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第17話

「白帆さん、帝劇へ行ったことは?」 「まだありません。女形ではなく女優さんが演じるお芝居があると聞いていて、お勉強のためにも観なくてはと思うんですけど、なかなか」 「そうですか。今日はピアノですが、今度、女優劇もお連れしますよ」  吾妻橋を渡り、市電で上野駅へ行き、山手線に乗り換えて有楽町駅で降りる。皇居のお濠に向かって歩くと、お濠に面した一角に大帝國劇場があった。 「まだ時間がありますから、隣のミルクホールに行きましょう」  白帆はガラスケースの中を端から端までしっかりと見て、頬に揃えた指をあてる。 「シベリヤか、あんぱんか……」  悩まし気にため息までついている。 「そんなに悩まなくても、両方食べればいいじゃないですか」  日比は笑って両方とも注文した。  テーブルに着き、皿に乗ったシベリヤとあんぱんを見て、白帆はまた頬に揃えた指をあてる。 「どっちから食べようかしら」  人差し指を小さくどちらにしようかなと交互に動かす。口の中で歌い終わったときにあんぱんを指したので、素直にあんばんを割って口の中へ入れた。 「はあ、美味しい」  コーヒーを飲みながら一部始終を見ていた日比は、意外にも太陽のような溌剌とした笑顔を見せた。 「白帆さんの姿を見ていると、幸せな気持ちになります」 「恐れ入ります。甘い物ばかり与えられて育ったものですから」 「白帆さんを見ていたら、誰でも甘い物を食べさせてあげたくなります。わたくしは、ほかの誰よりも、白帆さんに食べさせたいとすら思います」  日比はコーヒーカップを口から外すと、眩しいような笑顔を見せた。  白帆と日比は二階席の最前列に腰を下ろした。 「こんなにいいお席を頂いて、よろしいんですか」 「白帆さんのために用意した席ですから、どうぞお座りください」  日比はニッコリ笑って頷いた。  舞台の上には黒くて大きなピアノが一台、ぽつんと置かれて奏者の登場を待っている。  席が埋まらないと聞いていたが、劇場は満席で、開演を待つ紳士淑女の上品なざわめきが耳をくすぐった。 「ショパンが得意なピアニストだそうだ」 「この間、奏楽堂で聴いたベートーヴェンの月光奏鳴曲(ソナタ)は大層力強かったが、今日のピアニストはどうだろうね」 「ショパンを力強く演奏されても、白けてしまうだろう。ショパンが得意なら、ベートーヴェンは合わないんじゃないだろうかね」 「だが、演奏するからには自信があるということだろう」  白帆は会話を盗み聞いて、どうやらベートーヴェンは力強く、ショパンはそうではないらしいと解釈する。 「あたくし、デビュッシー(ドビュッシー)浮世絵(版画)五重塔()』と『雨の庭』が大好きですの。楽しみだわ」 「私はショパンの諧謔曲(スケルツォ)と、ラベルの『夭折した王姫のための孔雀舞(亡き王女のためのパヴァーヌ)』が楽しみですわ」  外国にも浮世絵があるのか、孔雀舞とは孔雀が舞うのか、あるいは孔雀のように舞うということなのか。ソナタもスケルツォも意味がよくわからない。  白帆はわからないことばかりで、果たして音楽を聴いて理解できるのかしらんと頬に揃えた指をあてた。 「白帆さん、これをどうぞ」  日比が『演奏會曲目』という二つ折りの紙を渡してくれた。 1.月光奏鳴曲……ベートーヴエン       アダジオ ソステヌート        アレグレット         プレスト アジタート 2.(イ)即興幻想曲……シヨパン      (ロ)夜曲 作品五十五番の一(ヘ短調)  同      (ニ)円舞曲 作品六十四番の一(変二調) 同      (ホ)諧謔曲 作品卅九番(嬰ハ短調)   同 (休憩) 3.浮世繪(絵)……デビユツシー       五重塔        グラナダの夕         雨の庭 4.夭折した王姫のための孔雀舞……ラベル 「月光ソナタは有名ですから、聴いたことがあるはずです。アダジオはゆるやかに、ソステヌートは音を途切れさせないように。アレグレットはアレグロより遅く、だいたい背筋を伸ばして歩くくらい。ブレストは急に、アジタートは激情的にという意味です。曲を演奏する速さや、演奏で気を付けるべきことがそのまま題名になっているんですよ」  日比が隣から曲名を一つ一つ指さして教えてくれた。 「脚本のト書きが、題名になっているようなもの、でしょうか」 「そうですね。白帆さんは飲み込みが早い、優秀です。お連れした甲斐がある」 「ありがとうございます。知識不足のまま来てしまって、後悔していますけど」 「うんちくを語るのも楽しいですが、人間の言葉よりも音楽のほうが、よほど自由で雄弁だと思いませんか? 音楽の前では語るだけ野暮とも言えますよ」  日比は頼もしい笑顔を見せて、白帆の不安を溶かしてくれた。  チャイムが鳴って客席が暗くなり、入れ替わりに舞台の上が明るくなった。 「さあ、始まりますよ」  燕尾服を着たひょろ長い男性が出てきて、拍手に応えて一礼する。  肌は日本人の色白とは違う白さで、顔の彫りが深く、鼻は三角定規のように高く尖っていて、丸眼鏡を掛けていた。  椅子に座るとその位置を細かく前に後ろに、高さも直す。  それからようやく鍵盤を見て、ハンケチで慎重に埃を払う。  役者の白帆は、舞台に出てきて、しかも拍手をもらってから、客の前でごちゃごちゃ椅子を動かし、楽器を掃除するという、まるで舞台裏を見せるようなことをする洋琴家の動きにはらはらした。  しかも洋琴家は、ようやく落ち着いて椅子に座ったと思ったら、手を膝の上に置いてしばらく目を閉じて、深呼吸を繰り返す。  白帆は、心を落ち着ける動作は幕の外側で終えるもの、と思っていたから、舞台の上で精神統一をする姿にも驚きを覚えた。 「いつまであんなことしているんだろう、お客さんがだれちまう」  白帆の呟きが届いたとは思えないが、洋琴家は目を開けると、ようやく両手を鍵盤の上に置き、大きく伸び上がってから身体を縮めるのと同時に鍵盤を押した。  ドラマチックな幕開けに、白帆は一気に飲み込まれた。

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