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クリスマス・イルミネーション

 立冬を過ぎて、安普請のアパートの部屋は底冷えがする。西日すら一瞬しか射し込まないが、その西日を頼りに俺は仕事に出る支度をする。と言っても、これから向かうのは夜勤の警備で、制服は職場にあるから、鍵と財布をポケットにつっこむだけだ。  オフィスビルの夜警は、警備室に詰めて防犯カメラのモニターを時折チェックするのが仕事だ。警備室には、モニターのほかには椅子と電気ポットがあるばかりだ。他のシフトの警備員はスマホやラジオでひまをつぶすらしいが、俺はポットの湯でコーヒーを淹れるほかは何もせず、ただじっとそこにいる。  昼間は別の仕事をしている。日によって違うが、今日は屋外イベントの仮設ステージの設営をやってきた。明後日にはその撤収作業をしているだろう。  金は必要だ。楽しいことは必要ない。警備室でじっとしている間、俺はただ後悔を繰り返す。  「あなたのせいで息子は。」そう言って俺の胸を何度も殴りつけた、智哉のお母さん。その通りだ。俺のせいで智哉は。  土下座して、額を地面にこすりつけた。そんな行為に何の意味もない。意味はないが、俺にできることはそれしかなくて、毎日智哉の家に行っては、土下座を続けた。5日目に智哉の父親が出てきて、みっともないからやめてくれと言われた。それから、智哉の意識が戻ったことを教えてくれた。  それを聞いた時の俺は、喜びに満ちた顔をしていただろう。だが、それも一瞬で打ち砕かれた。意識は戻ったが右半身に強い麻痺が出ている。リハビリである程度は回復するだろうが、ピアノはもう弾けないと告げられた。  それなら意識が戻らないのと同じだ。もっと言えば、死んだも同然だ。智哉がピアノを失うということは、そういうことのはずだった。  俺は土下座の姿勢のまま号泣した。智哉のお父さんはもう、みっともないとは言わなかった。俺が泣き止むと、二度と姿を現さないでくれと静かに言い、家の中に戻って行った。彼は一度も声を荒げて俺を責めるようなことはしなかった。それが却って、お前にできることなど何もないと言われているようで、虚しく、情けなかった。  俺はその翌日、店を辞めた。智哉と出会った喫茶店。引っ越しもして、携帯も解約して、智哉と関わっていたものをすべて捨てた。  智哉が俺がバイトしていた喫茶店に現れたのは、その更に1年前だった。住宅街にある小さな店で、お客と言えば近所の年寄りばかり。智哉はダッフルコートを着こんだ高校生にしか見えず、少々場違いな印象だった。 「なんか、温かいの。」入るなり、智哉は言った。吐く息が白い。普通ならブレンドを出すところだが、あどけなさの残る彼に店主が出したのはココアだった。智哉はコートも脱がずに席に座り、俺がココアをテーブルに置くと、両手をカップで温めるようにしながら、それを飲んだ。「ふう。美味しい。」それから、ようやくコートを脱いだ。コートの下からは黒いズボンが見えていて、てっきり学生服だと思っていたのだが、意外にも礼服姿だった。 「結婚式か何かの帰りですか?」俺はつい話しかけた。 「いや、レッスン。ピアノの。今日はちょっと、サロンコンサート的なこともしたから、こんな恰好で。」智哉は、見た目とは違う落ち着いた声で答えた。 「ピアニスト?」 「まだ、卵だよ。音大生。」 「あ、大学生なんだ。」 「はは、高校生だと思ったんでしょ。よく言われる。この顔だからね。もう20歳だよ。」 「俺の1個下か。」  俺は本来人見知りをするほうなのだが、智哉とは、初対面からこんな風に話すことができた。そういう雰囲気を智哉は持っていた。それから毎週金曜日の夕方になると、智哉は店に来た。近所に個人レッスンを受けている教授の家があり、その帰りに寄っているそうだ。その時間はお客は智哉1人しかいないことも多くて、そんな日は俺は遠慮なく智哉との雑談に興じていた。店主は見て見ぬふりをしてくれていた。  智哉は、商社マンの父と元バレリーナの母を持ち、12歳まで海外で育った帰国子女で、音大に進んだのは母親の強い希望によるものらしい。  一方の俺は、幼い時に両親が離婚して、母親がパートを掛け持ちして俺を育てた。苦労させていることは分かっていたが、馬鹿な俺は中学の頃からグレはじめ、高2の夏に先輩相手に暴力沙汰を起こして退学になった。心労で倒れた母親を見てようやく目の覚めた俺は、親戚のツテを頼って、この喫茶店のバイトを始め、一人立ちした。昔の仲間とは縁を切ったが、新しい友達を作る気にもなれないでいた頃、出会ったのが智哉だった。智哉と俺は、家庭環境も学歴も、何もかも違っていた。以前の俺なら、智哉みたいな「お坊ちゃん」は目の敵にしていたものだが、智哉に対しては素直にその才能を応援したくなるような、そんな感情を抱いた。それは、俺が少しは大人になって他人を認める強さを身に付けたからだろうし、また、智哉の持つ、他人を惹きつけるオーラによるものでもあった。  やがて、智哉は俺のバイト上がりを待って、2人で一緒に駅までの道のりを歩くようになった。駅で智哉を見送り、その先は1人でアパートに向かう。それが金曜日の習慣となった。  ある夜。クリスマス間近で、駅に続くメインストリートはイルミネーションで美しく彩られていた。その道すがら、俺は「智哉、俺の彼女みたいだな。」と言った。特に深い意味はなかったのだけれど、智哉は急に足を止めた。 「そんなこと言ったら、本物の彼女に悪いよ。」と智哉。 「いねぇって、そんなん。」 「いないの?」智哉はホッとしたように笑った。 「おまえは?」 「セフレなら3人いたんだけど、最近全員切った。」 「おまえ、ガキみたいな顔してすげえな。」 「だって僕、結構忙しいし、気分屋だし、誰かに合わせて行動するの苦手だし。」 「……さすが、芸術家。」 「僕が合わせてもいいって思っているのは、瞬だけだから。」 「え、俺?」  智哉は俺の正面に回った。「僕、もうすぐ大事なコンクールがあるんだ。それで、ひとつお願いがあるんだけど。」 「なんだよ、いきなり。」 「それが終わったら、僕のこと嫌いになっていいから、今日だけ、僕のこと好きになって。」 「おまえのことは好きだけど。」 「そういう好きじゃなくてさ。面倒くさいの嫌いだから言うね。僕は瞬のことが好きなんだ。友達としてじゃない。セクシャルな意味で。」 「……でも俺……男だぞ?」 「知ってる。でも仕方ないじゃん。それで、そのこと考えたらピアノも全然弾けなくて。僕が弾くのは幸せな恋の曲なのに、全然幸せじゃないし。だから、僕を助けると思って、今日抱いてくれない?」 「はあ?」 「瞬のアパートに連れてってよ。」 「ちょ、ちょっと待て。展開が速すぎてついていけねえ。」 「展開は速くても、言ってることは単純でしょ。」  智哉からの突拍子もない申し出より前から、俺は、智哉が好きだった。智哉の言う「セクシャルな意味で」だ。いつからかはわからない。初めて会った時にはもう恋に落ちていたのかもしれない。だが、その気持ちを智哉に伝える気などなかった。そんな俺にとって、智哉の告白は飛び上がりたくなるほど嬉しかった。でも、俺みたいなクズが智哉を手に入れていいのか、いつか智哉を傷つけることにはならないのかと、俺はためらった。 「お願い。」海外育ちだからなのか、生来の性格なのか、智哉の言葉にためらいはなかった。智哉は俺の手を取った。智哉の指は「白魚のよう」ではない。智哉の手は分厚くて、長い指はごつごつとしていた。それが優秀なピアニストの手なのだと、智哉が誇らしそうに手を見せたことがある。あの手を握り、あの指に自分の指をからめたいと何度願ったことか。いや、それ以上の願望を、俺はずっと持っていた。俺は智哉の手を握り返した。  アパートの玄関先で、俺は智哉を抱きしめて「好きだ。」と言った。「前から、好きだった。」  智哉の目にみるみる涙が浮かんだ。「嘘。」 「嘘じゃない。コンクールが終わっても、好きでいていいか?」  智哉は何度もうなずいた。「入賞するより、もっとすごいクリスマスプレゼントもらった気がする。」俺は智哉に口づけた。智哉は俺の背中に手を回し、それに応えた。  その深夜のことだ。コンクール直前のこの時期に朝帰りはまずいと、終電に間に合うように駅に向かって2人で走った。イルミネーションで足元も明るいと思っていたが、数段の段差を見落とした。俺が、だ。よろけた俺をかばって、智哉が転倒して、頭を打った。あっという間に血が広がった。俺は震える手で携帯を操作し、救急車を呼んだ。その後のことはよく覚えていない。気がついたら、面会謝絶のICUの前にいた。智哉のお母さんが俺の胸を殴り続けていた。  あれから今日で丸3年。夜警の仕事を終えた明け方、俺は現金を入れた無記名の封筒を智哉の家のポストに入れた。裕福な智哉の家にとって、こんなはした金、土下座と同じぐらい無意味なものだろうが、他に謝罪を伝える術がなかった。3年間、少し金がたまると、こうして封筒をポスティングするのが俺の唯一の謝罪方法だった。去年はちょうど外出しようとする智哉を遠目に見て、良かった、歩けるようになったんだと安堵した。でも、ピアノの音が聞こえてきたことは一度もなかった。  コトンと封筒がポストの底に落ちる音がして、俺はきびすを返す。そして、何もない自宅に戻った。後ろ手にドアを閉めようとした瞬間、そのドアをおさえる誰かの手が伸びてきて、俺は反射的に振り返った。 「瞬。」そこにいたのは、智哉だった。 「……なんで。」 「ついてきた。ポストの音が聞こえて。今日は絶対来ると思ってたから、ずっと待ってた。」 「帰れ。」 「ごめんね。」智哉は俺の言うことを聞かず、玄関内へと入りこんできた。 「おまえが謝ることない。全部俺のせいだ。」 「違うよ。何が瞬のせいなの? 僕が勝手に転んだんだし、それにほら、もう元気だよ。」 「ピアノ、弾けなくなったんだろ。」 「ピアノなんて。」智哉の声は少し震えていた。「そんなの、初めから僕の欲しいものじゃない。あれは母さんの夢で、僕のやりたいことじゃなかった。」 「でも。」 「僕、大学入り直して、今は経済の勉強してるよ。本当はそっちの勉強したかったんだ。ピアノが弾けなくなったのが瞬のせいだって言うなら、瞬が僕に本当に欲しい物を与えてくれたんだ。でも、もっと欲しい物がある。僕に悪いと思っているなら、それをくれよ。」 「……何だ。」 「瞬だよ。コンクール終わっても、ずっと好きでいるって言っただろう。それなのにいなくなっちゃうなんてひどいよ。」 「智哉……。」 「僕は今も幸せじゃない。瞬がいないから。」智哉は俺にしがみついてきた。そして、こどもみたいにワアワアと泣いた。 「俺はおまえを幸せにできないよ。ご両親も許さないだろう。」 「親もずっと後悔してるよ。僕が勝手にしたことだってわかっていたのに、瞬に八つ当たりしたって。僕、あの店に初めて行った頃、スランプで体重もどんどん落ちてて、このままじゃ死んじゃう、ピアノをやめさせたほうがいいんじゃないかって、でも、強要しておいて今更取り上げることもできないって、親も悩んでたんだ。でも、瞬の店に通いだしたら明るくなって、安心したんだって。その矢先にあんなことになって……瞬にぶつけてしまったけど、悪いのは自分たち親だって、ずっと言ってる。瞬のことを悪く思っている人なんて、どこにもいないんだよ。だから、僕のこと、まだ好きなら。」 「好きだよ。」知らぬ間に俺も泣いていた。俺は智哉を抱きしめた。もう二度と触れることはできないと思っていた智哉を。 「瞬。」智哉からキスをしてきた。冷えた唇を熱く感じる。唇が離れると、智哉が微笑んだ。「メリー、クリスマス。」

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