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カーテン
絨毯の毛は短くて、それなのにその感触はなんとも言えず柔らかかった。ベルベットとでもいうのだろうか。ユキヒコは詳しくないのでよくはしらないが、恋人の南が密かにこの絨毯を気に入っているのは知っていた。だから彼はこの部屋の床でセックスをするのを嫌がる。
「悪いけど、普通誰だって嫌だよ、床でするのは」と言うのが彼の言い分だが、キッチンやダイニングでならば彼はあまり抵抗しない。だからやっぱり、この部屋の絨毯が気に入っているのだ。
ユキヒコはごろごろと床を転がり、壁にぶつかるとまた反対にごろごろと転がった。反対の壁にぶつかれば、今度は少し角度を変えて斜めに転がる。先ほどから小一時間、ユキヒコはこれを繰り返していた。というのも南が「邪魔だからごろごろしていなさい」と言ったからだ。
開け放った窓からぶわりと風が入ってきた。ついこの間までは残暑が残っていたのに、ふと気が付けばもう落葉樹の葉は色づいて落ち始めていた。
つい昨日まであの窓を覆っていたカスタードクリームみたいな色をしたカーテンはすでにお役ごめんになり、部屋の隅にまるまって放り出されていた。
あのカーテンは南の母親が選んだものだ。ユキヒコはぐるぐるとカーテンまで転げて行き、少し黄ばんだその布に躊躇いなく上半身を埋めた。
南の母親はとても痩せていた。痩せていて、その上性悪だった。だからいつもユキヒコは、彼女が早いところどこか目に入らないところへ行けばいいと思っていた。
いつも綺麗に洗濯されているように見えたカーテンは、それでも顔を埋めると乾いた埃の匂いがする。
南の母親についてユキヒコが知ることは少なかった。なにしろ彼女は年をとっていたし、息子の若い恋人が気に食わないらしかった。ユキヒコが来るまで二人は大きな屋敷で、細々と暮らしていた。使用人も庭師も居ない、だから家の端々にガタがきた屋敷。ただ図体ばかりが大きくて、税金だけが恐ろしいほどかかった。
南の父親は、大きな輸入家具の会社を経営していた。これは別に彼がひとりで築いたものではなくて、南の家に脈々と受け継がれている、血脈のようなものだ。南の家の人間は大抵この会社に就職して重役になるか、家から勘当されるかのどちらかだった。つまり南の家は、会社に就職する以外の将来を、子供たちに許さなかったのだ。洗脳されるように育った子供は、一方は会社に入り、もう一方は反発して家を出る。どちらも決まりきったレールが敷かれ、結局この家に生まれてしまった人間は、決して自分の意志で人生など選べないようにできていた。
けれどそれが変わったのが、南が経理部長に昇格した直後のことだ。会社の脱税が露見して、まずメディアに叩かれ、そのあと地検の手入れが入った。南は少しも知るところがない出来事だったが、悪魔的な偶然で経理部長になっていた彼は結局全ての責任を押し付けられた。悪意あるできごとと取れなくはなかったが、彼はひとつの不平も漏らさなかった。しかし当時心臓を患っていた父親は急死して、結局会社は南の家の人間ではなくて他人の手に渡った。南は少しばかりの退職金を渡されて、もうあの大きなビルに入る事はなかった。
残ったのは、南の母親名義にされていたこの家だけだ。
南の母親はどこぞのお嬢様らしく、幼い頃から南には厳しかったし、同時に異常に甘やかしていた。いつでも隣に居ないと気が済まず、彼が喧嘩などしようものなら相手に食って掛かった。南の事を自分の思いどおりに出来ると思い込んでいたし、実際南は彼女に逆らうことが出来なかった。
南にとって母親はある意味全ての世界であり、そうさせることに成功した彼女はいつも誇らしげだった。彼の書斎のカーテンをいつも楽しげに選び、季節ごとに色を変えていたほどだ。彼女は彼を愛していたが、彼以外に関心があるのは、自分の安泰した贅沢な暮らしだけだった。
そうして息子が会社を追い出されたという事実が、彼女の現実を壊した。
食べるものにも困る生活だったという。毎日南は汗だくで職安に通い、面接を受け落とされて、それでも帰ればベッドに臥せる母親の相手をして、食事を作って食べさせた。南の負担はもう限界を超えていて、その時ユキヒコに出会わなければ、南は母親と共に死んでいただろう。だからユキヒコは彼女が嫌いだった。いつだって、南の重石になる。
南の母親は一月前に死んだ。ユキヒコの思い通り目の届かないところへ行ったのに、肝心の南はそれから死人のようになった。
「みなみ」
ユキヒコが彼を呼んでも、南はユキヒコを見ない。というより彼はユキヒコが存在しているあらゆる証拠を見なかった。彼はこの広い屋敷にひとりきりのセンチメンタルに浸っていた。ユキヒコは彼と彼の母親のちぐはぐな親子関係を知っていたから、はじめは仕方がないと思っていた。しかしある日、くつろいで床に転がってテレビを観ていたユキヒコの上をなんでもないように南が踏んづけて歩いたので、さすがにユキヒコの我慢も限界だった。
「いい加減にしてよ南さん」
ユキヒコが腕を掴むと彼は驚いて辺りを見渡した。まるで目の前のユキヒコが本当に見えていないような、そういう仕草。
ユキヒコは腹が立ったので、そのまま彼を床に押し倒した。がん、とフローリングに背中をぶつけて南は眉を顰めた。
「ねえ、なにを考えてるの? どうしてそうやって逃げるの? あなたの母親は死んだんだよ」
ユキヒコの声は届いていないのか、彼は困惑したままじっと天井を見つめていた。聞こえていないことはないはずだ。彼の頭が聞こえていることを、聞こえていないことにしているだけ。
ユキヒコは耳元にぐいと唇を寄せて甘噛みした。
「ダメだよ、南さん。あなたは大人なんだ。辛くても悲しくても、目を瞑っていちゃいけないんだよ。あなたはごはんをたべて、ねむって、誰かと関わって、そうやって生きていく義務がある」
南は怯えていた。首をすくめ、ぎゅっと目を閉じる。ユキヒコは呆れながら、その唇にそっとキスをした。余計に南の体が強張ったのが分かった。
「あなたはどれだけ自分を可哀相だと思ったら満足するの。この旧い家にひとりきりで、いつまで嘆いているの。あなたはそうやって自分は何一つ犠牲にしないで生きていけると思っているの」
ユキヒコは耳元で囁いた。それを聞いた途端に、南は不意に困惑していた表情を消した。焦点の合っていない目はユキヒコではなくて、その向こうの天井を見つめている。彼はユキヒコを押しのけて立ち上がると、ふらふらと廊下に出た。
ユキヒコはしばらくその背中を見つめて、自分も立ち上がって後を付いていく。南は自分の部屋の寝室に入り、ずるずるとひどく大きな音を立ててベッドを引きずりはじめた。
ベッドはどっしりと重そうな立派なものだった。非力な南ひとりでは、引きずって多少動くのがやっとというところだ。それでも彼は部屋の隅から廊下へと三十分近くかけて引きずり出して、今度は隣の部屋に入れるべくドアにベッドを押し込んだ。ドアの幅とベッドの幅がほぼ同じくらいだからかなり苦労をしたが、最後はユキヒコが少しだけ手伝ってなんとか書斎にベッドは治まった。
南は書斎のドアを閉めて、中から鍵をかけた。ユキヒコを振り返ることはなかった。
ユキヒコはしばらく、チョコレート色のドアを見つめ、彼が出てくるのを待っていた。けれど南は一時間たっても三時間経っても出てくる様子がない。五時間経っても十時間経ってもそれは同じだった。待ちくたびれたユキヒコは廊下に座り込み、時々転寝をしていた。南の母親が生きていた頃はよくそれで叱られたが、もうこれを咎めるものはどこにもいない。
この屋敷の廊下は、なにを考えたのだか市松模様のタイルで埋め尽くされていた。だからじっと見ていると眼球がぐわんぐわんとして気持ちが悪くなる。整然と、規則的に並んでいるのにだからこそ見ていて不愉快になる。なんだか南の母親に似ているな、と夢見心地でユキヒコは思った。
南は次の日も、また次の日も部屋から出てこなかった。ユキヒコもずっと廊下で眠ったり起きたりしていた。腹は減っていたが、南もそれは同じだろう。だからユキヒコは水以外なにも口にしなかった。毎日静かに廊下で寝転んでいると、外を走る車の音やスズメの声や子供の声がよく聞こえた。ここ二日ばかりはずっと雨音がしている。立ち上がって窓を覗けば雨が降っているのかもしれないが、ここ何日か歩行をしていないユキヒコは雨の滴を見ていなかった。
毎日食事をしていないと、体に力が入らなくなって、だんだん眠くなってくる。雨の音も優しくて、日がな一日ユキヒコはうとうとしていた。
餓死は一番苦しいと言うが、それは嘘だなとユキヒコは思う。眠たくてとても気持ちがいい。もう水を飲む力もなく、彼は一日ここで眠っていた。
死んでしまうのもいいかなとユキヒコは思う。ただ南と最後くらいはセックスしたかったな。とも。
けれど現実問題三日四日食事をしないくらいでは人は死なないのだ。
南が部屋から出てきたのは初めから数えて五日目のことだった。
「ドーナッツ食べたい」
それが南の第一声だった。ユキヒコはなんだか憤懣やるせない気持ちになったが、それでも力なく笑った。開け放った書斎のドアから見える室内は、太陽の光りで満ちている。いつの間にか雨は止んだらしい。書斎の窓にカーテンはなかった。
ユキヒコはよろよろと立ち上がり、割合元気な南のあとに続いた。
南はもう中年に近いくせに甘いものが好きで、とくにドーナツには目がない。ユキヒコと南は合計にして十一個のドーナツを平らげた。流石にユキヒコは胸焼けがしたが、南は平気な顔でカフェオレを啜っている。二人は店に入ってから、もくもくとドーナツを消費していたので、ひとことも会話は交わさなかった。南は最後の一口のアップルパイを口に放り込み、満足そうな溜め息を吐いた。
窓際の席は日差しが直接当たって眩しい。けれど南は、やけに穏やかな顔で外の通りを見ていた。
「引っ越そうと思うんだ」
彼は外を見たまま呟いた。
「え」
「あの家、売ろうと思う」
南はユキヒコをしっかりと見据えていった。彼に見つめられたのは久しぶりで、なにか言おうとしたのに舌が顎に張り付いてもごもごとくぐもった声しか出せない。
それでも彼は静かに微笑んでいた。ユキヒコは考える。よかった、と言うのも変かもしれない。しばらく考え込んで、二人で暮らそう、と言おうとしたところで、横から間の悪い店員が「カフェオレのお替りいかがですか?」などといったものだからユキヒコは閉口した。
しかしよく考えれば今までだって二人で暮らしていた。けれどなぜだかユキヒコにはそうは思えなかった。いつだって彼の後ろには、彼の母親が張り付いているようだったから。
ミスドのポイントが集まったので、二人で相談してペアのマグカップを貰った。南は機嫌よくその箱を提げ、帰りにドーナツをさらに三つ買った。
ゆらり、と。
なにかの影が目の前で揺れた。ユキヒコは目を開けて、その影を視線で追う。いつの間にか部屋に入ってきた南が窓際に立っていた。もう、カーテンを翻すこともない窓の前でじっと、青い空の向こうを見つめている。そうしてユキヒコは、ふと、彼はここに篭っていた五日間、ずっとそうしていたのだろうと思った。ベッドに腰を掛け、窓を開けたまま外を見つめている。雨や風が入ってくるたびカーテンは静かに濡れて揺れる。そういう光景が視界に映りこんで眩暈を覚えた。
「みなみさん」
名前を呼ぶ。彼はユキヒコを無視しないで振り返る。そのことがとても嬉しかった。
清潔そうな白いシャツ。洗いざらしのジーンズ。軽やかな格好の南は、ふわりと舞うようにユキヒコの前に立った。
日差しの逆光で顔が陰になっている。ユキヒコは目を細めた。
「あなたが死んでしまうかと思った」
呟いて手を伸ばすと、彼はユキヒコの前に跪いた。そっと指先が、彼の肩に触れる。南の体温にユキヒコは笑った。
南がそっと唇を合わせてくる。この書斎で、南はユキヒコが触れることを許さなかった。セックスはもちろん、キスだって抱擁だってさせてくれなかった。
「荷物、まとまったよ」
ユキヒコは彼の肩に手を回して、思いっきり引き倒した。
「わ、」
南が驚いた声を上げて、ユキヒコの上につんのめった。ユキヒコは上体を起こして、彼と自分の位置を入れ替える。埃臭いカーテンに埋まった彼は不満そうにユキヒコを睨んだ。
「危ない」
「危なくないよ」
ユキヒコは言う。南はしばらく厳しい顔をしていたが、それは次第に苦笑に変わった。
「危なくない」
ユキヒコは繰り返す。そしてそっと彼の頭に触れた。南の前髪には一筋白いものがあって、彼はそれを頑なに若白髪だと言っている。ユキヒコはそれをひと房摘んでキスをした。
南はぎゅ、とごわごわしたカーテンを握り締めていた。若い恋人同士のような、甘やかな彼の仕草にくすぐったそうに首を竦めて、同じようにユキヒコの髪に手を伸ばした。後頭部に手のひらを当て、ぐいと体を寄せる。
「ユキヒコ」
南が自分の名前を呼ぶとき、いつもユキヒコの胃はぐるぐると妙な音を立てた。お腹が減っていないのに、胃が運動を始める。以前それを彼に行ったら、どういう条件反射だろうねえと笑っていた。
「ユキヒコ、しよう」
遠くで車が走る音がする。スズメが鳴いている声もする。あの時と何も変わっていないのに、決定的にユキヒコの世界は変わっていた。それは目に見えるほど大きくなく、けれど肌を滑る空気が、ちりちりと教えてくれた。
二人で暮らそう、毎日ごはんをたべて、仕事をして、おやつにはドーナッツをたべよう。
囁かれた南の言葉に、ユキヒコはプロポーズみたいだと笑った。
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