63 / 85
キスの日SSおまけ『一歩ずつ、前へ』〈賢二郎目線〉
こんにちは、餡玉です。
ありがたいことに、賢二郎とサーシャのことも気になるというご意見を頂戴しましたので、わたしの息抜きも兼ねて書いてみました。
楽しんでいただけますように……♡
+ + +
久方ぶりの日本の夏は、不快指数100%だった。
この三年、一度も日本に戻ることなくウィーンで過ごしていたこともあって、信じられないほどの湿度の高さとギラギラと照りつける真夏の太陽の凶暴さに驚かされる。
「あ~~……もうホンマ暑すぎるやろ……ありえへん」
寝起きからすでにぐったりとだるい。ベッドに寝転んだままモゾモゾと腕を伸ばしてエアコンのリモコンのスイッチを入れると、汗ばんだ肌に涼しい風が降り注ぐ。
ウィーンは夏は涼しく冬は極寒だった。湿度が低いため、夏はとても爽やかで過ごしやすかった。
だからこそ、突然の高温多湿っぷりに身体が驚いているのがわかる。夏の不快さで有名な京都で育った賢二郎は、暑さに弱い方ではなかったのだが。
少し部屋がカラッとしてきたところで、賢二郎はうーーんと伸びをして起き上がった。そして、ひとまずシャワーを浴びようとバスルームへ向かう。
帰国してからは、以前住んでいた部屋より少し広めの部屋に引っ越した。大学のそばにある、音大生御用達の防音マンションだ。
シャワーを浴び終えたところで、インターホンの音に気づく。こんな時間に訪ねてくる人物といえばサーシャくらいのものだ。
賢二郎はささっと身体を拭って適当な部屋着を身につけ、濡れた髪のままドアを開けた。
「おはよう、賢二郎」
「おはよ。朝っぱらから元気やなぁ」
「まぁね。ランニングしてたらおしゃれなパン屋を見つけたんだ。いっぱい買ってきたから一緒に食べよう」
「おっ、ええやん。ありがとう」
来日初日こそ「な、なんだ……? 身体がベタベタする……」と日本の湿度に驚いていたサーシャだが、よほど適応力があるのか、今は朝からピンピン動けるまでに日本の気候に慣れている。
ちなみに、サーシャの住まいはこのマンションの最上階の角部屋だ。高待遇で招聘されているため、賢二郎の部屋よりもずっとグレードの高い部屋に住んでいる。
「一緒に住もう」と言われなかったのは少し意外だったが、安堵した。一人暮らしの長い賢二郎にとって、ひとりで過ごす時間は必要不可欠。そしてそれは、サーシャも同じだった。
お互いに、誰にも邪魔されずひとりで音楽に没頭する時間はなくてはならないものだからだ。
キッチンでインスタントコーヒーをかき混ぜているとサーシャがそばにやってきた。タオルで賢二郎の濡れた髪を拭き、「クーラー入れてるのに濡れた髪でいたら風邪ひくだろ」と世話を焼く。
「今朝は会議やった? 何時からなん?」
「えーと……九時からだったかな」
「ほなあんま時間ないなぁ。はよ食べてしまわな」
「やれやれ……めんどうだなぁ」
「めんどくても大学の仕事やろ? 真面目な顔して座っとくんやで」
「はいはい……」
もうすぐ後期がはじまるため、サーシャは教職員の会議に出ねばならない。これまでは大学院に籍を置きつつ比較的自由に音楽活動をしていたため、これが窮屈でたまらないらしい。
教職に就くにあたり、伸ばしていた髪をこざっぱりと切ったためか、最近のサーシャにはどことなく精悍さを感じている賢二郎だ。
暑さを理由に薄着がちなこともあって、しなやかな筋肉に覆われた美しい肉体を目の当たりにする機会も増え、そばに寄ってこられるだけでついつい意識してしまう。
だが、ドキドキしていることを素直に表現できるわけもなく、賢二郎はちょっとつんとした口調でサーシャにこう問いかけた。
「サーシャ、また天才クンに絡みにいってたんやて?」
「……そうだけど、なんで知ってるの? ルイから聞いた?」
「ちゃうよ。サーシャがあの子を付け回してるって、まぁまぁ噂になってんで」
「ええ? まだ夏休みなのに?」
「もうすぐ後期始まるし、そろそろ大学に戻ってきてる学生も多いからなぁ」
「ふーん。日本人学生は真面目だね」
サーシャは軽く肩をすくめて賢二郎の肩にタオルをかけ、後頭部に軽くキスをする。それをくすぐったく感じつつ、横顔で後ろを振り向いた。
「累クンのスランプ具合が気になるんやろけど、あんまちょっかい出したらあかんで」
「心外だなぁ、ちょっかいなんて出してないよ。彼の再起を願って様子を見に行っているだけさ」
「……そんならいいねんけど」
「あいかわらず、賢二郎にとってルイは特別気になる存在なんだな」
その台詞を聞いて、賢二郎は身体ごとサーシャに向き直り、物憂げなアイスグレーの瞳を見上げた。
帰国する前から……いや、交際に至る前からもずっと、サーシャは累の存在をものすごく気にしている。
なのでこういう話題は避けておきたいところなのだが、むしろ普段、累を会話に持ち出してくるのはサーシャのほうだ。『秋の音楽祭のための情報収集』と言ってはいるが、まさか賢二郎の反応を見るためにそんな話題を振っているのではあるまいか……? と勘ぐってしまうこともある。
「何回も言うてるけど、あの子はそういうんとちゃうって。彼にもれっきとしたパートナーがおるんやし」
「うん……わかってるよ。わかってるんだ。……うん」
サーシャと出会ったばかり頃、賢二郎はまだがっつり累のことを引きずっていた。酒で酔っ払えば必ず、賢二郎は累の話をうだうだと聞かせていたらしい(ちなみに酒のせいで記憶はない)。
累がいかに素晴らしい演奏家かということに始まり、小さい頃からライバル視していたこと、累の出演する動画をもれなくチェックしていたこと、大きくなった累を見て腹が立ったこと、だが意外と素直で可愛いのでキュンとしたこと……そして最後は「会いたい」「声が聴きたい」「ドイツ語教わればよかった」などとめそめそし、酔い潰れて眠ってしまうという醜態を晒していたというのだから……。
聞けばサーシャは、賢二郎が同じ寮に引っ越してきたときから意識していたという。
日本人留学生は珍しい存在ではないけれど、顔立ちや身体つきが好みで気を惹かれ、何かの折に賢二郎の演奏を聴き、さらに惚れ込んだのだとか。
だが、賢二郎は口をひらけば累の話ばかりする。苦い想いを抱えながらも、ずっと賢二郎のそばにいたらしい。
それでもふたりの関係は、ウィーンにいた頃は穏やかそのものだった。だが場所が変わり、本物の累がすぐそこで音楽をやっているという状況は、サーシャにとっては落ち着かないものに違いない。
賢二郎とがもっと大っぴらに、わかりやすい愛情表現ができたらまた状況は変わっていただろう。……が、恋愛経験がほとんどない賢二郎はそれができないでいた。
そういう意味での不安のあらわれもあるのだろう。最近のサーシャのスキンシップは少しがっつき気味で、余計に賢二郎が引いてしまうこともあり、悪循環が続いている。
——このままじゃさすがにあかんよなぁ……。
と、賢二郎は人知れずため息をついた。隣でパンをトースターにセットしているサーシャの横顔も、どことなく曇りがちだ。
「実物の彼を目の前にすると、俺もさすがに複雑なんだ」
「まあ……そうかもやけど」
「しかも、映像や写真で見るよりずっといい男だし。まだ二十歳そこそこだろ? 発展途上の若者の成長は恐ろしいからな」
「……そうやなぁ」
あの日、三年ぶりに累の姿を見て、何も感じなかったといえば嘘になる。だがそれ以上に、うつろに曇った累の瞳の色のほうが気になった。
高校生だった頃の累はまだ、身体つきや表情に少年らしさを湛えていたけれど、大学生になった累の風貌はとても大人びていた。
だけど、瞳の色を見てすぐにわかった。累がどれほど深い不安と恐れを抱え込んでいるのかということが。
幼い頃から賢二郎の心を掴んで離さなかった鮮烈なオーラは翳り、表情はそこはかとなく悲しげだ。見たこともないくらい疲弊した累の姿に、スランプに沈んでいた頃の自分を重ねてしまえば、手を差し伸べる以外の選択肢などあるわけがなかった。
空とも会って話をし、累の調子も少しずつだが回復傾向にあるという。それを聞いてホッとしたし、空から累の話を聞いて嫉妬することも無くなった。
昔抱いていたような感情は、賢二郎の胸にはもうないのだ。
——だからこそ、サーシャにもっと、僕からも愛情表現していかなあかんとこやんなぁ……。
考え事をしていると、不意に腰を抱き寄せられ、賢二郎はぎょっとしてサーシャを見上げた。
淡い髪の色や冷え冷えとしたクールな容貌、ほっそりして見える体躯のせいでどことなく儚げに見えるサーシャだが、ピアニストとして活動していた時期もあるだけに腕力はかなり強い。
手狭なキッチンの中で急に距離を縮められたことに怯んだ賢二郎の顔が、ややこわばる。
「賢二郎。俺はいつまで待てばいい?」
「はっ? ……ちょっ……なんやねん急に。僕がその気になるまで待つって……」
「待つよ、いくらでも。待ちたいよ。……けど、ルイを見てると不安になるんだ」
身を捩ってサーシャの腕を逃れようかとも思ったが、その表情を目の当たりにして、賢二郎は身じろぎをやめた。
「きみが惹かれた理由はわかる、ルイはとても魅力的だ」
「……」
「十五歳のときの凱旋公演とやらであれだけの演奏ができたんだ。たとえ今はしょぼくれていたとしても、そのうち彼は殻を破るだろう」
「ん……せやな」
「そのとき、賢二郎がまたルイに惚れたらどうしよう……ってのが、俺の本音だよ」
サーシャの腕から逃れるべくして掴んでいたシャツから手を離し、そっと両腕を背中に回す。賢二郎が身を寄せてきたことに驚いたのか、ぴくっとサーシャの身体が一瞬震えた。
サーシャから抱きすくめられることは何度もあったけれど、賢二郎からこうして触れるのは初めてだからだろう。どく、どく、どくと早鐘を打つ胸の音を聞きながら、賢二郎は目を閉じた。
「もう、そんな気ないって言うてんのに」
「……本当に?」
「ほんまにや」
賢二郎は昔から、色恋沙汰が苦手だ。
なのに累に淡い恋心を抱き始めてからというもの、自分の性的指向がどっちを向いているのかわからなくなってしまい、混乱していた。
これまで交際した女たちとは、キス以上のことが進展する間も無くフラれてしまったし、彼女らは賢二郎にとって、音楽以上に関心を持つことのできる相手でもなかった。性欲ももともと薄いたちだ。
なので累への気持ちを拗らせ、淫らな夢を見てしまったあの日以来、ひょっとしたら自分はそっち側なのかもしれない……と思うようになった。
そこへきて、サーシャからの告白だ。戸惑いはしたが、ここでサーシャの想いを遠ざけて、穏やかで幸せな時間が失われてしまうことのほうが寂しく思え——……賢二郎は、差し伸べられたサーシャの手を取った。
腰に回っていた腕が持ち上がり、賢二郎の背を包み込む。すり……と髪の毛に頬擦りをされた。
とても優しい仕草だ。大切にしてくれているのがよくわかる。
賢二郎はぎゅっと目を閉じ、気恥ずかしくて伝えきれていなかったことを、今ここで伝えることにした。
「……好きやで、サーシャのこと。誰よりも大切やと思ってる」
「え。……えっ? ど、どうしたの急に」
今の今まで、愛情表現はすべてサーシャ任せだった。だが、このままではいけない。
サーシャが不安を感じているのだ。恥ずかしがっている場合ではないではないか。
「その……色々と待たせてることは、ほんまに悪いと思ってるよ。けど……まだ、怖いねん」
「怖い? あ……ああ、俺とすること?」
「うん……ごめん」
ふ……と小さく微笑むような息遣いが聞こえてくる。
後頭部をゆっくりと撫でられ、賢二郎は心地よさに目を閉じた。
「嬉しいな、きみからそんな話をしてくれるなんて。……怖がらせてしまってるのは俺のせいなんだから、謝らなくてもいいんだよ」
「サーシャのせい?」
「俺に余裕がないからだ。賢二郎が怖がる暇を与えないくらいの快楽で酔わせたいのに……」
「ど、どこでそんな日本語覚えてん……」
抱きすくめられたまま顔を上げてみると、遠い異国の空を映すようなアイスブルーの瞳が柔らかく細められた。そして、乱れていた前髪をかき上げられ、額に軽く唇が触れる。
自信を失っていた頃の賢二郎を救い、励まし、力を与えてくれた優しい瞳だ。こうしてきちんと目を合わせ、見つめ合うことが、なんだか久しぶりのように感じる。
賢二郎は手を伸ばし、サーシャの細面にそっと手を添える。
そしてそのまま伸び上がり、自ら唇にキスを贈った。
軽く触れ合わせ、しっとりと濡れた唇を淡く啄む。するとサーシャはキスに応えるように、ぐっと賢二郎の腰を抱き寄せた。
力強い腕に包み込まれてわずかに身体が持ち上がり、キスがさらに深くなる。賢二郎が小さく吐息を漏らすと、サーシャは愛おしげに賢二郎のうなじを手のひらに包み込み、キスで唇を愛撫した。
「ん……ふ、ぅ」
帰国してから初めて、ちゃんとキスをしているような気がする。
拙いながらも、賢二郎が想いを言葉にして伝えたからだろうか。サーシャの唇はいつにも増して柔らかく、吸い付くように熱く濡れ、うっとりするほどに心地が良かった。
「は……っ……ぁ」
互いの唾液で濡れた唇を重ね合わせているだけなのに、身体が昂り始めているのがわかる。徐々に呼吸が浅くなる賢二郎のシャツに忍んできた指先が、賢二郎の肌にじかに触れた。
キスをするうちに汗を帯びはじめた背中を撫でられただけなのに、ぞくぞく……っと湧き上がる快感に腰が震えた。
賢二郎は息を飲み、理性を飲み込もうとするかのようなサーシャのキスから、ようやく逃れる。
「サーシャ……待っ……」
「……どうして? キスだけにするから」
「だ、だって、か、かいぎあるやろっ……!」
「……。ああ……はぁ……そうだった」
現実的なスケジュールを思い出したらしく、サーシャが全身で脱力する。
ずし、と重みの増した身体を抱き返しつつ、互いの身体に現れた昂りを感じ取り……賢二郎は思わず赤面してしまった。
「……口でさせてよ。こんな賢二郎をほっておけない」
「い、いやあかん、あかん。無理」
「無理じゃないって。向こうにいた時は何度か……」
「そっ……そやけど……! そういうときは毎回酔ってたし! 今はしらふやし……っ」
「前から言おうと思ってたけど、無理に酔っ払わなくてもいいんだからね? 俺だって、嫌がる賢二郎を無理やり……なんてことはしないんだから」
「そ、それはわかってんねやけど」
若干でもセクシャルな雰囲気になれたときは、必ず酒の力に頼っていた賢二郎である。
酔って無防備になればあるいは……と思うところもあったのだが、酔うとすぐに眠くなってしまうという難点もあり、成功には至っていない。
しかも今は爽やかな朝だし、サーシャは会議、賢二郎はレッスンとアルバイトだ。まったりそういうことをしていていいわけがない。
案の定、サーシャがまた深々とため息をついた。
「せっかくいい感じだったのに……。せっかく賢二郎から誘惑してくれたのに」
「誘惑ちゃうし……」
「でも、嬉しかった。賢二郎からキスしてもらえるなんて、今日は一日ハッピーだな」
「そ、そか」
ちゅっ、と戯れのようなキスのあと、サーシャははにかんだ笑みを浮かべた。
そして、大急ぎでシャワーを浴びに行くサーシャをバスルームへ見送りつつ、賢二郎は冷めてしまったインスタントコーヒーを一口。
熱湯を入れすぎたせいで風味が弱くなった、味気ないインスタントコーヒーだ。
「薄……」
適当に作るがゆえに、毎朝味の違うインスタントコーヒーは、お世辞にも美味いものではない。
だが今朝の賢二郎の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
おしまい♡
ともだちにシェアしよう!