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【第1話】ランチ休憩に、蜜(1)

 互いの唾液が絡まり音をたてた。  耳朶を喰んでいた舌が頬を伝い、唇を弄る。 「んん……っ」  たまらず漏れた吐息をも呑み込むように覆って、舌先は上唇と下唇の間に。  侵入する隙間を探すかのように何度も往復する。 「ふぁっ……も、いいって……幾ヶ瀬(イクセ)」  今しも圧しかかろうとする勢いで唇を求めてくる男から顔を背ける。  肩をポンポン叩いて宥めるのは、座卓の前に胡坐をかいて座る青年であった。  薄茶の髪と、白い肌。  整ったと形容するしかない容貌の、しかし呼吸は荒く、まだ濡れている耳たぶは真っ赤に染められている。  彼の潤んだ双眸に見つめられ、幾ヶ瀬と呼ばれた男は更に顔を近付けた。 「有夏(アリカ)、もう少し……」 「ヤだって。何だよ、イタダキマスのチューって。毎回キモイ」  有夏と呼ばれたこの青年、人形のような外観に似つかわしくなく口は汚いようだ。 「幾ヶ瀬、キモイ……てか、気持ち悪い」  頭を叩かれ、とどめとばかりに「気持ち悪い」とまで言われて、幾ヶ瀬もしゅんとしてしまう。  その場に正座をしてうなだれてしまった。  2人がいるのは1DKの小さなアパートの一室。  8畳ほどの部屋にシングルサイズのベッドや物入れ、座卓やテレビなど、最低限の家具が置かれている。  典型的な一人暮らしの住居だ。  背丈の低いテーブルの真ん中には、ホカホカと湯気をたてる鍋が鎮座していた。  赤いスープの中に潰されたトマト、タマネギなどの野菜ときのこ類、豚肉が煮込まれている。 「大概暑っついわ。この時期、ナベとか」 「でも有夏、鍋好きでしょ。毎日鍋でもいいって言ってたじゃん」 「それは……」  それは冬の話、と言いかけるのを遮るように。  あとでご飯とチーズを入れてリゾットにしようねと、幾ヶ瀬はいそいそと具材をよそった。  有夏より頭ひとつ分抜きんでた長身に、何故だか紺色のエプロンがよく似合う。  度の強そうな眼鏡が鍋の湯気に曇っていた。  年齢は二十歳を超えたあたりであろうか。  少々老けて見える感は否めない。  有夏の襟足がだらしなく首筋に伸びているのと対照的に、こちらはきれいに切り揃えられている。  まめに散髪をしている様子だ。 「はい、トマト鍋。どうぞ召し上がれ」  語尾が跳ねあがっている。  何だか浮かれている様子。  有夏は苦笑いを浮かべて器を受け取る。  こじゃれたもの作って、との呟きに幾ヶ瀬は真顔に戻った。 「だって今はイタリアンのシェフだし、一応。雇われ店員だけど。新人だけど」 「その新人がランチあがりに、いちいち家に帰ってくんのやめろよ。ディナーの仕込みとかあるって言ってたじゃん」  大丈夫、大丈夫と幾ヶ瀬は事もなげに返す。

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