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第13話
白帆が日比を見送って家の中に戻ると、お夏が呆れ顔をしていた。
「白帆ちゃんって優しいのね。何もそこまで気を使ってやらなくてもいいじゃない。あのインテリに惚れたの?」
「嫌だ、お夏さん。ただ、どんな方であれ先生の原稿を買って下さるご贔屓筋ということでしょう? そう思ったら、失礼はできないと思っただけです」
「役者稼業をそのまま当てはめてるって訳ね。編集者ってクセの強いのが多いから、ほどほどにしておかないとつけ上がるわよ」
「そうなんですか?」
「真面目な人は真面目だし、いい人はいい人だけど、自分が文筆家になりたかったのになれなかった男や、いずれは文筆家になりたいと心の底で思っていたりする男は面倒くさいわね。男の嫉妬は女の嫉妬よりもタチが悪いわ」
「それはわかる気がします。舟而先生が楽屋へいらしたときに、誰がお茶をお出しするか。じゃんけんに参加しないで出し抜いたりしたら、それはもう大騒ぎです」
白帆は苦笑する。
「まぁまぁ、舟而先生ったら、そんなに人気者なの」
「声は温かくて湯に浸かったようにうっとりしちまうし、五月の風みたよな爽やかな笑い方をなさるのに、弓形に細められた目尻には色気があるって。若いのは皆、のぼせちまってます」
「それで、白帆ちゃんも舟而先生にお熱なのね?」
お夏が首をかしげて問うと、白帆は茹で蛸のように顔を赤くして、自分の頬を両手で挟んだ。
「白帆、ご苦労さん」
舟而が土間へやってくるなり、白帆は買い物かごに飛びついた。
「お、おおお、お肉屋さんへ行ってきますっ! 今夜はコロッケ!」
そのまま舟而のほうへは振り返らずに、勝手口から飛び出して行ってしまった。
お夏は袖口で口元を覆いながら、三日月形に目を細めて笑う。
「僕、何か変なことを言ったかな」
「何にも。ただ、白帆ちゃんの目には、舟而先生が光源氏か業平のように映るみたいよ」
「畏れ多いね。僕はただの野暮天だよ」
廊下と土間の段差に腰かけ、舟而は苦笑した。
「そうねぇ。舟ちゃんも惚れた腫れたは、お上手とは言えないわねぇ」
お夏も隣に座り、舟而の顔を覗き込む。
「おっしゃる通りだ」
舟而は苦笑した。
「でも、白帆ちゃんのことは、しっかり掴まえときなさいよ」
真面目な声で諭すお夏に、舟而は小さく首を振る。
「白帆には将来がある。躍進座へ帰れば、僕のことなんて忘れる。元通りだ。白帆の将来に僕はいないよ」
「ちょっとぉ、白帆ちゃんの将来に食い込んでいこうって気概はないの?」
「ない。そういう疲れることは、もういいよ」
舟而は頭の後ろに手を組んで、廊下に仰向けに倒れた。
「ねぇ、舟ちゃん。どうしてそんなに諦めちまうのさ。もういいじゃない。舟ちゃんは充分よ。後生だから、どうか幸せになってちょうだい」
「僕はそんなに不幸せでもない。作文が認められて、ペンで身を立てている。生活に困窮することもないし、まずは幸せと言えると思ってるけどな」
「人生まだ長いのよ。ずっと一人でいるつもりなの」
「僕は一人でいい」
「白帆ちゃんが、誰か別の人のものになっちまってから、取り返そうとしたって遅いのよ! 出会いが遅すぎただの何だのって言い訳は、あとから何とでも言えるけど、どんな言い訳したって、幸せにはなれないの! そんなこた、とうにわかってんでしょうっ!」
お夏は舟而の着物の袖を掴んで揺すぶった。
「お夏ちゃん、そんなに怒らないでくれよ。僕のために言ってくれてるのはわかるけど、僕は今の生活をそんなに悪いと思ってないんだから」
「白帆ちゃんが可哀想よ」
「白帆には言ってある。白帆はわかった上で、『芸の肥やし』と決めて、ここにいる」
「そんなのは惚れた弱みで、舟ちゃんに何を言われたって頷くしかなかったんじゃないの」
「そうかも知れなくても、だ。あの年頃の惚れた腫れたは、はしかみたいなものだ。大人になればちゃんと世の中の道理に飲まれる。自由恋愛なんて、結局は芝居や雑誌の中だけのことだよ」
お夏がさらに言い募ろうと口を開きかけたとき、勝手口が開いて、白帆が帰ってきた。
「ただいま帰りました!」
舟而は土間に立ち上がり、白帆のおかっぱ頭を大きな手でポンポンと撫でると、そのまま帯の結び目をつかんで引っ張った。
「風呂に行こう」
「え? お風呂っ? お、お夏さん。コロッケです! がま口も中に入ってます!」
白帆は後ろ向きに引っ張られながら、買い物かごをお夏に差し出した。
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