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おまけ『たしかな形』……彩人目線

 空たちが勉強をサボらないように見張りながらのミーティグが終わり、彩人はようやく部屋へ戻ってきた。  食事の途中で寝入ってしまった壱成は、数時間前とほとんど同じ姿勢でぐっすりと眠っている。無意識にこぼれる笑みを唇の乗せ、彩人はその傍らに腰を下ろした。  そして、さらりとした黒髪に指を通す。  触れられたことで少し目が覚めたのか、黒いまつ毛がぴくりと震える。重たげなまばたきのあと、壱成はゆるゆると彩人を見上げた。 「彩人……」 「……壱成、大丈夫か?」 「ん……」  形のいい頭を何度か撫でるうち、壱成の腕が伸びてきて、ベッドに座る彩人の腰に回った。引き寄せられるままに添い寝をすると、壱成は彩人の胸板に額をつけて、息をついた。 「……う〜ん……」 「ははっ……寝ぼけてんな」  責任感の強い壱成は、仕事でストレスを溜めやすい。再会した頃からそういうところは多分にあったが、今はさらに部下を抱える身だ。自分の仕事をきっちりとこなしながらも、部下からの相談にも全力で乗ってしまう。  人がいいので、プライベートな悩みまで聞く羽目になり、さらに時間を取られる――ということがたびたびあった。  しかも壱成は彩人と結婚しているため、同性婚を考えてはいるが踏み切れずにいる人々からの相談に乗ることも多いようだ。社内のみならず、取引先でそういう話題を振られることもあるようで、そのたび真摯に話を聞いてしまう。  とても有意義なことだと彩人も思ってはいるけれど、内心かなり心配だ。そういう話題にかこつけて、壱成をナンパしようとしてくる男がいやしないかと気がかりなのだ。  実際、「接待帰りに悩み相談になって、最終的にホテルに誘われた」と、げんなりして帰宅したこともあり……その一件以来、壱成はこれまで以上に警戒するようになったようだが。  ――こいつの面倒見がいいってことは、俺も身をもってよく分かってるけどさ……。 「……あんまり頑張り過ぎんなよ」  抱きついたまま寝息を立てる壱成の黒髪が、指にさらりと心地良い。眠った横顔はいつ見ても無防備で幼く、見つめていると、思わず微笑みがこぼれてしまうほどに愛おしい。  ――なんか壱成、中学んときからあんま顔変わってねーな……。  中学三年生で同じクラスになった時、壱成はクラスメイトたちよりも大人びた風貌をしていたように思う。  優等生かつスポーツも堪能だった壱成は、彩人の周囲を取り囲む派手な女子たちからもすこぶる評判が良かったし、清楚系のおとなしい女子生徒たちもまた、壱成に熱い視線を送っていた。  艶のある黒髪に白い肌、清潔感と爽やかさに溢れた端正な顔立ち。誰にでも優しく、バカ騒ぎを好まない落ち着いた雰囲気が、壱成を大人びて見せていたのかもしれない。  当時の彩人も、親切そうだけど堅そうなやつだな、という印象を抱いていた。  だが、文化祭の実行委員を一緒にやるようになってから、壱成の不器用な生真面目さに触れ、親しみを覚るようになったのだ。  委員会が長引いた放課後のこと。 「先生に資料渡してくる」と言って会議室の前で別れたものの、彩人はなんとなく、壱成の戻りを待っていた。  すると、くたびれた表情で教室に戻ってきた壱成が、彩人を見て目を丸くする。 「あ……早瀬。先帰ってて良かったのに」 「いーって。帰ってもどーせヒマだし」  そう言って笑って見せると、壱成は少し嬉しそうに表情を緩めた。  その頃、彩人の父親は体調を崩していて、入退院を繰り返していた。母親はいつも不安そうだったが、彩人の前では気丈なふりをして笑っていた。  そうして無理をしている母親の顔を見ていることも、会うたびに痩せ細ってゆく父親を励ますことにも、彩人は少しずつ、疲れを感じるようになっていた。  バカで賑やかな友人たちといる時間はそれなりに楽しく、一瞬ならば不安を忘れることができた。だが、家に帰れば一人だ。病院につきっきりの母親の代わりに不慣れな家事をしたり、ひとりきりで食事をする時間が、さみしかった。  暗くなった通学路を歩くうち、見慣れたコンビニが見えてくる。そこを越えればすぐに駅があり、壱成とは別々の帰路につく。  いつもなら同じ中学の生徒たちがたむろしているコンビニだが、今日長引いた委員会のおかげでひと気はない。彩人はいつもの癖で立ち止まり、壱成に「なぁ、コンビニ行かね?」と声をかけた。  だが、壱成は品行方正な生徒だ、暇つぶしに付き合ってもらえるわけがない。誘ってみてからはっとした。 「あっ……ごめん、壱成っていそがしーんだよな。これから塾、とか?」 「ううん、今日はないから。行こーよコンビニ。ちょっと腹減ったし、俺もなんか食いたい」 「ほ、ほんと?」  ぱぁぁ、と顔を輝かせている彩人にやや面くらった顔をしたあと、壱成は笑って「うん」と言った。  その時、コンビニ前のガードレールにもたれかかって食べた肉まんは、とてもとても美味かった。  もっと壱成のことが知りたくて、「塾いつから行ってんの?」「水泳部だったよな、試合出た?」「お前んちってどんな? 兄弟いんの?」など、たくさんの質問を投げかけた。  肉まんをもぐもぐしながら、壱成は丁寧に質問に答えてくれた。穏やかな声で、彩人の問いにひとつひとつ答えを返してくれる壱成の優しさが、身体に染み込むように心地良い。会話を重ねるにつれ笑顔が増えてゆく壱成の横顔を見つめていると、乾き、ささくれかけていた彩人の心が、少しずつ生気を取り戻してゆくようで――  星も月も見えないようなのっぺりとした夜空が、その日ばかりは綺麗に見えた。  もっと仲良くなりたい、自分のことを知って欲しい……と思ったけれど、次の日学校へ行ってみると、壱成はカースト上位の秀才たちと親しげに談笑していた。成績の良くない彩人たちを見下すような目つきをするような男子生徒たちで、家柄もよければ頭も良い連中だ。進んで関わり合いたい奴らではない。  聞こえてくる会話も、塾や受験の話だ。到底ついていけるわけもない話題である。  昨日すぐそこまで届きそうだった壱成の笑顔を、なんだかすごく、遠く感じた。  ――俺とは、これから生きていく世界が違うんだろーな……。  その時感じた寂しさが、彩人の心に突き刺さる。だが、つるんでいる仲間達の輪に入ってしまえば、いつも通り笑っておちゃらけたことを言って、明るく振る舞わなければならない。  彼らのことは嫌いではない。  だが、心の奥底を分かってもらいたいと願う相手は……。     + 「……彩人? あれ……ごめん、俺、寝て……」  過去へと遡っていた彩人の意識が、壱成の眠たげな声で現在に立ち返る。  あの頃は、手を伸ばすことさえできなかった。友情と呼べる関係にまで育つこともなかった微かな絆が、今はこうして、確かな形をもってここにある。  伝えたい言葉はたくさんあるのに、なぜだかうまく言葉にできない。しばらく思い返すこともなかった中学時代の記憶を反芻していたせいだろうか。  彩人が微笑むと、壱成もまた同じように笑い返してくれる。手を伸ばして、彩人の頬に触れてくれる。それがとても嬉しくて、これ以上ないほどに幸せだ。  彩人は壱成の左手をそっと握ると、薬指に嵌った銀色の指輪にキスをした。 「……へへ……くすぐったいじゃん、どうしたんだよ」 「ううん。……なんでもねーよ」 「?」 「何でもない。なんか飲むか?」 「うん……サンキュ」  彩人に背中を支えられ、ようやく身体を起こした壱成が、ふと何かに気づいたような顔をした。 「てか……今、何時……? 俺……空くんたちの勉強、見てないと……」 「大丈夫大丈夫、俺たちさっきまで空の部屋にいたんだ。ちゃーんと勉強してたぜ」 「えっ……過去形?」  ばっとベッドサイドの時計を見た壱成が、目に見えてショックを受けている。そして「も、もうすぐ日付跨いじゃうじゃん……」とがっくり落胆した表情になった。 「ごめん彩人、せっかく久しぶりの旅行だったのに……」 「何言ってんだよ。お前がゆっくり寝られたんなら、それでオッケーだって」 「けど、こんないい旅館に招いてもらったのにぐーすか寝てるとか……」 「じゃ、今からもうひとっ風呂浴びる?」 「あ……うん、うん!」  こくこくと頷きながら壱成は威勢よく立ち上がった。眠ってスッキリしたのだろう、昼間よりも顔色がいいほどである。 「ほら、入ろ入ろ! 背中流してやるからさ!」 「え、マジ? やったね」 「今度は彩人がゆっくり寝ろよな。明日は俺が運転するから」 「んー、俺そんな眠くないんだけどなー」  と言いつつ立ち上がり、ひょいと壱成の腰を抱き寄せる。はだけたままの襟元から覗くきれいな鎖骨や白い胸元へ視線を這わせた後、間近で壱成をじっと見つめると――  それだけで、ぽっと壱成の頬が赤くなる。 「な……なんだよ」 「何って、分かってるくせに」 「ちょっ……先に、風呂っ……」 「ん、後でゆっくり入ろーな♡」  どさ、と壱成をベッドに逆戻りさせた彩人は、ありったけの愛撫で疲れた身体をとろとろに蕩けさせ――  久々の温泉旅行を、しっかり堪能したふたりであった。 おまけ『たしかな形』 おしまい♡

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