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唇が触れあったちょうどその時、振動するような音が鳴った。
池上隼人 はちらっとサイドテーブルへ目を走らせた。だが、それを遮るようにキスをされた。
カーテンで閉め切られた寝室で、ベッドサイドの小さなランプだけが控えめに灯り、深まった夜の気配が部屋中に染み込んでいる。そう広くもない室内には、少々大きめのベッドが置かれていて、その上で裸体の男が二人、口を重ねていた。
二人の周りには、脱いだ服や下着が散らばっている。ちょっと前にこのアパートメントを訪れたイタリア人の若者は、久しぶりに部屋主と会えたことに、口を尖らせて文句を言った。けれど、そのアラビアータよりも激辛な言葉から漂ってきたのはチョコレートケーキのような甘ったるさで、若者らしい素直じゃない拗ねように、隼人の性欲はいたく刺激された。謝りながら部屋へ入れると、互いに我慢しあっていた欲求が蓋を開けたらしく、言葉もなく服を脱ぎ始め、ベッドへ直行した。
二人のキスはまだ続いている。腕を絡ませ、抱きあいながら、気持ちよく味わっている声が、洗ったばかりのシーツの上にぽとりぽとりと落ちる。
「……ん……」
「あ……ん……」
サイドテーブルにある携帯は、ずっと振動している。
ついに隼人は唇を離そうとした。だがそれを察知したらしい若者の腕に力がこもり、いっそうキスが熱くなる。
隼人はそれを拒みはしなかった。しかし、少しゆるんだ隙に、素早く丁寧に優しく離れた。
「……ちょっと、待っていてくれ。すまない」
身を翻して、サイドテーブルへ腕を伸ばし、携帯電話を取った。
「……池上です」
日本語で出た。電話の相手は日本人である。
「ええ……はい……ええ、わかりました」
あれだけしつこく鳴っていた携帯だが、一分弱で終了した。隼人は通話を切ると、急いでベッドから下りて、散らかしていた下着を拾った。
「すまん、仕事で出かけなければならなくなった」
トランクスを履きながら、ベッドを振り返ると、案の定、若者は怒りの形相を隠そうともしていなかった。
「本当にすまん。せっかく来てくれたのに。ここに泊まっていってもいいからな」
心を鬼にして見ない振りをしながら、ワイシャツに袖を通し、ズボンを身につけ、ベルトも締めた。靴も履いて、簡単に手で髪を整える。
ベッドの若者は、そっぽを向いた。日本人の喋るイタリア語は間違っていると言いたげに、苦々しい様子だ。だが、その怒っている姿は非常に色っぽい。
わきあがっている欲求を必死に堪えながら、隼人はジャケットを持って部屋を出た。
「すまん、ロミオ」
ロミオは一度も振り返らなかった。
翌日の昼過ぎ、ミラノ中心部にある会社に二度目の出勤を果たした隼人を、社長自らが苦笑いで出迎えた。
「おめえさんも、ご苦労さんだな」
深夜に呼び出しておいてそう労う張本人を、隼人はできるだけ穏便に睨みつけた。
「恐縮です、社長」
「おいおい、おっかない顔すんな」
日本でも有数の自動車メーカーサガノのイタリア本社社長である司籐京介 は、愉快そうに顔をニヤつかせた。四十代の中年オヤジだが、細身で中背、愛嬌のある童顔、自己流のセンスのいい着こなしに、ざっくばらんな性格、ずけずけと言いまくる口は、イタリア・サガノ本社で働いている優秀なイタリア人の部下たちからも人気があった。
「私は社長と違って、普通の顔ですから」
隼人は今年で三十歳になるが、イタリア人の同僚たちからは十代でも十分騙せるとのお墨付きをもらっている。だがシニョーレ・シトーも二十代に見えると言われた時には、頭のてっぺんからひっくり返りそうになった。ヨーロッパ人からは、東洋人の外見は年齢よりも若く見えるそうだが、それにしても四十代の男をつかまえて二十代はないだろうと思った。
「カピターノが来た時は、すごく若い男が来たねってみんなでびっくりしたんだ。でもその後で年齢知って、さらにびっくりしたけどね」
これぞオリエンタルだと感心していた同僚のシルヴィオには、東洋人の女性を口説くときは年齢確認をしろと助言しておいた。
「しょうがねえだろう、腹立てんな。こんなご時世だし、東京じゃ急いでいたんだ」
「怒っていませんよ。仕事ですから」
ミラノ本社のマーケティングを統括している隼人は、イタリア中にあるサガノのディーラーから送られてくる日々の販売実績と車の市場のデータを細かく管理し、それをわかりやすい形でまとめていた。東京にあるサガノ本社で、イタリアのデータが急遽必要になり、夜中にもかかわらず呼び出されたのである。
「隼人よお、へそ曲げてんのは、もしかしていいところだったからか?」
窓ガラスから強烈に差し込んでくるお昼時の光を浴びながら、くるりと振り返ったカピターノ・シトーの男前な顔は、どこか悪巧みを考えているように愉しそうだ。
「おめえさんだったら、一緒にベッドで寝る相手は猫ぐらいだろうと思ってたんだ。悪かったよ」
ええ、ええ、そうでしょうとも。隼人は愚痴りたくなった。つまらない俺と一緒に寝てくれるのは、エメラルド色の目をした猫だけですよ。思いっきり気性が激しいですけどね。
――怒っているだろうな。
昨夜のことが浮かんで、頭が痛くなった。ベッドの上から、それこそ親の敵でも見るように睨みつけてきた。心臓が縮みそうなほどに、怒りの炎が燃えあがっていた。
隼人は明け方に仕事を終えて、すぐに帰宅したが、ロミオはいなかった。置き手紙もない。勿論携帯にメールが届いているはずもなく、ドッと疲労と眩暈に襲われた隼人は、ベッドへ倒れこむと、そのまま眠ってしまった。昼近くに這い出てきて、シャワーを浴び、顔を洗い、服を着替え、食事をして、歯を磨き、足を引きずるようにして出社してきたのだが、頭の中はロミオのことでいっぱいだった。
「落ち込むんじゃねえ、隼人。おめえさんはいい男だから、ちっとやそっとじゃ彼女は放り出したりはしねえよ。安心しろ」
「……だといいですね」
司籐社長のてやんでえな慰めも、隼人の傷口に塩を塗るだけだった。
――あとで、電話をしよう。
これだけは絶対に譲れないと、かたく決意をした。
携帯の着信音が鳴って、ベッドに埋もれていた下から、すらりとした腕が伸びて掴んだ。続いて、顔が現れて、発信者を確かめる。ちっと舌打ちして、ロミオは携帯を耳にやった。
「うるせえんだよ、じゃあな」
「こら、待て! いきなり電話を切るな! まずは深呼吸をしろ!」
電話口でがなりたてる声に、ロミオは閉口して、通話を切ろうとした。しかし、パウロが!との言葉が聞こえて、面倒そうに持ち直す。
「パウロが何だって?」
「それは俺が聞きたいね! とりあえず、その寝起きの悪い声を、深呼吸して直せ! マネージャーの命令だ!」
「うるせえ」
ロミオは口答えしながらも、ベッドから上半身を起こした。裸である。
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