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第68話

 客の姿が無くなった七宝座は、宵闇に四角く黒い影としてそびえているが、中へ入れば稽古場には灯りがついている。 「おはようございます。遅くなりまして、申し訳ございませんでした」  稽古場の入口で右足を後ろに引き、軽く膝を曲げて、右手の三つ指を床につくだけの挨拶をすると、壁際にずらりと並んでいる俳優たちの前を横切り、すぐに森多へ駆け寄る。 「先生、お待たせして申し訳ござんせんでした。お願い致します」 「仔猫チャン、ちゃんと飯は喰ってるかい? これが終わったら、ビフテキでも食べに行こうね」  話す森多の向こうには、セーラーズボンを穿いた舟而が助手として控えて立っていて、白帆が贈った伊達のロイド眼鏡の奥から、弓型に目を細めてくれている。 「はい。お稽古、お願い致します」  レストランで食事を終えて、車で自宅まで送り届けてもらう頃には、白帆は舟而の肩に寄り掛かって眠っている。 「ほら、着いたよ」  慣れない酒も口にして、白帆はゆらゆらと揺れていた。  舟而は背中に白帆を背負い、興行会社の付き人に手伝ってもらって門を開け、玄関を上がり、後ろを支えてもらって二階の寝間まで運ぶ。  敷布の丈もたっぷりとある、ふっくらした布団に白帆の身体を横たえた。掛け布団を掛けてやると、白帆は雲に包まれているように見える。  布団の皮は、もう兄たちが子供の頃に着せてくれた矢羽根模様ではなく、華やかな牡丹が咲き乱れる丹後縮緬だった。  しかし、朝は一瞬でやってくる。今、目を閉じたばかりなのに、もう空は白んでいて、奇術師に目を眩まされているのではないかと思う。 「おはようございます! 白帆お嬢様、お迎えに上がりました!」 「はーい、今行きます」  貝ノ口に結んだ帯の手先と垂れ先の形を整え、結び目を手で軽く叩いて落ち着かせると、白帆は階下へ降り、書斎の入口で挨拶をした。 「先生、行って参ります」 「ああ、白帆。これを持ってお行き。倒れないように、しっかり食べるんだよ」 「はい、毎朝ありがとうございます」 「気を付けて。夜の稽古には顔を出すから」  本棚の陰で軽い接吻を交わし、風呂敷包みを受け取って、待たせている黒い自動車の中へ、茶室の躙り口をくぐるように身をかがめて乗り込む。  白帆は膝の上で台本を広げながら、風呂敷包みの中から取り出した大きな握り飯を食べた。 「ふふっ、芋粥はあんなに調子が悪くてらしたのに。……懐かしいよな気がしちまう」  握り飯は舟而が朝早く起きて拵えてくれたもので、甘めの塩加減が美味しい。  握り飯のほか、風呂敷包みの中には、舟而が目を通した後のふっくらと嵩のある新聞と、日比が出版している文芸雑誌『藝術文學』が入っていた。  舟而が目を通した新聞には、ところどころ赤鉛筆で記事が囲んであり、◎、〇、△、三種類の記号で、白帆にとって有益と思われる優先順位が示されている。 「お休みの時間になったら、拝見しましょ」  幕が下りると、白帆は一目散に楽屋へ戻り、昼食もそこそこに新聞と雑誌をむさぼり読んだ。 「まあ先生ったら、ご自分の連載には無印なんて。私は印をつけて下さらなくたって、毎週、一番最初にちゃあんと読みますよ。……日比さんがお作りになる雑誌は、文芸に対する正義感がおありで、日比さんのお性格にそっくり。お元気そう」  舟而の新聞連載小説や、日比が書いた書評などを面白く読んで、昼休憩は瞬くうちに終わった。  立ち稽古が始まって、白帆は森多が急(きょ)書き直した新しい頁を手にしながら、床の上を歩き回る。 「『こんな春霞みたよな気持ち、いつ以来かしら』、『走って行きたいのに、会うのも少し怖いの。ふふっ、女学生みたいね』。……『あら、お待たせ』」  白帆は相手役の前に立つと、黒髪をさらりと揺らして微笑んだ。  脚本と演出の両方を担当する森多が、膝を小刻みに上下に揺らし、吸い掛けの煙草を左手に、鉛筆を右手に持ちながら、机の向こうから鋭い目で見守る中、白帆は懸命に演じる。

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