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1時計塔の夕暮れ

街を一望できる学校の時計塔から夕陽を見られる時間はほんの一瞬だ。 バルクのような不真面目な学生は代々同じように若干ふざけた先輩から受け継いできた、時計塔の物置部屋入れる真鍮の鍵を持っている。 これがとても便利なもので、バルクはたまに授業をサボったまま午後から物置部屋に忍び込んで昼寝をし、気がつくとすっかり日が暮れているということもあった。 友人たちやたまには女性を連れ込んで…… という悪さをした先輩たちもいたようだがバルクは、ここを一人になるための場所として使っていた。だからもう一本の合鍵も誰にも渡していない。 かつて貴族の子女がいく大学の予科として成りたち、戦後の今は若干市井にも門戸が開かれつつある学校で、基本的に野心家かおっとりしているかのどちらかしかいないような場所だ。 生粋の貴族であるくせにバルクは中、高、大と7年も通ってもいまだに馴染めていない。それは学校に対してだけでなく、貴族院議員でありながら実直で清廉な父をはじめ、父によく似た性格の兄、お互いのことにしか興味がないような天才肌の双子の弟たち、そしてただただ美しいだけの存在である母にもなにか今ひとつ距離をおいてしまう。 長男が自分が好きな道を行ったとはいえ、兄を差し置いてまで次男のバルクが議員を継がねばならないのか、父の考えすらまるで理解できないままだ。 どこか冷めて達観したところを隠し、洒落者で金払いの良いちゃらついた男を演じて生きている。 荒くれた下級軍人のいく酒場から、女給の可愛いカフェまで、彷徨いては居場所を探し、どこにも落ち着けなくなるとまたここに戻る。 埃っぽいが妙に落ち着くこの空間。 趣味の良いバルクが色鮮やかで見るたびに気分が高揚するような私物を持ち込んで、美しく設えている。 先達たちが残したスプリングがややいかれた革のソファーに背あたりの良い鮮やかな赤いクッション。当座の着替えに、保存が効くナッツや乾パンをねずみに食われぬよう大きなブリキの缶に入れ、棚の上に常備している。水は一階まで行かないとないが困らない。まだ男も女も知らぬ頃は、ここの存在が、家を出て寝泊まりすることが出来る場所があるということだけで心の寄る辺になっていた。 その日は空気の入れ替えのため、夕暮れに近づく目立ちにくい時間になってからこっそりと窓を開けていた。このところ外泊を続けて遊び歩いていたのでここに立ち寄ったのは久々だった。 今日は一日晴れ渡った青空で初秋の空気はひんやりと冴えている。 窓に反射した夕焼けをみて、なにかふと心を動かされ、久しぶりに屋上まで上がってみようかなと思った。物置のある方の窓は南なのでよく見えないからだ。 どうしてそう考えたのか…… それはたまたまとしか言いようがない。もしかしたらだが。 今日は昼間自分の中でどう消化すればよいのかと悩む出来事があったのだ。 今朝、憔悴した様子で学友が2週間ぶりに登校した。バルクも遊び歩いて久々の登校だったので、そのことは他の友人から聞かされた。 なにか身内に不幸が起こっていたのだと、密やかな噂になっていたのだそうだ。 普段は陽気で賢く誰からも好かれるような男なのに、彼の苦悩は深く…… がっしりしつつも美しいアルファ男性らしい輝くような姿形は精細を欠いていた。 帰り際たまたまバルクが一服していた裏庭に、忍ぶように一人、彼が来た。 目が合うと、彼は耐えきれなくなったように木の根元にしゃがみこみ、できるだけ小さく人目に触れないようになると、腰を掛け泣いていた。 時折何かを口走り、小さく『俺のせいだ……』と呟いていたのが耳の端に残ったが、薄情かもしれないがバルクは込み入った質問をすることもできず、ただそばにいて僅かに色づく木の葉をつけた梢を見上げていた。 時計塔の階段を物置小屋から一階分だけ上がるとそこがどんつきで、そこからは黒い鉄の梯子で屋上に上がれる。 しかしなぜか今日は上から風が吹き込んできていて、開け放たれているとわかった。 塔の管理人はでっぷりと太った中年男性で、内緒の鍵を使っていても賄賂のように色々と貢物を渡せば黙っていてくれる陽気な人だが、非常に不精なのでこんなところには上がらない。 そもそもこの梯子を登れるかどうか…… バルクは手慣れた仕草で梯子を掴むとするすると登っていく。支えがしてあって開いていた屋上への出入り口の蓋を、頭でぐっと押しながら梯子を登りきり、降り立った。 時計塔の屋上は真っ赤な夕日に照らされていた。 町並みは赤い日を浴びて照る部分と暗い影のできた部分に塗り分けられ、陰影の強い一枚の絵のようだ。 細い煙草を取り出して火をつけようとした時、何かふわりと匂いがした気がして…… ふと左の視界の端に人影が映った。 手を止め顔を上げて目線を上げたとき、心臓が掴まれたような苦しいほどの衝撃を覚えた。 腕を大きく広げた華奢なシルエット 柵のない屋上の際に立ち、夕方の風に煽られた白いシャツが羽のように広がり、真っ赤な夕日を浴びた身体は今にも宙に舞い落ちそうだ。 とっさに身投げだと思った。 手にしていたものを放り出し、バルクは日頃気にしてばかりいる整いきった金髪を乱しながら駆け寄った。 「危ない!」 手をとって後ろ引っ張ると悲鳴を上げながら相手が屋上の縁から転げ落ちる。 とっさに相手の頭を胸元にぶつけながらも支えた身体は軽く、本当に羽が生えているようだ。 落ちてきた身体を胸の中に抱き込んだまま、勢いを殺すように膝をつく。 お気に入りのトラスザーズに屋上の泥と苔がつく。 「やめろ! 離せ!」 暴れる少年の声はまだ変声期が終わりきっていないかのように甘くハスキーだった。 胸の中から抜け出そうと暴れる身体は細く、風で乱れくしゃくしゃになった前髪で顔はよく見えないが首筋は真っ白だ。 それが妙に視線を奪う。 押さえつけた両腕の手首の細さは少女のような華奢さだが、逃れようとする力は思いの外の強くアンバランスな感じだ。 しかし周囲の青年たちよりずっと上背のあるバルクに叶うほどでは到底なく、無理やり抑え込んでささやく。 「離したらまた飛び降りようとするでしょ?」 バルクは豪華なブロンドに、海原のような青い瞳をもつ。 大抵の人間は天から降りてきた女神の使いもさるやという、この容姿の虜になると言われる。 華やかで優しげな美形だ。こうした親切そうな行いや声色で相手を不快にさせたことはない。なのに少年は俯きながら怒ったような声をだした。 「飛び降りようとなんてしてない!」 「そうなのか? ……じゃあなんでこんなところに? ……泣きながら?」 バルクは目ざとく、少年の頬に光る涙のあとに気がついていた。 「……」 「何をしようとしていたのか教えてくれないと危なっかしくて離せない……」 少年は少し迷いながら時間をおき、バルクは辛抱強く待った。その後少年は小さな声でいった。 「空に近い場所で、弔いたくて…… 祈ってた…… 。僕は自分で死を選んだりしない」 バルクは友人のときと同じくそれ以上問うことはなかった。 このくらい小さな子が弔いというぐらいだから大方飼っていた犬や猫を亡くして恋しがっているとかだろうか。 顔を覆っていた長いさらさらとした前髪を振り払ってやると、溢れるほどの大きな瞳の、少女と見まごうような貌が現れた。年上にしか興味のないバルクをもってしても、年はともかく容貌だけなら美しいと唆られる容姿だ。 顔に対して大きすぎるほどの瞳から、涙をポロッと零し、小さな白い顔は夕日を浴びて真っ赤に染まっていた。 しかし赤赤とした光にに照らされたその表情は険しくも毅然としたものだった。 その顔は確かに祈りを捧げるもののような、なにか触れがたい神聖ささえ感じる。 今日は死の匂いがする話を聞いてばかりだ。 圧倒的な太陽の光が徐々に夕闇に溶けるように失われていく。 「わかったから…… ここが真っ暗になる前に降りよう。……全くどうやって入り込んだんだか」 と言いつつ、考えてみるとバルクが入り込んでいる時間は、部屋はともかく特にこの塔の入口の鍵を内側からはかけていない。塔が開いていると思って入り込む人間など皆無だからだ。 大方中等年学校の生徒だろう。時計台は大学の端っこにあるが中等年学校においても端っこは接している。 「さあ、降りるぞ」 少年を抱えたまま立ち上がると、急に高く変わった視界に彼は驚いて慌てふためき、膝までの紺色のズボンからツルッとした膝頭そして伸びやかな足をバタつかせて、バルクの上等な服に足跡をつける。 弟たちと同じくらいの年だから勘弁してやるが、普段気に入った服にこんなことをされたら絶対に許さないバルクだ。 「いやだ!僕はまだここにいる!」 「ここの鍵を持っているのは俺だ。一緒に降りなければここに閉じ込められて、屋上から助けを呼び続けることになるぞ?」 片眉を上げて小馬鹿にするように少年を見下ろすと、彼は頬を膨らませ、ツンっと顔をそむけた。 男に抱きあげられても自然と身体を預けている、すっかり甘やかされて育ったような貴族の子どもなのかもしれない。 「何を拗ねているのか知らんが、家のものが心配するだろう。もう子どもは帰れ」 「……帰りたくない」 できれば妙齢の女性か年上のセクシーな男性に言われたい台詞だ…… 子どもは苦手だか、多分高位貴族の息子である気がするし、このまま保護を怠ると後で誘拐でもされたら厄介だ。 校内といえど中央は治安が良くないので安心できない。 しかしわざわざ隣の中等年学校まで連れて行くのは骨が折れる…… とりあえず物置部屋まで戻って窓から下を見張って、この少年を探しに来たものが現れそうならば引き渡しに行こうと思った。   黙り込んだ少年を先に梯子からおろして自分も蓋をしてから降りる。少年は日が暮れて真っ暗になってきた階段上から暗い階下をみて竦んで立ち尽くしている。 「怖いんだろ」 意地悪く聞くと顎で切り揃えられたダークブロントの髪をふるふると降ってごわごわと降りていこうとする。意地っ張りな性格なようだ。 バルクはさり気なく手を繋ぎ、とんとんとリズミカルに数段降りて先導してやった。 二人で一階分降りて、物置部屋に入る頃には、空の下の方にある濃紺の雲の間から夕日が薄く光りながら町並みの中に溶けるように落ちていった。 「この部屋は?」 「俺の城。いいだろ」 小さな電球に綺麗な萌葱色の硝子にカミキリムシとあざみの花が描かれたランプシェードを自分で取り付けていた。 薄暗いが柔らかな暖かい明かりが落ちる真下に二人で寄り添うようにソファーに座った。 先達がおいていった様々な本や過去のテスト等が詰まった本棚、やたらと金色の装丁が派手な婦人画、大きな水晶のクラスター、何かの設計図。そして双眼鏡だ。 少年は目をキラキラとさせて、それら部屋の内を見渡す。 比喩だけでなく、少年の目の色はきらきらとした不思議な鱗粉のようなものの浮かぶ、夕焼けと同じ色の瞳だった。 これと同じ目を見たことがある気がしたが、行きずりに近い知人から友人まで数多くいるバルクは、すぐには思い出せなかった。 「俺はバルクだ。お前は? 」 じっと目で強めに圧をかけ、言わなきゃ追い出すという風に脅す。 「……ミカ」 そういった瞬間にミカの薄い腹から音が聞こえた。 バルクが吹き出すとミカは憤慨して大きな目をまんまるに見開く。 「笑って悪かったよ。俺もこれから外に食事にに行くとこだから腹ペコだ。先に何か少し食べるかな。バターナッツ食べられるか?」 ガラスのボトルに継いでついでおいた水をグラスに注いで、真ん中が鮮やかなモザイク模様の入ったガラスのテーブルにおいてやり、食べ物を探してブリキの缶を漁っているとまたミカはプイッとした。 まあそうだろうと思う。バルクであるまいし、貴族の息子がよく知りもしない初めてあった男から食べ物をもらったりはしないだろう。 バルクの家は伯爵家だが、父が貴族院議員であったとしても公爵家と違って国から家名存続費は貰えず、歳費の額も低めだ。 だから伯爵家の中にはむしろ商家よりも貧しい家も多いのは公然の事実だ。 しかし戦争が終わり、高位の貴族であっても家名存続費の額は減らされ、そのうちは議員としての歳費以外はなくなっていくのではと言われている。 その点、バルクの家は父方も母方も時代に先駆けて、軍や外交、貿易などで財を成して歳費に頼らず生活しながら、先祖の財産も守ってきた。だからバルクも感覚は市井と近しいと思っている。 しかし昔ながら爵位にあぐらをかいているような家の子どもも多いし、何もできないくせに気位だけは高かったり、人を性差だけで決めつけて見てきたりする。  この子はどちらの家の子だろうか? 性差、というのはこの世に存在するアルファ、ベータ、オメガのことだ。 アルファは身体的に優れ、支配階級に多いと言われているが、最近ではそうでもない。ただし、オメガと番、生まれた子はアルファが多いとされている。 貴族社会はアルファ家系が多く、ベータは冷遇される。オメガの待遇は条件付きだ。 嫁ぐならば厚遇、家を継ぐならば冷遇される。 基本的に相手の性を聞くことはマナー違反のためなんとなく家での扱いや本人の雰囲気で判断されることが多い。 バルクはアルファだが、逆にベータのように振る舞って相手の出方を伺って斜に構えて生きている。 アルファというだけで利用しようと近づいてくるものが多いのだ。 ミカはまだ性別の判定を受ける前の年のようだから逆に気兼ねなく接しられる。 しかし意外なことに一緒にしまっておいたミモザの柄入りの紙ナプキンの上にナッツを置いてやったら、そっと小さな手を伸ばしてつまみ、食べ始めた。 未開封だったキャラメルを見つけ、2粒おいてやると、それもこちらを伺うようにして見上げながら手にとる。餌を求める小さなウサギの子みたいに可愛らしいと思った。 「……美味しい。バターナッツもキャラメルも」 微笑んだ顔は大きな瞳の印象が和らぎ愛らしさの中に子どもらしい可愛らしさがあった。 なんとなく野生の動物に餌付けを成功した気分だ。とにかく頭が切れて可愛げのない弟たちとは大違いだ。 「このナッツは酒場でつまみででてきて、美味いからわけてもらってきた。キャラメルは子供の頃から至宝亭の赤箱のこれしか食べない」 「子どもみたい」 キャラメルを舐めながら甘そうな口元になってミカが大人ぶった口調でからかってくる。 「そんなこともない。キャラメルは軍人も戦地に持っていった。大人も喜んで食べるぞ」 あははっと声を上げて笑い合う。こんな6つ年下の弟たちと似たような年の子ども相手に何をやってるんだと思うが、しかしなんとなく塞いだ気持ちが紛れて晴れたのを感じた。 それから二人は静かに窓の外の町並みに小さな明かりが灯って、街が夜の装いになっていくのを双眼鏡を交互に使って眺めた。そしてゆっくりと暗くなった星空が瞬くのを見上げていた。 不思議と共にいるのが負担にならず会話がなくとも心地よい空気が流れているようだった。 窓の外にはたくさんの人々が息づく街があるのにまるで世界に二人きりになったような静謐とした、安らかな温かい巣の中のような…… 半刻も立たぬうちにふと窓の外を見下ろすと、明らかに貴族の家の上級使用人のような服装の男がなにか探している風にウロウロしているのがみえた。 「おい、ミカ。迎えが来てるぞ」 ガタン、とグラスをおいて悲しげな顔をして逃げ出そうとしたミカを捕まえる。帰りたくなさそうな顔をして俯く。 そのままその手を引いて部屋をともに出た。 「ここに、またきてもいい?」 「え?」 ミカは階段の数段上で立ち止まり、ミカの目線がバルクと同じ高さになった。 僅かに、檸檬のサワーキャンディのような不思議な香りがミカから薫った気がした。 印象強い光を持つ瞳は、外からの月明かりでよく見えないが、答えを待ってじっとこちらを見つめている気配がする。 なぜか強烈な引力を感じて、バルクは握った手に力を込めて彼を引き寄せ抱きしめると、羽のように軽やかな身体を自分の立っていた踊り場に下ろした。 そして柔らかな髪ごとそんな衝動をごまかすように頭を撫ぜた。 「いいよ。またおいで」 思わずそう言ってしまった自分に驚いていた。 「ありがとう」 その声が甘く響いて、こんな年端もいかない子になんで心に漣を立てられたのか、バルクには自分の中に現れた奇妙な欲と対面していた。 「ミカ様!」 外に出るとバルクよりは少し年上に見える黒いスーツ姿の男が駆け寄ってきた。 すぐに怖い顔でバルクをにらみつけながら、ミカを隠し後ろに庇うような仕草をした。 バルクは呆れた顔をしてミカに手を振ってすぐに立ち去ろうとした。 その背に向かってミカははじめての大きな声を上げた。 「まって。……バルク、ありがとう」 「わかった。また今度な」 わざと男に聞こえよがしにそう言って、バルクはその場を立ち去った。 「ミカ様、一人で何処かに行ってはなりまさん」 「ごめんなさい…… サリエル。どうしても一人になりたかったから……」 白いシャツ一枚でいたミカにすぐに自分の上着を着せかけ、肩を抱きながら乱れた髪や衣服を壊れ物でも扱うかのように整えていく。 「申し上げにくいことですが…… エリ様に続き、この上ミカ様にまで何かありましたら、母君は心労のあまりどうにかなってしまわれます。 あまり丈夫ではないのですから、どうか身体を大切にして下さい。そして一人でどこにも行かないと…… サリエルと約束してください」 子どもの頃から影に日向に寄り添ってくれた、サリエルの言葉にミカは頷き、それでも瞳はバルクが去った方向を追い見つめていた。

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