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第1話

「リク、着いたよ」  お母さんに肩を軽く叩かれた僕は、重たい瞼を擦った。窓の外に目をやると、ずっと前から待ち望んでいた風景が広がっていた。  運転席のお父さんがドアを開けると同時に、僕は口の端に付いたよだれを拭うのも忘れて、シートベルトを外した。真昼の焦がすような陽光に照らされた土の温もりを靴下越しに感じながら、玄関口で微笑むお婆ちゃんに向かって走り出した。眠気なんてすっかり失せてしまった。  全くあの子は、と両親の呆れた声が聞こえたが構っている暇は無い。僕はこれから始まる一週間を想像するのに忙しいのだから。 「お婆ちゃん!久しぶり。元気だった?」 「元気だよお。リクくんってばすっかり背が伸びたねー」  お婆ちゃんは、勢い良く飛びついた僕を優しく抱きとめる。お父さんやお母さんとはまた違ったこんな温かさが好きだったなと、会うたびに思い出す。  毎年、年に二回だけ田舎に住む祖母の家に両親と遊びに行く。たまにしか会えない優しい祖母、好奇心をくすぐる古い木造の家。そして、夏と冬で全く違う顔を見せてくれる田舎の風景が僕は大好きだ。家の近くじゃ絶対に体験できないような非日常感に心を奪われてしまう。  僕が来るたびに車から駆け出してしまうのは他にも理由がある。  ひと段落ついて、居間で寛ぐ大人たちに向かって、僕はとびきり愛想の良い声で尋ねた。 「ねえ、そろそろお兄ちゃんちに遊びに行ってもいい?」  両親と祖母はあっさりと許可をくれた。  僕は心臓の高鳴りを感じながら玄関を飛び出した。このために、先ほどまで手伝いを頑張った甲斐があった。  何度か転びそうになりながら、田んぼが左右に広がる畦道を走り、祖母の家より一回り小さい民家まで休みなく駆け抜けた。  そしてゴールテープを切るような勢いでチャイムを押した。  玄関口でTシャツの裾を弄っていると、扉がゆっくりと開いた。パッと顔を上げると、僕は思わず飛び跳ねた。 「イチ兄ちゃん!久しぶりっ!」 「わあ、やっぱりリクくんか。あれ、なんか焼けた?」 「うん!最近ね、海水浴に行ったの!それでね…」  イチ兄ちゃんは少しだけ笑うと、跳ね続ける僕の身体を押さえるように、そっと肩に手を置いた。 「ちょっと準備してくるから、塀の前で待っててね。なるべく、家から離れててね」  イチ兄ちゃんは、僕が赤ちゃんの頃から遊んでくれる優しいお兄さんだ。田舎に来る時だけしか遊べないから、正直、祖母の家に到着したと同時に兄ちゃんの所に駆け込みたいくらいだった。  先週、少し熱を出してしまうくらい楽しみにしていたからか、こうして待っている時間が途方もなく長く感じる。  塀に背中をピッタリ付けて、太陽から隠れていると、突然、家の方から誰かが叫ぶような声が聞こえた。思わず振り返ると、玄関の扉が勢いよく開いて、イチ兄ちゃんが飛び出してきた。 「お待たせ。今日も川でいいよね?」  僕は頷くことしか出来なかった。イチ兄ちゃんの頬が真っ赤に腫れていたのだ。  初日は必ず川辺で遊ぶ、という暗黙のルールが僕らにはあった。子供だけで危ないのはダメ、というお婆ちゃんとの約束があるので、泳ぐことは出来ないがそれでも楽しい。  石の水切り対決はいつも兄ちゃんには敵わないし、帰る頃にはパンツまで濡らして毎回お母さんに怒られてしまうけど、笑いの絶えない時間だった。  それなのに今日の兄ちゃんは、川辺で座ったまま動かなかった。僕は水で濡らしたタオルを手渡しながら隣にしゃがんだ。 「さっき、家で何かあったの?」 「まあね……家庭の事情ってやつ。受験するクセに何が遊びだって怒られちゃった」  腫れた頬にゆっくりとタオルを押し当てながら呟いた。僕は思わず足元の砂利を見つめた。  そんな僕の様子を察したのか、兄ちゃんは少し大きな声を出した。 「あっ、リクくんは悪くないからな。オレの親、ちょっと変わっててね。 勉強なんてどうでもいいって、ずっと言ってきたクセに、オレが受験するって押し通した途端にあんなこと言い出すんだ。だから気にしないで」  兄ちゃんの言っていることは正直、よく分からなかった。親って、そんなに意見をコロッと変えて子供に当たり散らすものなのだろうか。そして、それを笑い飛ばせるものなのか。  時々、兄ちゃんと僕の間にはどう頑張っても超えられないような、高い壁があるような気分になる。大人の世界、というやつなのだろうか。それに触れると、首を傾げることしか出来なくなる。 「まあ、うちの親は、オレのやることが気に入らないだけだから気にするだけ無駄なんだよ。だから、リクくんが怯えて遠慮する必要は全く無いからね」 「じゃあ、明日も明後日も一緒に遊んでも大丈夫なの?また叩かれたりしない?」 「もう大丈夫だよ。今日は偶々運が悪かったんじゃないかな?リクくんが帰るまでの間、たくさん遊ぼうね」  ホッとした。こんな風に暗い様子のイチ兄ちゃんを見るのは生まれて初めてだったから、どう接したらいいのかさっぱり分からなかったのだ。 「それよりもさ、海水浴の話聞かせてよ。オレ、海行ったこと無いんだよね。綺麗だった?」  僕は思い切り頷いて、海の楽しくて綺麗な思い出を語った。記憶の端から端まで語り尽くした。そうでもしてないと、何故か涙が出そうだった。  その日は、蝉の鳴き声が静かになるまで遊び続けた。足は老人の肌のようにふやけて、Tシャツから露出した手足は熱で火照っていた。  手を繋いで橙色に染まった畦道を歩いた。二人の影が巨人のように細長いのが無性に楽しくて、僕はずっと笑っていた。  兄ちゃんの家の前に着くと、手がゆっくりと解かれた。なんだか名残惜しくて、僕が手を伸ばそうと顔を上げると、兄ちゃんの顔が見えなかった。太陽を背に向けてるせいで、どんな顔をしているか分からない。 「兄ちゃん、こんな風に遊べる回数はあまり残ってないかも。ごめんね」  風の音にかき消されてしまいそうな程、小さな声だった。  その年の夏、イチ兄ちゃんと会えたのはそれっきりだった。 ♢  窓を下げると、風に流された蝉の合唱が耳の横を通り抜けた。前髪が揺れるのを感じていると、運転席の母から「冷房逃げちゃうでしょ。閉めて」と窘められた。僕は渋々と閉じて、頭を窓に預けて目を閉じた。窓に脂が付いて汚れる、と怒られたような気がしたが、寝てるフリをした。  気を抜くと、まだ着かないのかと親に当たり散らしそうになる。早く会いたいのに、怖い。そんな不可思議な感情を一年ほど抱えている。  本来なら、約半年前に一度顔を合わせていたはずなのに。今年に限って僕は熱を出して、冬休みに田舎に帰れなかった。  あの夏の日の夕暮れを最後に、イチ兄ちゃんの姿を見ていない。翌日以降、家の前に呼びに行っても誰も出てこなかったのだ。気配はあるのに、扉は開かなかった。  家族にイチ兄ちゃんと会えない!と泣きつくと、お婆ちゃんは頭を撫でながら静かに「あの家は特殊なんだよ」としか言ってくれなかった。    見慣れた古い木造の家が目に入る。そして、後ろの方に、田んぼの真ん中にポツンと小さな家があるのも見えた。  家の前に車を止めて、荷物を運んでいると、お婆ちゃんが僕の荷物を持ち上げた。 「準備なら私たちがやるから、久しぶりに遊びに行っておいでよ」   こんな時、いつもならお礼を言えたのに。準備を代わってもらった感謝や申し訳なさを感じる間もなくコクコクと頷いて、僕は庭から飛び出した。  何とかチャイムを押さずに、家の人にバレない方法でイチ兄ちゃんを呼び出す方法はないのだろうか。暑さや期待、不安に覆われた脳味噌ではいい考えが思い付くはずもなく、塀の辺りを徘徊していた。  結局、早く会いたいという気持ちが強すぎるせいか、これしか思いつかなかった。もういっそ、僕が代わりに叩かれたらいいのだと。  そう意気込んで、チャイムに指を置いたと同時に、扉がガラリと音を立てて開いた。 「やっぱりリクくんだった!車が見えたから走って来ちゃったよ」  目の前に立っているのが、イチ兄ちゃんだと一瞬信じられなかった。記憶の中に残っている兄ちゃんは、夕暮れの田んぼで寂しそうに俯いていた。  しかし、今日の兄ちゃんは、今まで僕と楽しく遊んでくれていたイチ兄ちゃんだった。  一年も会えなかったせいで、彼がどんな風に変化したか勝手に想像して落ち込んでいただけだったのだ。現実の兄ちゃんは、全然変わってなかった。きっと、家の事情も解決してるのだろう。だってこんなにも楽しそうにしているのだから。 「久しぶりだね!今から遊びにいける?」 「もちろんだよ。その前に、ちょっと待っててな」  そう言って、家の中に引っ込んでしまった。またあの日のように怒鳴り声が聴こえるような気がして、僕は思わず耳を塞いだ。  しかし、兄ちゃんは笑顔のまま帰ってきた。─後ろに、見知らぬ人を連れて。 ♢ 「イチ兄ちゃん…その人だれ?お友達?」  思わず、兄ちゃんの背中に隠れてしまった。そっと背中から顔を出すと、知らない人は僕を見下ろしていたが、影になって表情までは分からなかった。 「ほらあ、やっぱり怖がられたじゃんかよ。事前に教えといてあげといてや」 「そのつもりだったんだけどさ…時間なくて」  イチ兄ちゃんの声が、いつもよりも低くて早口に感じた。普段はそんな話し方をしているのだろうか。  話に付いて行けなくて俯いていると、知らない人は僕の前にしゃがんで、目線を合わせた。意外と優しそうな顔だったので、少し安心した。 「怖がらせてごめんなあ。俺はイチ兄ちゃんの比較的新しいお友達で、圭司って名前だよ。もし良かったら、ケイ兄ちゃんって呼んでや」 「け、ケイ兄ちゃん…よろしく。僕はリクだよ」  彼が手を差し伸べたので、思わず手を握る。そして、リクくんと握手〜と言って軽く手を揺すられた。イチ兄ちゃんとは違って、厚くて大きな手だった。  三人で川まで歩いてる間、ケイ兄ちゃんは話っぱなしだった。僕とイチ兄ちゃんの二人きりだと黙ってる時間の方が長いから何だか新鮮だった。 「秀一さあ、こんな可愛い弟みたいな子にイチ兄ちゃんって呼ばれてるの?知らんかったわ」 「教えなかっただけだし。そもそも、いきなりケイ兄ちゃんって何だよ。距離感バグり過ぎ」 「俺も呼ぼっかな。イチ兄ちゃんって」 「からかうなって。…それよりも、リクくんは冬休みどうして来なかったの?」  見慣れない兄ちゃんの様子を見て、心臓がドキドキしていたせいか、うまく声が出ない。 「熱出しちゃって来られなかったんだ。それよりもケイ…兄ちゃんはいつ越して来たの?」 「ああ。俺は去年の秋頃に来たんだ。親父が不倫したから離婚しちゃって、母ちゃんの実家に帰って来たのよ」 「おい…言葉を選びなよ。小さい子にそんなこと……」 「あっ、ごめんな。今のはアレだ、大人の事情ってやつだから気にしないで」  僕は小さな声でうん、と頷くことしか出来ない。何だか今日は、大きな声が出ない。 ♢  川についてからも僕の声は小さいままだった。先程まで三人で水切りをして遊んでいたのに、僕が石を探している間に、二人は少し離れた場所で話し込んでいるようだった。  ケイは優しいし、全力で一緒になって遊んでくれるけど、イチ兄ちゃんと話している時の方が楽しそうだった。気のせいだと思うけど、イチ兄ちゃんもそんな雰囲気だった。    僕はそんな二人に気付かないフリをした。大袈裟に水飛沫を上げて一人ではしゃいだ。  とっくに理解してた。年下の子供と遊ぶより、同い年の友達と居る方が楽しいに決まってることくらい。  年下の従兄弟と遊ぶのも楽しいけど、学校の子たちとサッカーする方がずっと好きだから、二人の気持ちは分かる。  疲れたぁ、と態とらしい声を上げて砂利の上に寝そべった。太陽に照らされた石が温かくて心地よい。風向きが良かったのか、二人の話し声がハッキリと聞こえた。それなのに、何を言っているのか分からない。きっとすごく大事な事なのだろう。イチ兄ちゃんは涙ぐんでいるし、ケイからは先ほどまでの茶目っ気を感じられない真剣な声色だった。    今日だけで、知らない兄ちゃんの顔をたくさん見た。僕が赤ちゃんの頃から遊んでいるのに、知らないことばかりだった。きっとケイは毎日のように見てる。驚いてる様子も無かったから。  もしも冬休みに熱を出さないで、ここに来られていたら、この隙間は少しでも狭くなっていたのだろうか。僕は子供だから、分かるわけがないのだ。  家に帰って、いつものように宿題の作文に取りかかった。毎年兄ちゃんとの思い出を書くことにしている。今年はケイも増えたしネタはたくさんある。それなのに、鉛筆を持つ手が動かない。  「夏休みの思い出 四年三組」から先が思いつかない。今年の夏を思い返すと、説明できないような感情に包まれるのだ。目の前にある原稿用紙を思い切り破りたくなるような、そのまま泣いてしまいそうになるような、そんな感情。  結局、四年生の夏休みの作文は提出しなかった。先生や親に嫌と言うほど怒られたのに、書ける気がしなかったのだ。 ♢    冬休みは、家族全員から「こんな時期に受験生の家に行くのはやめた方がいい」と言われたのでイチ兄ちゃんの家には寄れなかった。いつもは魅力的な田舎風景が味気なく感じた。  そして待ちに待った夏休みがやって来た。毎回の恒例のように、お婆ちゃんに飛びつくと、いつもより笑顔がぎごちなく感じた。  言いようの無い不安感。僕は恐る恐る「何かあったの」と尋ねると、お婆ちゃんは小刻みに首を縦に振った。 「秀一くんと圭司くんはね、今年の春に遠い所にある高校に行ったのよ。暫く帰ってこないそうだよ」  その年の夏の記憶は、そこから先は朧げだ。今思うと、みんなに申し訳ないことをした。せっかく楽しい思い出を作るための帰省だったのに、僕のせいで最悪だったと思う。  僕は確か、食事と寝る時以外はずっと縁側で泣いていたような気がする。 ♢  イチ兄ちゃんが居ない間、僕はかなり大人に近づいたと思う。もう以前のように無垢な顔で何でもかんでも質問することはないし、自分の中で渦巻く感情が何なのか、少しずつ理解出来てきた。  最近になって、兄ちゃんが田舎を出て帰ってこない理由が分かったような気がした。あの頃、首を傾げる事しかできなかった兄ちゃんの言葉が、今なら分かる。「大人の事情」と大雑把にまとめられた言葉の意味が今の僕には理解できる。  だからもう一度あの日のように教えて欲しい。そうしたら、自分なりの言葉で兄ちゃんを少しでも助けられたのに。 「この手紙、宛名はおばあちゃんだけど、中身は違ったから渡すね」 「大事に保管してくれてありがとう」  少し大人に近づいたおかげか、婆ちゃんから手紙を渡された時、僕はお礼を言う余裕だってあった。  差出人の書かれてない封筒には、知らない街の消印が押されていた。  封筒を開くと、何枚かの便箋と写真が出てきた。シンプルな便箋の一行目には僕の名前が書いてあった。縁側に座って、一人で読んだ。 ♢  理玖くん、お久しぶりです。  もう知ってると思うけど、俺はあの町から圭司と逃げたまま戻りませんでした。高校進学は口実でした。実家とは縁を切る予定なので帰ることはありません。  ずっと長い間仲良くしてくれたリクくんにも黙って出て行って本当にごめんなさい。当時の俺は幼くて、自分のことで精一杯で、周りの大事な人の気持ちを考える余裕がありませんでした。  リクくんは今年で中学生ですか?制服を見てみたかったです。想像もつかないな。何だか感慨深いです。  もう分かると思うので全て書いてしまいます。俺は家族と上手く行っていませんでした。自分の望みを押し殺して、家族の言いなりになって過ごしていました。でも、リクくんが来る日はたくさん遊べてとても楽しかったよ。  リクくんが来る日以外はすごく辛い毎日だったけど、そんな状況を変えてくれたのは圭司でした。外から来た彼に知らないこと、新しいことをたくさん教わった。そして生きることの楽しさを教えてもらった。つまり、彼に救ってもらえたのです。こんなこと、照れ臭くてここでしか書かないと思います。  結論として、俺は彼と過ごすことを選びました。本当に申し訳ないけど、今いる場所は誰にも話せません。どこから情報が漏れて親にバレるか分からないからです。  でも、リクくんとはまた会いたいです。なので、ヒントを同封しました。暫くはここに住むので会えることを願ってます。  秀一より ♢  海を背景に、笑顔を浮かべたイチ兄ちゃんが写った写真だった。  僕の知らないような綺麗な表情だから、きっと撮影したのはあの人だろうな、と思った。

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