵という。  滑るように走る車の中、累は空のことを考えていた。  空が何か隠していることくらい、累にはとっくにお見通しだ。だが、あえてそれを問いただそうとは思わない。隠し事をしていることにも、何か理由があるのだろうと考えているからだ。  ――とはいえ……気にはなるけど。  累と賢二郎の間に何もないと分かっているはずだ。だが、こうして賢二郎と過ごす時間が増えてしまうことが、空にとって喜ぶべき状況ではないのだろうということは累にも分かる。そこに申し訳なさも感じている。  今回の依頼についても、断ろうと思えば断れたことだ。だが、累は賢二郎との共演が純粋に楽しみだった。  空には口が裂けても言えないことだが、累は賢二郎の音が好きなのだ。  ああだこうだと文句の多い人だが、賢二郎の音は決して累の音色を否定しない。口では嫌味ばかり言うくせに、賢二郎は柔らかく累の音に添い、繊細な響きを重ね、メロディーに美しい広がりを与えてくれる。一緒に弾いていて、気持ちのいい相手だ。  ――……なんて、空には言えないもんな……。  これは、累もまた空に隠し事をしていることになるのだろうか。  子どもの頃は、ただまっすぐひたすらに空のことだけを見つめていられたら幸せだった。だがこうして少しずつ大人へと近づいてゆくにつれ、悩みも増えていくらしい。  慣れないことを考えているとこんがらがってきて、累は眉間を押さえてめ息をついた。 「累さん、到着しましたよ。頭痛ですか?」 「あ……いえ、平気です」 「そうですか。それではまた二時間後にお迎えに参ります」 「はい、よろしくお願いします」  マネージャーというよりも、むしろ執事と表現したほうがしっくりくるような岩蔵である。だがこう見えて、岩蔵のマネージメント能力はかなりのものであるらしく、毎日のように寄せられる公演依頼や取材へ対応は、すべて岩蔵ひとりでこなしている。  しかも送迎まで担当してくれるという優遇っぷりには恐縮してしまうが、おかげで累は演奏にのみ集中していれば良い。これはとてもありがたいことである。    +  高城音楽大学には今日も、あちらこちらからたくさんの音が聞こえてくる。  この敷地内に入ると、ホッとする。累はまだ部外者だが、高一の冬から一年あまり、週二で通ってきている場所だ。初めは騒ぎ立てていた学生たちもすっかり累に慣れていて、気軽な調子で挨拶をしてくれる学生も増えた。 「こんばんは、お疲れ様です」  そして、いつものレッスン棟にやってきた累は、廊下のベンチで惣菜パンを頬張っている賢二郎を見つけ、ぺこりと一礼した。  大きなコロッケパンをにかぶりつこうとしていた賢二郎は大口を開けたままぴたりと動きを止め、目線だけで累を見て「お、おう……おつかれ」と言った。  先週までは無造作に伸びていた髪の毛が、今日はバッサリ短くなっていた。前髪の長さはさほど変わっていないが襟足がきれいに刈り上がっているため、首筋がすっきりと見えている。おしゃれでとても似合うのだが、首がすごく寒そうだなと累は思った。春の夜は冷えるのに。  腕時計を見るとまだ19時少し前だ。まだレッスン室が空かないのだろう。  累はヴァイオリンケースをベンチに置き、石ケ森の隣に腰を下ろした。 「髪切ったんですね」 「おう、まぁな。ずっと伸ばしっぱでさすがにうっとしくなったし」 「そういうの似合いますね。石ケ森さん、首が細いから」 「………………。あんなぁ」  凄みのきいた低い声に、累はギョッとした。褒めたつもりが、賢二郎に睨まれているのである。……また何か言葉のチョイスをミスってしまったようだ。 「……細いとか言ったらいけませんでしたね、すみません」 「フン、わざわざ謝られんのも腹立つな」 「すみません……」 「まぁ、ええけど」  ぷいと前方に向き直った賢二郎の耳が、やや赤く染まっていることに累は気づいた。やっぱり寒いんだろうなと思いつつ、とりあえず余計なことは言わないでおくことにして……。 「ひょっとして、ずっとレッスン棟にいたんですか?」 「ん? まぁな。あれこれやらなあかん課題もあるし」 「ですよね。留学の準備で忙しいだろうし、今回の件、引き受けてもらえるとは思いませんでしたよ」  そう、石ケ森は会えばいつも忙しそうだ。だからこそ、石ケ森が今回のコンサートに参加すると返事をしてきたことが意外だったのである。  すると石ケ森は、少し赤みを帯びた頬のまま累を睨んだ。そして、いつものようにフンと鼻を鳴らす。 「そら、まぁ……おもろそうな話やったしな。京都は僕の故郷やし、二年くらい帰れてへんからちょうどええし。それに君と組んだら僕の顔と名前ももっと世間に広まるやん? 知名度上げたいしな、僕も」 「なるほど、確かに。石ケ森さんらしい考えですね」 「せやろ」  よほど空腹だったのか、賢二郎はあっという間にコロッケパンを食べ終えてしまった。そして累に向かって、こんなことを尋ねてくる。 「それはそれとして、君の彼氏は京都行きのこと、なんも言うてこーへんの?」 「彼氏……空のことですか?」 「他に誰がいんねん」 「ええ、まぁ……応援してくれているんですが、なんだか、ちょっと強がってる感じがしていて」 「強がってる……ふうん」  時折こうして、賢二郎は空の名前を口に出す。  学園祭で空の顔を見ている上、賢二郎には恋愛相談のようなものに乗ってもらったこともあった。なので、空の存在を知っていることについては特に違和感を感じることもないはずなのだが……。  賢二郎も何かを隠しているような気がして、累は妙に気になってしまった。 「石ケ森さんと空って、面識がありましたっけ?」 「面識? 面識は……ないやろ。顔は知ってるけど」 「空の名前、よく話に出してきますよね。どうしてですか?」 「ど、どうしてって……」  なにやら口籠もっている賢二郎を見て、累はさらに確信を深めた。賢二郎と空は、何かしら繋がりがあるらしい。  ――……ひょっとして、学園祭で空を見て、石ケ森さんも空のこと好きになっちゃったとか……?  もしそうなら、早めに釘を打っておかねばならない。いくら賢二郎が頼れる先輩だとはいえ、空を渡すわけにはいかない。そんなことは到底許されない。  累はベンチに手をついて、ぐっと賢二郎に顔を寄せた。賢二郎は、突然累が距離を詰めてきたことに驚いたようだ。眉根を寄せて目を瞬き、「な、なに?」と低い声を出す。 「空と、いつ会ったんですか?」 「……。………はっ?」 「僕の知らないところで空と会ったんでしょ? そのとき、空に何か言ったんですか?」 「なっ……なに言うてんねん! そ、そんなことするわけないやろ、あほくさ」  半ば確信を持ちながらカマをかけてみて、やはりそうなのかと手応えを得る。強気な口調の賢二郎の唇のひくつきを、累は見逃さなかった。  累は立ち上がり、そそくさとその場を離れようとする賢二郎の前に立ちはだかる。そして、ドン、と壁に手をついた。  また背が伸びたのだろうか。こうして見下ろしてみると、賢二郎は初めて出会った時よりも少し小柄に思えた。累の腕によって作られた檻の中、賢二郎の上目遣いがこちらを困惑したように見上げている。 「ちょっ……! な、なんやねん自分! どこで壁ドンなんて覚えて……」 「空と会ったんですね」 「う」 「どこで? 何を話したんですか? 空、ずっとあなたのことを気にしてます。ひょっとして、空を誘惑するようなことを言ったんじゃ……」 「誘惑!? ち、ちゃうわボケェ!! なんで僕があの子を誘惑せなあかんねん!!」 「だったら、あなたの話題が出るたび空の態度がおかしいことに、どう説明をつければいいっていうんですか」 「ぐ……」  さらに距離を詰めて賢二郎を追い詰める。すると、賢二郎の頬がじわじわと赤く染まり、累を睨みつける瞳に力がこもり……。  不意に持ち上がった賢二郎の手が、ぐいいいっと累の襟首をつかみ上げた。 「うぐっ……、ちょ、何を……」 「おおええわ、教えたるわ。凱旋公演前、ここで空くんとばったり会うたんや!!」 「や、やっぱり……! なんで隠すんですか!」 「だって、そりゃ……」  賢二郎は何かを言いかけ、はっとしたように口をつぐんだ。そしてぎゅうっと唇を引き結ぶと、さらに真っ赤になって俯いてしまった。その態度に、累はちょっと青くなった。 「ま、まさか……やっぱり石ケ森さんも空のこと……」 「はぁ? んなわけないやろ。それだけは断じて無い。安心し」 「? じゃあ、なんで隠すんですか。空だって……」 「あの子、ほんまに君にはなんも言うてへんねや」 「え? ええ……」  累が頷くと、シャツを掴んでいた賢二郎の手から力が抜けてゆく。 「……ふーん、やっぱええ子やな」 「それはどういう……」 「公演三日前。君がちょい調子落としてロベルソンがピリピリしとった日。僕も疲れてて、コーヒー買いに外出たら、君に会いにきた空くんとバッタリや。そんとき……ちょい、弱音吐いてん、僕」 「弱音……?」 「それを、誰にも言わんといてくれって頼んだんや。律儀に守ってくれてはんねんな、あの子は」 「……そ、そうだったんですか」  する……とシャツから賢二郎の手が離れてゆく。俯く賢二郎に累もまた気まずくなって、壁についていた手をスッと下ろした。 「そうならそうと……言ってくれたらよかったのに」 「話聞いてたやろ? この僕の弱音やで? ……そんなん、君には特に知られたないねん」 「空には言えるのに?」 「初対面やからな、逆に気楽に喋れたんちゃう?」 「そうですか……」  空の優しい雰囲気に、賢二郎も癒しを得たのかもしれない……と累はようやく納得した。と同時に、空が頑なに隠し事をしていたのは、賢二郎との約束を守ろうとしていたからなのか、と。 「……すみません、変なふうに疑って」 「や、べつにええけど。それより……近いねん自分」 「あ、す、すみません」  壁ドンをした上にさらに詰め寄っていたため、賢二郎との距離はほんの十数センチだ。慌てて一、二歩後退して、累はようやく、周囲が少し騒がしいことに気づく。  十九時までレッスン室を利用していた女子学生たちが部屋から出てきて、廊下でもみ合っていた累と賢二郎のことを、遠巻きに見ている……。 「……ねぇあれ、ルイくんと石ケ森くん……」 「石ケ森くんが迫られている……だと……?」 「また一緒に組んで何かやるって聞いたけど……そういうこと……?」 「これから密室防音のレッスン室で何を……?」  ひそひそと声を潜めているつもりなのだろうが、ピンク色の興奮が伝わってくるような彼女らの声音である。これはいったいどうしたものかと考えあぐねている累をよそに、仏頂面の賢二郎はガッとヴァイオリンケースを掴んだ。そして女子学生らをジロリとひと睨みし、つかつかとレッスン室へ入って行ってしまった……。 「フンフン〜今日もレッスン〜〜ふふ〜ん♪」  とそこへ、夏目が鼻歌まじりに登場だ。  盛り上がっている女子学生と、廊下の壁の前で固まっている累を見比べ、夏目はしゃなりと首を傾げた。

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