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音楽祭編〈1〉

「うーーーーーん」  珍しく、累が唸っている。  スマートフォンに届いたらしいメールを読みながら、眉間に皺を寄せて唸っている。 「ど……どうしたの、累」 「あ。……いや、夏目先生経由で依頼が入ったみたいなんだけど」 「へぇ、よかったじゃん。気乗りしない案件なの?」 「いや……」  長い長い大学の夏休みも終わり、空も累も後期の授業が始まっている。またゆっくり会う時間は減ってしまうかもと思っていたが、思っていたよりも一緒にいられる時間を取ることができている。  累の父・陣吾が海外赴任することが決まった。その準備のために、しばしば家を開けることが増えているためだ。  母・ニコラも相変わらず海外のあちこちで公演をこなしているうえ、なんとカナダにある音楽大学で講師を引き受けてほしいとの打診も受けているらしい。今まで以上に、累の両親は忙しくなる。 「累のご両親仲良しなのに、海外赴任とか外国で講師とか、大丈夫なの?」と空が聞くと、累はさほど興味もなさそうに頷いて、「大丈夫、父さんの赴任先もカナダなんだ。またふたりきりの新婚生活だね、とか言って喜んでた」と言う。  累ももう二十歳を迎えているため、陣吾もニコラも親としての仕事はもう終わったと考えているし、累もその考えに同意している。  なので今後は、家族それぞれが自分の望む人生を歩んでゆこう——という考えらしい。  兄たちと一緒に過ごすことがもはや当たり前の日常になっている空からすると、家族がバラバラになるのは少し寂しいように思える。だが、累は全く寂しそうではない。「いつか一緒に暮らす日のための練習になるね」と、どちらかというとウキウキしている。  高比良家の様子を見守るにつけ、育ってきた家庭が違うと感じ方も違ってくるのだなぁと空は思った。  累の家族は決して不仲というわけではない。それぞれが自立し、互いの仕事を尊重し合えているからこそできることなのだろう。  そう、累も空ももう大人なのだ。まだ学生の身分とはいえ、自立を考えていかねばならない年齢になった。  こういった事情で、累は来年度から一人暮らし。空が高比良邸で過ごす時間も、すでに増えつつある。  彩人と壱成もこの旨については了解済みだ。彩人は気前よく「累くんのぶんも飯作ってやろうか?」と言っているし、壱成も「そうだよ、たまにはうちで一緒に食おう」と歓迎ムードだ。  空と累は十五歳で交際をスタートしてから五年が経ち、穏やかに関係が続いている。高校生の頃は、彩人も壱成も二人の様子を気にしている様子だったけれど、今やすっかり累も家族の一員のような扱いである。  そして今日も、空は累の家で夕食を共にしていたところだ。  今夜のメインディッシュは彩人お手製の豚の角煮。あとは味噌汁と白米だ。「味噌汁は野菜多めの具沢山にして、しっかり栄養摂るんだよ」という壱成のアドバイスをもとに、累と作った。  食後の皿洗いは累の担当(手荒れ防止ためにゴム手袋を着用している)で、その間空はコーヒーを淹れたり、大学のレポートを片付ける。そのあとは、まったりしたふたりきりの時間だ。一限目の講義がない日は、そのまま泊まっていく日も多い。  そんなまったりタイムに、累がスマホを睨んで唸っているのだ。テレビには賑やかな音楽特番が映っていて、キラキラした女性アイドルたちが歌って踊っている。  裏番組ではサスペンスドラマやお笑い番組をやっているが、音楽ならばなんでも聴きたい累のチョイスである。  ソファの上であぐらをかいている累にぺたりとくっつき、累の横顔を見上げた。 「どうしたの」 「空、南禅寺のコンサート覚えてる?」 「うん、もちろん」 「あのコンサート、すごく評判がよかったみたいで、毎年やってくれっていうオファーがきてたんだ」 「へぇ、そうなんだ! まぁ確かに、すごく幻想的でカッコよかったなぁ」  忘れもしない。  なぜなら、空がもっとも賢二郎への嫉妬心を燃やしていた頃のコンサートだったからだ。  あのサシ飲みを経て、賢二郎へのもやもやした感情はすっかり消え失せている。なので今は冷静に累の話を聞くことができた。 「けど、累が京都行ったりってのはなかったよねぇ?」 「うん。……主催者がわの希望は、僕と石ケ森さんのセット出演なんだ。だから石ケ森さんが留学してる間は実現しなかったけど、帰国したしってことで」 「なるほど。……ん? で、なんで累は唸ってんの?」  累が珍しく眉をひそめる。 「……またサーシャがうるさいだろうなと思うと、ちょっとね」 「ああ〜」  ここ最近、サーシャの話題となると、表情がスンとなる累だ。どこで練習していても累を見つけ出し、音を聴きにくるサーシャの行動にそろそろ辟易し始めているらしい。 「ってか、すっかり名前呼びなんだねぇ。なんか珍しい」 「……そう?」 「だって累ってふつうに礼儀正しいし、年上の人にはだいたいきちんと敬語使うじゃん?」 「まぁ……そうだね」 「サーシャさんて確か、8つも年上なんでしょ?」 「うん、そうなんだけど、あんまりそういう感じしないし」  あぐらをかいていた脚をほどき、膝を抱えて、累はテレビ画面を物憂げに眺めはじめた。 「そろそろ学生選抜オケとの合同練習が始まるんだ。その前に僕の調子を見ておきたいらしくて、毎日のように顔を合わせてるんだよね」 「へぇ、そうなんだ」 「今日も夕方自主練してたらレッスン室にきて、『ハーイ、ルイ。今日の調子はどうかな? あれっなんで睨むの? 俺のことは気にせず練習してていいんだよ?』なんていいながら笑顔で寄ってくるんだけど目は笑ってないし、そのあとはじーーっとニコリともしないで僕の練習を見てるんだ。……全く集中できないし、正直迷惑だなぁと」 「そ、そ、そっか……」  累がサーシャのセリフを口真似するのが面白くて、空は唐突に込み上げた笑いをこらえるのに必死だった。ちゃんとサーシャの表情や仕草まで再現されているようすなので余計におもしろい。 「で、でもそれって累のスランプのその後を心配してくれてるんだよね? 一応」 「まあ、そうみたいだけど……。うっとおしいからやめてくれって言っても『チッチッチ。俺は教師だ。それに君とコンチェルトをやるんだから、しっかり見守っておかないとダメだろ?』って……なんか四六時中監視されてるみたいで居心地悪いよ」 「なるほど……」  基本的には礼節をわきまえている累が、年上の大人相手に「うっとおしい」などと口にするのかと、空はそこにもびっくりしてしまった。……だが、あまりにサーシャの再現がうまいので、おもしろすぎてこらえきれず口がひくつく。  心は完全に日本人な累は、人差し指をスウィングさせて「チッチッチ」と言ったり、眉を下げて肩をすくめるといった欧米チックな仕草は普段はしない。おもしろすぎる。 「空、どうしたの?」 「い、いや……ふふっ……なんだかんだ、仲良いのかなって」 「そんなことないよ。……石ケ森さんとのデュオのことも、絶対ちくちく文句言われるに決まってる」 「ああ〜、それはあるかもね」 「それに……空は、もう平気?」 「え?」  身体ごと空のほうへ向き直り、澄んだ青い瞳で見つめられる。そっと空の手を持ち上げ、指の背に唇を押し当てる。  さらには、空に伺いを立てるかのような上目遣いをされ、不意打ちのかわいい仕草にきゅんとさせられてしまった。 「僕が石ケ森さんとデュオをやるっていったら、ヤキモチやく?」 「へっ。……い、いや、もうそれはないけど」 「本当? 無理してない?」 「してないよ」  どぎまぎしながらそう答えると、累は安堵したように目を細め、ふわりと笑った。付き合い始めて五年が経っているというのに、こういう笑顔にはいまだにドキドキさせられてしまう。  頬も熱いということは、赤面しているということだろう。それはなんだか気恥ずかしくて、空はすすすと目を逸らした。 「そ、それに今度は俺、現地に聴きにいきたいなって思ってたし」 「本当? それいいね、ついでに京都旅行ができる」 「でしょー? 石ケ森さんにあちこちおすすめ聞いとかなきゃだ」  あの時はずいぶん嫉妬に苦しんだ。壱成が隣にいなければ、きっと最後まで観ることはできなかっただろう。けれど、今は純粋にふたりの演奏を間近で聴いてみたいと思えている。  何百年もそこに佇み、京都の街並みを見守ってきた南禅寺の三門。映像ごしに見ているだけで、どっしりとした貫禄と、揺るぎない静謐さを感じずにはいられない。  その風景を彩るのは、ライトアップされた満開の桜だった。満開の花弁は暗闇の中で白く浮かび上がり、一陣の風が吹けば、雪のように舞い上がる。  そして、累たちの演奏する音楽もまた、過去から受け継がれ続けた歴史そのものだ。演奏家たちによって弾き継がれ、今もなお愛される美しい旋律。  あの場所で奏でられるからこそ、重く響き、果てしない拡がりを感じさせるような演奏会になったのだろう。  ……と、音楽素人の空にさえ、そんな感想を抱かせるような演奏だった。  動画でもあれだけ素晴らしかったのだ、きっと、生で聴くことができていたら、鳥肌どころでは済まないほどに感動しただろう。 「……あの時は絶好調だったからなぁ。まさかスランプに陥るなんて思ってもみなかった」 「けど、前より累、弾いてるとき苦しそうな顔しなくなった気がするよ?」 「そう……だね。確かに、どん底のときよりは、弾いていて納得できることが増えてきたというか、没頭できる瞬間が戻ってきたような感じがする」 「へへ、そっか」  累の家にいる時間が増えると、自然と彼の音を聴く機会も増えた。  見えない糸に絡みつかれ、もがき苦しんでいるようだった累の音色も、今はずいぶんおおらかさを取り戻しているような感じがしている。  以前の空なら、たとえそう感じたとしても、累に言語化して伝えることはなかっただろう。だが今は、思ったことを素直に伝えている。そして累も空の感想を受け取って噛み砕き、自らの糧にしようとする。  遠慮と気遣いがぶつかり合ってすれ違っていた頃が嘘のように、今は肩肘張らずに一緒にいられる。空はそれが嬉しかった。 「ま、俺は大丈夫だよ。サーシャさんも……まぁ、文句は言うかもだけど、石ケ森さんがやるっていうなら応援するんじゃないかなぁ」 「あ、そっか。まだ石ケ森さんの反応を知らないや。意外と『遠いしめんどいからイヤや』とか言うかも……」 「それはないでしょ。……て、ていうか……累、ひそかにモノマネうまい人……?」 「モノマネ?」 「耳がいいからかなぁ。さっきからサーシャさんや石ケ森さんの口調まねしてたでしょ」 「えっ……まねしてた?」  空の指摘に、愕然としている累の表情も新鮮だ。  もののためしに、音楽番組の司会者の口調を真似てみてもらう。サングラスがトレードマークのベテラン司会者だ。  するとこれがすこぶる似ていて、空はしばらく笑い転げてしまった。

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