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身勝手な幼馴染

「あ……黒崎くん、久しぶり……だね」  困ったように眉尻を下げ、無理矢理笑顔を作って八年ぶりの挨拶を口にする男。あの時よりも大人びた顔で、俺を振った時と同じ表情をする幼馴染に、苛立ちと吐き気が込み上げてくる。  中学の頃つるんでいた友人から同窓会に誘うメッセージが届いたのは、つい一週間ほど前のことだった。  俺は参加しなかった成人式の年以来、どうやら毎年開いているらしい。盆の帰省をしない俺は、友人から送られてくる「今年は来いよ!」というメッセージに、毎年同じ台詞で断りを入れていた。  八月の二週目。今年は、太陽がギラギラ照りつけて熱中症患者が大量発生する東京ではなく、申し訳程度にいくぶんかは涼しい地元にいる。  一時的な帰省ではなく、完全にアパートを出払って実家に戻ってきたのだった。  今年もメッセージを送ってきた友人の五十嵐に「加賀谷は来んのか」と聞いた。「あいつも毎年来てないんだけど、今年も仕事で無理そうって」と返事が来たので「行く」と承諾した。  夜になってもアスファルトから蒸した熱気が立ち上ってくる。一枚で羽織った黒のTシャツが、滲む汗で胸に背中にくっつのが気持ち悪い。同窓会会場である居酒屋の前で五十嵐を待っていると、複数人引き連れた待ち人がすでに酒が入っているような赤ら顔でやってくる。 「おー黒崎、早くね?」 「えっ嘘! 黒崎!? マジで来たの!? 本物!?」  五十嵐と一緒に歩いている男女は、だいぶ雰囲気が違うものの昔の中学のクラスメイトの面影が確かにあった。五十嵐とは一年に一度、冬に帰省した際に飲む仲ではあったが、それ以外の連中とは卒業以降、一度も会っていない。 「お前が遅いんだよ。つかもう飲んでんのかよ」 「うん、ゼロ次会やってた」 「うわー、本物じゃん! この目つきの悪さは! てかおっぱいある! 何で? Tシャツぱつぱつ……おっぱいだよなこれ?」 「喧嘩売ってんのかてめ……名前何だっけ」 「酷い!」  すでにテンションの高い連中と居酒屋に入り、まだ全員は集まっていないようだったが先に酒を注文する。運ばれてくるまでの間、中学のクラスメイトたちは卒業以降初めて姿を現した黒崎大河という男の話題で騒いでいる。 「まさか満を持して登場するとは思わなかったー!」 「俺も、オッケーの返事もらってびっくりしたわ。先月だっけ? 黒崎、もうこっち帰って来たんだもんな」 「あ、そっか、格闘技辞めたんだっけ」 「俺、お前の引退試合動画で観たぞ、相手めちゃくちゃにされてて可哀想だったわ」 「……は、しつこかったから完全にのしてやったわ」  中学のクラスは一年から三年まで持ち上がり、なんたって一学年一クラスしかない。幼稚園も小学校も一緒、全員が幼馴染の顔見知りで、家に遊びに行ったことのない奴はいない。過疎化した地域、俺たちの母校もいつ統合になるかという勢いで子どもの数は減っている。  大人になる前、自我を確立する思春期を一緒に過ごした連中。ずけずけと、俺が東京を去って地元へ戻ってきた要因へ踏み込む。 「でももったいないよなー、まだこれからじゃねーの?」 「お前知らねーの? でけえ怪我したんだよ黒崎」 「でも治ったら続ければよくね?」 「や、そんな単純なもんでもねーだろ」  阿呆面でのたまう連中と、おそるおそる窺うように俺を覗き見る五十嵐。中学時代一番仲の良かった五十嵐だけは、それとなく心境を慮ってくる。 「もう、いいんだよ。満足したから」 「ふーん、そういうもんなのか?」  ちょうど運ばれてくるハイボール。何人か遅れて参加するらしいが、二十人ほど揃い、今いるだけのメンバーで一度乾杯する。  高校の頃からやっていた格闘技。卒業後は上京し、そこそこ強いジムに所属した。何度かタイトルも取った。スポンサーもついた。これからまだまだ活躍できるという時に、脚に大怪我を負った。  全治三ヶ月、その間試合はもちろんトレーニングもできない。ブランクができてしまうことに絶望したが、逆に言えば絶望したのはそこだけだった。過酷なリハビリを続け、復帰した。  だが、俺の場所はなくなっていた。練習と試合の中で感じる限界。再び同じ地点へ到達することは叶わないと、自分でわかってしまった。  だったら、このまま見苦しく足掻き続けていたくはない。俺は長年生活の一部となっていた格闘技を辞め、地元へ戻った。  実家へ帰ってから、これが挫折というものかと実感が湧いた。しばらくは職探しも何もせずに休憩したいと、実家に世話になることになった。  そんな時に毎年恒例、五十嵐から連絡が来た。何でもいいから普段と違うことをしたかったのかもしれない、「行く」と返事してしまった。あいつが来ないなら、という条件つきで。 「お、だんだん増えてきたなー」  五十嵐が座敷を見渡しながら言う。徐々に途中参加組が合流し始め、席も埋まっていく。  開始から三十分経過し、ペースの早い奴はすでに顔を真っ赤にしてべろべろになっている。ゼロ次会をやっていたというメンバーはだいぶ陽気なテンションだ。毎年幹事をやっている五十嵐だけは、冷静さを欠いていない。  俺は二杯目のハイボールを煽り、少し酔ってきたかという具合だった。五十嵐と、中学時代つるんでいた連中とで固まって飲む。ひとりが動画サイトから俺の過去の試合のひとつを引っ張って周囲の奴らと騒ぎながら観ていた。やべえやべえ、殺す気か、と勝手に盛り上がっている。  視界に入ったタブレットでは、ベリーショートの金髪の男が、相手をタコ殴りにしている。デビュー戦の俺だ。その後の反撃で、俺は目の上を深く切って縫うことになった。今もその痕は残っている。先輩には箔がついてさらに男前になったと言われたが、初対面の相手には大抵ビビられる。 「おい、黒崎いいのかよ」  五十嵐が枝豆をつまみながら、心配を寄越してくる。うざい。 「別に気にしねえわ。勝手に騒いでろ」 「そっか。お前がいいんならいいけど」  別に過去の栄光を思い出して哀愁に浸ったりしないし、挫折したことに打ちのめされたりしない。俺は平気だ。  平気だった。あいつが来るまでは。 「ごめん、遅れましたー……」  座敷の戸が開いて、男がひとり腰を低くしておそるおそる入ってくる。  その声を聞いて、心臓が握り潰された。 「えっもしかして加賀谷? 加賀谷諒太!?」 「マジ!? 全然別人じゃん!」  遠慮がちにへらりと笑みを浮かべながら空いている席を探そうときょろきょろと見回す男。黒スキニーに藍色のサマーニット、癖のある黒髪のツーブロック。でかい上背と広い肩。  無駄に大きい二重の目と童顔は鮮明に記憶しているが、それ以外は何もかも違った。こんなにでかくないし、こんなに垢抜けていない。  この男は来ないと聞いたから、俺は同窓会に出席したんだ。 「おい五十嵐……加賀谷は来ないって言ってたよなお前」 「あー、言い忘れてた! 不参加の予定だったんだけど、遅れてなら参加できるって昨日連絡きて!」  中学時代の面影もない加賀谷の登場に、元クラスメイトたちはざわつき始めた。酔った女どもは、かっこいいとか、可愛いとかはしゃいでいる。それに満更でもなさそうに、困ったように苦笑を浮かべている男と、不覚にも目が合う。  舌打ちし、即座に視線を逸らす。  心臓が、ぎゅっと苦しくなるような感覚。気分が悪い。帰りたい。だが、ここですぐに立ち去ればあまりに露骨だ。  加賀谷諒太は、他の連中同様に幼稚園からの幼馴染で、家は近所同士で親同士仲が良い。さらに高校まで一緒の腐れ縁だ。  腐れ縁だが、友達だとか、そんな優しい仲じゃない。  俺たちは高校時代、付き合っていた。いや、俺があいつに「付き合ってやっていた」。  家が近所の幼馴染だからって、別に仲が良かった訳じゃない。むしろ逆だ。  ガキの頃から泣き虫で、臆病で、根性なしの加賀谷は、周りにいるだけで俺を苛立たせる天才だった。おどおどした性格、はっきりしない態度、野暮ったい服装と髪型。小学校でも中学校でも女子とまともに口をきけないヘタレ、運動は苦手で頭が良い訳でもない。そんな加賀谷を、俺を筆頭にクラスメイトは皆馬鹿にして見下していた。  俺は加賀谷とは真逆で、大抵のことは何でもできた。運動も勉強も一番を取った。習い事だったそろばんも、所属していたサッカーチームでの成績も。俺の周囲にはいつも人がいた。俺とあいつは住む世界の違う人間。  そう思っていたのに、あいつは志望高校に俺と同じところを選んだ。県内では一番偏差値が高い学校で、同級生から進学先にそこを選んだのは俺たちふたりだけだった。  ふざけんな、と思った。は? お前には無理だろ。どうしてお前が俺と同じ世界に住めると思う?  入試は絶対に落ちると思った。だが、どれだけの猛勉強をしたのか、合格発表の掲示板に連番だった奴の受験生番号が俺の番号の前にあったのだ。  さらに俺を苛つかせたのは、入学後の高校生活だった。違うクラスだった一年の時、たまに廊下で見かけるあいつが友達と楽しそうに談笑していること。二年から同じクラスになって、中学の時俺を呼んでいた「大河くん」が「黒崎くん」に変わったこと。見下ろしていたあいつの視線が、いつの間にか同じ位置に来ていること。三年の時に見た、あいつが後輩の女子から告白されている現場。  加賀谷は、俺の知っている加賀谷諒太でなくなっていく。  三年に上がってすぐの頃。ふとした時に感じる、俺を見る視線の意味に気づいた。  恐怖ではない、別の感情がこもった熱を帯びた視線が、俺の項を焼く。放課後、誰もいない教室で、逃げ場がないように追い詰めた。 「く、黒崎くん」 「てめえ俺のことじろじろ見てんじゃねえよ、気持ち悪い」 「え、あ……気づいて……」  あからさまに顔を赤くして俯く加賀谷。高校生になっても、子どもの頃からの知り合いがいない新しい世界でも、友達と呼べる存在ができて普通の高校生活が送れていても、奴の俺への態度は変わらない。怯え、躊躇い、震えている、筈だったのに。  まるで恋をしているように見上げてくるから。 「そんなに俺のこと好きなら、付き合ってやるよ」  お前のせいで苛立つ俺の、ストレスの捌け口になってくれ。  顔を真っ赤にする加賀谷は、大きい目玉に涙を溜めて、首を縦に振った。だから俺は奴で遊んでやった。 「オナってみろ」 「え……おな……?」  誰もいない放課後の教室。西日が差して右肩が熱い。  机の端に体重を預け、加賀谷は俺を見上げながら固まっていた。 「俺が好きなんだろ? 俺の言うこと聞けるよな? 目の前でちんこ扱いてみろよ」  足裏でぐりぐりと加賀谷の股間を踏んでやると、肩を跳ねさせて顔を真っ赤にする。恥ずかしがっている様は、見ていて気分が良い。 「な、に言ってんの黒崎くん……ここ、教室」 「どうせ誰も来ねえよ。先生たちは会議だし」 「でも、おかしいよ……」 「できねえのか? 俺の命令なのに」 「っあ」 「このままだとズボンの中に出ちまうぞ」 「わか、ったよ」  震える手でまごつきながらベルトを外し、ズボンと下着を下ろし、少し反応している粗末な性器を握って、俺の命令を遂行しようとする。  こいつ、本当にやりやがった。馬鹿か?  中学の時と変わらない、震えて怯えているだけの、何もできない加賀谷諒太だ。 「おーい加賀谷」  ガチャガチャと食器のぶつかる音、甲高い女の笑い声、大声で交わされる下世話な会話。アルコールと煙草の臭いが蔓延する姦しい空間で、五十嵐の声にあいつが振り向く。  何呼んでんだよ馬鹿。隣で生を呷る五十嵐を睨むが、どこ吹く風である。  女子に囲まれている加賀谷が席を立って、俺たちの方に歩いてくる。律儀に来るんじゃねえよ、愛想笑いでもしてあしらえばいいものを。 「お前も来れてよかった、何気に同窓会初めてじゃん?」 「うん、ごめんねいっつも運悪く仕事で……今日も、非番だけど隣の市で講習あったんだ」 「まじかよ、お疲れ。飲め飲め」  もとから座っていた奴が移動して空いていた五十嵐の正面に加賀谷が座る。何もしなくても加賀谷が俺の視界に入る。 「あ……黒崎くん、久しぶり……だね」  困ったように眉尻を下げ、無理矢理笑顔を作って口にする挨拶。俺の、大嫌いな顔だ。不快を誤魔化すように、手元のハイボールをぐっと呷る。 「黒崎~、加賀谷、消防士してんだぜ……って知ってるか。高校一緒だもんな」 「うん……高卒で就職したからね」 「すげーよな。一昨年の暮れに卒業以来ばったり会って飲み行ったんだけどよ、やけにデカくなってるし垢抜けてるし本当にあの加賀谷か? って思ったもん」 「本当にあの加賀谷だよ」  五十嵐は何でこいつと仲良さげに話してるんだ。飲みに行った? 初めて聞いたぞ。お前も中学時代こいつを苛めてたろうが。 「身長なんか女子と変わんなかったくせによ~どうしたらこんなに育つ訳?」 「高校で一気に伸びたからね……三年の時には黒崎くんに近づいたよ」 「中学の時のヒョロガリの加賀谷はどこ行ったよ~腕もパンパンじゃねーか」 「職業柄鍛えてるからね」  五十嵐に腕触られて照れてんじゃねえよ気持ち悪い。さっきも女子に囲まれてヘラヘラしやがって。中学の時「加賀谷? マジ無理、ありえない」とか言ってた奴らだぞ。 「でも俺より黒崎くんの方がすごいよ。しっかりしたトレーニングしてるんだなってわかるよ」 「まーこいつはガチだからな。さっきだっておっぱいとか言われてたぞ、この胸筋を」 「さすが、格闘家だなあ」  お前が、俺の話をするんじゃねえ。  傾けたグラス越しに睨みつけると、へらへらとした呑気な阿呆面が強張る。 「あ……確か、辞めたんだよね、格闘技」 「てめえには関係ねえだろ」  緊張した面立ちは、無理矢理に苦笑いを浮かべる。 「うん……けど、ただ、もったいないなって」 「そんなこと思われる筋合いもねえ」 「おい黒崎、そんな言い方はねえだろ~久しぶりに会ったんだからさあ」  緊張を孕む空気を壊すように、明るい声で窘める五十嵐が肩に腕を回してくるのを振りほどく。 「お前ら、高校卒業ぶり?」 「……うん、だから八年かな」 「なおさら、お前と話すことはねえな」 「だっからお前よ~……もう大人なんだから大人の対応しろっつの。昔とは違うだろー……悪いな加賀谷」  なぜか謝る五十嵐に、加賀谷は苦笑を浮かべたまま自分のグラスを持って立ち上がった。 「いいんだ、五十嵐くん。俺あっちに行くね」 「マジで悪いな」  他のテーブルで飲んでいる連中の方へ去る後ろ姿。その背中は確かに中学時代よりも、高校時代よりも広く、俺を苛立たせるだけだった。  舌打ちひとつ、グラスを干して店員を呼ぶと、五十嵐は呆れたようにテーブルに肘を突いて俺を見上げる。 「ガキかっつうの。普通に接してやれよ」 「普通? お前こそ、普通以上にあいつと仲良いんだな」 「一応地元組だからな~。一昨年会って以来、何回か飲んでるし」 「は、友達か」 「友達かもな。ま、加賀谷は中学からすげえ変わったよ。あいつも成人式いなかったから、今日久々に会った奴らはマジで誰って思ったんじゃね」 「何も変わんねえよ。昔から、弱虫でうざってえクソ野郎だ」 「お前の口の悪さも変わってねーよ。マジで加賀谷のこと嫌いな……高校で何かあったんかよ。少しは仲良くしろよ」  五十嵐の、ふざけていない真面目な声のトーンが、アルコールに浸る思考を少しだけ引っ張り上げる。加賀谷のことなど考えたくもないのに、記憶は高校三年の夏へと遡る。 「黒崎くん……別れて欲しい」  加賀谷の熱い視線と「付き合ってやる」という俺の言葉から始まった、誰も知らないふたりの関係に終止符を打ったのは、加賀谷自身の言葉だった。  放課後、部活動が休止するテスト期間、体育館近くの更衣室で、俺の精液を飲んだその口で。残暑厳しい初秋の頃、加賀谷は言った。 「終わりにしよう」  俺の足元で、咳き込みながら俺を見上げた目には緊張や怯えもなかった。  俺はスラックスのファスナーを上げる手を一瞬止めた。  どの口が? 加賀谷のくせに? そんな生意気をことを?  俺を、振った? 俺が、振られた?  あまりに唐突なことで呆然とすると、加賀谷ははっとして立ち上がった。曖昧な笑みを浮かべて、何の弁明のつもりか言葉を並べ始める。 「違う……君と、こんな関係になりたかったんじゃない。俺は……」 「いいぜ。別れてやる」  自分から言ったくせに加賀谷は目を点にして沈黙した。  その日以降、俺たちは卒業するまで一度も言葉を交わさなかった。  加賀谷は地元で地方公務員、俺は東京で格闘技。高校を卒業すれば、間違っても会うことはない。会わないように成人式も参加しなかったし、同窓会も断っていた。  なのに、東京で生活を送りながら、俺は時折加賀谷のことを思い出していた。  俺を見る、少しの怯えが混じった熱い視線。中学時代よりも大きくなった掌の感触。成長して肩が窮屈になった制服。  記憶のひとつひとつ、すべてが苛立ちを煽る。  ショックを受けている? そんな筈はない。俺はあいつで苛立ちを解消していただけ、持て余した性欲の捌け口として使っていただけ、必死になるあいつで遊んでいただけ。  加賀谷の分際で、俺を動揺させられる筈が、ない。    目を覚ますと知らない天井が見えた。眼球を刺す蛍光灯の光に目を顰めると、ズキズキと酷い頭痛が襲ってくる。 「ってえ……」 「あ、起きた?」  一番聞きたくない声。  目だけ動かせば、濡れた髪の毛にタオルを被った上半身裸の男が、傾いた視界に入ってくる。俺はモスグリーンのソファの上に寝ていた。 「どこだ、ここ……」 「えっと、俺の家……あ、実家じゃなくて、俺がひとりで住んでるアパートの」 「……ああ?」  訳がわからなくて唸るように聞き返した声は、酷く掠れていた。 「ごめん、黒崎くん寝ちゃうし、勝手に連れてきた。君の家だと、あの店から遠くてタクシー代高くなっちゃうから」  軋む首を軽く起こして見渡すと、生活感溢れるワンルームにいた。ハンガーラックに干した洗濯物、椅子にかかったTシャツ、テーブルに放られた公共料金の払い込み用紙と、灰皿と少し溜まった吸い殻。  こいつ煙草吸うのかなんて思いながら、耳鳴りがしてぼうっとしたまま加賀谷を見上げる。 「あ、水飲むよね」 「……は? いい、いらねえ」 「でも、相当酔ってふらふらだったんだよ」  ばたばたとドアの向こうの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って来て俺に差し出す。それを手で避けてから、のそのそと上体を起こす。  五十嵐と飲んでいた途中から記憶がない。普段潰れるほど飲むことは意識的に避けているのに、今日に限ってセーブできなかったらしい。  酔い潰れた挙げ句に、よりによって加賀谷の世話になっているなんて。 「ありえねえ……」 「覚えてない? 歩くのもままならなくて、五十嵐くんとふたりで抱えてタクシーに乗せたんだけど……」 「違う。何でお前が俺なんかを」 「あ……ごめん、嫌だよね。嫌だろうなって思ったんだけど……五十嵐くん二次会の幹事もあったし、他に黒崎くんと仲良い人たちも二次会行くって言うから」 「んだよ、てめえの方が嫌々俺を世話焼くことになっちまったんだろ」 「そんなこと……俺は、黒崎くんが心配で」  露骨に鼻で笑ってやる。心配だと? こいつが俺を?  中学時代見下していた俺を、高校時代弄んでいた俺を、自らが振った俺を心配だなんて、優しいにも程がある。 「お前の心配なんざ迷惑なだけだ」 「そうだよね……ごめん」 「帰る」 「え、今から? 一時だよ?」 「お前の世話になんかなるか」 「え、いや、ちょっと待ってよ、せめてタクシー呼ぶから……わっ」  ソファから降りて立ち上がった瞬間、足元が歪んで視界が揺れる。体勢を崩した俺は、加賀谷の腕に支えられていた。 「っ!」  腰に回った腕の太さ。密着した肌の熱さ。鼻を擽る石鹸の匂い。目の前にある首筋。  ぞわりと背中が粟立って、咄嗟に加賀谷の身体を突き飛ばす。 「っ触んな……」 「ご、ごめん」  距離を取った加賀谷は、酷く慌てたように謝って、頭に被ったタオルの端を子どものようにぎゅっと掴んだ。 「でも、やっぱり危ないよ。もう少し酔いがさめるまでは……」  なぜか加賀谷の目線が俺よりも上にある。一八三センチある俺よりも背が高い。高校の時はかろうじて俺の方が上だったのに、今は見下ろされている。 「ソファ使っていいから寝なよ。あ……それともベッドの方がいいかな……」  高校三年の時点で中学の時よりはいくらかはマシになっていたが、身体についている筋肉量はやはりあの頃とまったく違う。仕事で使う実務的な筋肉なのだとわかる。 「っていうかまず水飲みなよ。喉渇いてるだろ?」  困ったように笑いながら、再度ミネラルウォーターを差し出す。くっきりとした二重の大きな目を、ふにゃりと緩めて。  俺を介抱するつもりでいるのか。加賀谷のくせに、その余裕で、俺に恩を売ろうとしているのか。 「てめえ本当は俺を笑いたいんだろ」  これは俺の知っている男じゃない。弱虫で、臆病な、うざってえ加賀谷涼太じゃない。  蓋をしていた醜い感情が溢れ出す。 「挫折して戻ってきた俺を笑いたいんだろ」  加賀谷は大きな目を瞬かせて呆然としている。いや、呆然としているふりをしているのか。  さぞ滑稽だろう。夢を諦め地元に逃げ帰ってきた俺が。 「……そんな訳ないじゃないか」 「無理すんな。俺のこと見下して楽しんでるんだろ。正直に言え」  高校三年の初秋、俺を振ったことも。 「黒崎くん」 「クラスメイトの奴ら、お前見て驚いてたな。昔と全然違うって……ちやほやされて嬉しかったか?」 「……」 「さぞかしいい気分だったろうな。俺が怪我で格闘技辞めたことを哀れまれてる間に、お前は成長した姿褒められて」  加賀谷は、タオルの端を掴んでいた手を身体の脇に下ろして、じっと口をつぐんでいる。 「今もいい気分か? お前を苛めてた俺が、お前で遊んでた俺が、勝手に劣等感みてえなもんぶつけてグダグダ喚いてんの見て」 「思ってないよ、そんなこと」 「何で思わねえんだよ」 「だって――」 「なあ、やらせろよ」  中学生のようにあどけない表情で、きょとんとする。 「え……?」 「やらせろって言ってんだ」  加賀谷の頭に被ったタオルを首に下ろし、その両端を掴んで引っ張る。傾いた身体をソファの上に突き飛ばすと、加賀谷の手の中からペットボトルが離れフローリングに転がった。 「黒崎くん……?」  困惑の表情が見上げてくる。 「五十嵐が、仲良くしろって言ってた。高校の時みたいに仲良くしようぜ、加賀谷」  落ちたペットボトルを拾い上げ、キャップを開けて口をつけると冷たい水が渇いた口と喉に流れ込み、熱い身体へ染み込んでいく。だが、冷静でない思考を冷ますことまではできない。 「きゅ、急すぎて何が何だか……訳が……」 「俺もわかんねえ」  自棄になっている。のかもしれない。自分でも何がしたいのか、わからない。酒に酔っているからか。  苛立つ気持ちを、行き場のない虚しさを、この男にぶつけたかったのかもしれない。 「っん、む……」  ソファに座る加賀谷の上にのしかかり、口にペニスを咥えさせ、引かないように頭を押さえつける。あの頃のように、加賀谷は逃げない。抵抗しない。 「はぁ、……」  相変わらず下手くそだ。八年前と変わらない手際の悪さととろさに俺は安堵する。 「だらだら舐めてるだけじゃいけねえんだよ、もっとしっかり咥えろ、おら」 「ちょ、まって……、んぶっ」  半勃起しているものを加賀谷の口の奥に突き立てると、奴は咳き込みたいのを我慢するように肩を揺らした。見開いた大きな目に涙を浮かべ、鼻で下手くそな呼吸をする。 「はっ、不細工な顔」 「っぐ、……ん、ふぅ、う」 「……おい、何だぁ、これ」 「っ、ん、んんッ!?」  膝で加賀谷の股間を押すと、ゴリッと硬くなったものの感触が確かにあった。 「俺のしゃぶって勃起してんのか、変態マゾ野郎」 「ふ、う、っん……!」  ぐりぐりと膝で刺激してやると、奴は口いっぱいにペニスを頬張ったまま顔を真っ赤にして、ビクビクと身体を震わせる。気持ち良さそうに細めた目は潤み、俺の一枚だけ羽織ったTシャツの裾をぎゅっと握りしめて。  こうしていると、あの頃を思い出す。俺の言いなりになって何でもやる、俺の前でならどんな醜態でも晒す。  そうだ、これが加賀谷涼太だ。 「どうする、いきたいか? このまま下履いたまま射精するか?」 「っん、ぅ……ん」 「誰がいかせるか、変態」  加賀谷の頭を押しやり、じゅぽ、と汚い水音を立てて濡れた粘膜の中からペニスを出す。苦しそうに開いた唇から唾液の糸が亀頭と繋がって、切れる。こいつのフェラが下手くそなのもあるが、酒を飲みすぎたせいで起ちが悪い。  俺はソファから下り、脱力して投げ出した加賀谷の脚の間に膝を突く。 「えっ」 「勝手にいったら、握り潰すからな」 「ま、待って、黒崎くん」  灰色のスウェットを下着ごと乱暴にずり下げると、完全に勃起した加賀谷のペニスがぼろんと顔を出す。  黒い陰毛の中からびきびきと血管を浮かせて生えたそれは、記憶にあるものよりも一回り大きいような気がした。 「でっけえ童貞チンポだな」  皮から顔を出した、薄い色の亀頭の先に透明な滴を浮かせて震えている。唇の端を吊り上げ見上げてやると、加賀谷は一層顔を赤くして、ぶるぶると唇を噛む。 「ど……童貞じゃ、ないんだ」 「へえ、意外だな、加賀谷のくせに」  考えてみれば、意外でも何でもない。身体はがっしりと逞しく、少し童顔だが黙っていれば面も別に悪くはない、市民を救う公務員だ。 「ご、ごめん」 「んで謝んだよ、きめえな。どうせ風俗だろ」 「いや、付き合ってた女の子と……」  そこで言い淀み、俯いてしまう。何で恥ずかしがってんだよ、気色悪い。  苛立ちが込み上げ、俺は加賀谷のペニスを右手で強く握った。 「い、っ……」 「その女も、物好きだな」 「黒崎、くん……ッ、待って……あぁッ」  少し痛いだろうという力加減で、容赦なくごしごしと扱いてやる。強いくらいが堪らないのか、加賀谷はだらしなく開いた口から上擦った声を上げるが、喘ぎ声が恥ずかしいのか両手で口もとを押さえてしまう。 「加賀谷のくせに抑えてんじゃねえよ、情けねえ声聞かせろ」 「っふ、ぅ、……ん、んっ」  先端からはだらだらとカウパーが溢れ、滑りを良くさせる。ぐちゅぐちゅと淫らな水音を立てながら激しく責め立てると、加賀谷の開いた脚がガクガクと震え始めた。射精が近いことを悟った俺は、加賀谷のペニスからぱっと手を離す。  びしょびしょに濡れた、暴発寸前の勃起チンポ。ビクリと波打つそれに俺は顔を近づけ、完全に露出した亀頭を口の中に含んだ。 「あッ……え、う、うそ……っ」  戸惑いを含んだ情けない声が頭上に落ちてくる。いい気味、少しだけ気分が良い。  つるりとした先端を舌で舐めると苦い味がした。舐め取った先からすぐに滴が溢れ出てくるのを、絞り取るようにぢゅう、と吸ってやる。  無駄にデカくてあまり飲み込めない。亀頭だけを口の中で弄びながら、左手で根本を扱くと、びくっと竿が跳ねた。 「ぁ、う……黒崎くん、ッ……」  上目に見上げると、加賀谷は子どものように目をぎゅっと閉じて、手のやり場もどうしたらいいのかわからないのか、モスグリーンのソファに爪を立てて堪えている。こいつ、本当に経験あるのか? フェラくらいでこんなに動揺しやがって。その様子でどうやって童貞卒業したんだよ。 「…う、……あぁ、…んっ」 「……ふぅ、……ん」  加賀谷のカウパーで濡れた右手を、膝を突いて開いていた自分の股の間に通し、閉じた尻穴に触れた。穴の周りを解してから、濡れた指先をぐっと中へ押し込める。 「ん゛っ……」  最初だけの異物感に唸る。相変わらず頭上からは、抑えるなという命令を律儀に守る加賀谷の喘ぎ声が降ってくる。  口と左手で容赦なく加賀谷を責め立てながら、俺は狭い尻穴を広げた。東京から地元に帰ってきて以来、使っていない。東京でだって、体調に影響が出ないようにと試合直後の短いオフ期間しかセックスしていなかった。 「あぁ、ッ……ん、え、ええっ! 大河くん!?」  俺が自分の尻穴をほじっているのに気づいたのか、加賀谷は唐突に頓狂な声を上げた。その反応が鬱陶しくて睨み上げると、間抜け面の童顔が阿呆みたいに口を開けて、大きな目の縁をぎりぎりまで広げて俺を凝視している。 「っふ、ぅ……」 「な、な、何で、お尻なんか」 「……は、うっせえ」  わかんねえのかよ、と加賀谷の膨張しきったペニスを口から離し、俺は再びソファに縫いつけられた男の上にのしかかる。放り投げていたジーンズのポケットからコンドームを取り出し封を破った。 「ま、待ってよ大河くん、君、俺を、だ……犯す、つもりじゃなかったの」 「ああ? てめえは俺に掘られてえのかよ」  加賀谷の後ろの背もたれに腕を突き、萎えずにガチガチになったままのペニスの上に腰を落とす。押し潰すように尻の狭間に擦りつけてやると、童貞じゃないのに童貞くさい男は唖然とする。 「や、だって君、高校の時……さっきみたいに俺に、フェラ、無理矢理させたり、す……素股、したり、してたから。男役の方が、優位じゃないか」  高校を卒業して上京してから、自分はゲイなのだと気づいた。ゲイだったから同性である加賀谷と関係を持っていたのか、それとも加賀谷と関係を持っていたから自分をゲイと認識したのか、そもそも自分がゲイだということと加賀谷に関連はあるのかは、わからない。だって俺は、別にこいつが好きで「付き合ってやる」と言った訳じゃない。 「お前のフェラじゃ起たねえんだよ。それに突っ込む方が優位だって誰が決めたんだ。心配せずともケツで犯してやる」  ガチガチのペニスの上に素早くコンドームを被せる。  加賀谷の上に乗り上げていると、少しだけ俺の方が背が高くなる。見下ろした奴の顔は、あの頃のように緊張、怯え、そして欲望が浮かんでいる。 「だから黙って喘いでろ」  依然として萎えていないペニスを掴み、腰を落とす。自分で広げた後孔に、ぐぬ、と太い亀頭を押しつける。 「ぐ、っ……」  わかってはいたが、デカい。狭い入り口を精一杯広げて何とか受け入れる。一番太い亀頭が収まれば、あとは多少は楽だ。 「あ、……う、すごい……」 「っ……は、てめえの無意味なデカチンポ、入れてやったわ」  笑って見下ろした童顔は、だらしなく口を半開きにして、無駄に愛嬌のある目をとろんと溶けさせている。そのまま快楽に溺れて俺の下で鳴いてろ。  加賀谷の阿呆面を見逃さないよう凝視しながら、俺は激しく腰を振った。うねる肉壁で締めつけ、絡め取り、抽挿を繰り返す。 「っふ、ぁあ、……ッ大河、く……んっ」 「うるせえ……名前で呼ぶな」 「ごめ、っ……でも、ぉ、すごい、気持ちいい……ッ」  身体は出来上がっているのに、大きな垂れ目と小さな鼻のせいで年齢よりも幼く見える。居酒屋で女子どもはそれを可愛いとか言っていたが、冷静に見ると確かに可愛いのかもしれない。可愛い面が快楽に翻弄されて惚けているのもいい様だ。  こんな情けない姿を見られるのも、今ではきっと俺だけだ。 「あっ、ひあ……どう、しよう……いきそう……ッ」 「甲斐性ねえな、早漏か? 女抱く時もこんなアンアン喘いでんじゃねえだろうな」 「違う、よ……! 君の中、狭くて、柔らかくて、ぎゅうっと絡みついてくるから……んッ」  腹の中に埋まったものが、一層膨らんだ気がした。出し入れする度に、太い亀頭が内側の粘膜をごりごりと削って奥へと進む。まだ全部は収めていないが、それでも奴のペニスは深くまで届く。  快楽に潤んだ瞳で、加賀谷はうっとりと見上げてくる。奴の濡れた視線を受けると、胸に重いものがズクリと溜まっていく。 「ッ……」  俺はこいつを犯しているのだ。同窓会で見た、大人になった姿とは違う、あの頃のままの情けない加賀谷を確認したくて、醜態を引き出してやりたくて、酷い言葉で傷つけてやりたくて。  なのにまるで恋をしているような視線を向けるのだ。一度、俺を振ったくせに。 「ごめん、何か、俺、ばっかり……っ」 「あ? っ……馬鹿、触んな」  加賀谷の大きい掌が、動きに合わせて揺れるだけだった俺のペニスを包む。緩やかに勃起していたものの先端を、皮の厚い指先で撫でられると一瞬、息が詰まる。 「お前は何もすんな、俺が犯してんだ……ッ」 「でも、あんまり良くなさそう、だから……」 「ッん……!」  怒られて落ち込む子どものように言って、硬い掌で亀頭を包む。円を描くようにぐりぐりと強く擦られて、気張っていた内腿がガクガクと震えるのがわかる。視界がちかちかする。 「クソ、……離せ、って、ぇ」  俺のペニスを掴む両手を引き剥がそうと掴むが、びくともしない上に、力が入らない。 「嫌だよ……っ、俺だって、君を、気持ち良くしたい……」 「ああ!? 加賀谷の分際で、生意気なこと、言ってんじゃ……、ひっ」 「こっちも、感じる? ピンって、起ってるけど……」  べろり、熱い舌で乳首を舐められる。加賀谷の濡れた息が吹きかかるそこは、確かに芯を持って硬くなっている。認めたくはないが、性感帯のひとつである。  お前が、俺を気持ち良くする? 俺は嫌がるお前に乗っかって、無理矢理犯してるんだぞ。どういうつもりだ? それじゃまるで、合意の上のセックスだ。俺がお前を支配して蹂躙することはあっても、セックスすることは、ない。 「やめろ、って、ッ……あ、ア」 「やっぱりここ、気持ちいい……? っていうか、いきそう、なの? 中、びくびくしてきた……ッ」 「ふ、っざけんな、あ……! 誰が、お前の手、でぇ……ッ」  ぐり、先端の割れ目を指先で抉られて、痛いくらいに起ち上がった乳首に歯を立てられて、俺は息を飲んだ。喉から声が漏れないように。  精管を熱いものが駆け上がって、どくどくと迸る。爪先が引き攣るような衝動は途中で止められなくて、俺は加賀谷の手の中に射精していた。 「あっ、……俺も、いく……ッ!」  腹の中のペニスがどくんと脈打って、加賀谷が俺の胸元で喘ぐ。あ、あ、と上擦った声を上げて、すべて出しきるまで大きな身体を強張らせている。 「はぁ、あ……あ、すごい……」 「っ……ざけんなよ、てめえ……!」 「え? 痛っ……ちょ、っと、待って……!」  加賀谷の生乾きの前髪を掴んで引っ張ると、奴は苦痛に顔を歪める。 「黙ってろっつったろ……!」 「ごめん、っい、待って待って」 「何で、俺が、お前に……っ」 「ちょっと、落ち着いて……って!」 「……ッ!」  視界がぐるりと傾いたと思ったら、背中に柔らかい衝撃がある。ソファに倒れた俺の上に、加賀谷がのしかかってくる。まだ腹の中に奴のデカブツが入ったままだ。 「ごめん……」 「謝るんなら、するんじゃねえよ」 「うん……そう、だよね」  見下ろす加賀谷の表情は、打って変わって酷く思い詰めたように見えた。何に対して謝っているのか、わからなくなるほどに。 「俺を見下ろすな、どけ」 「……ごめん」 「……おい」 「君に謝らなきゃって、思ってたんだ、ずっと」  どけと言っているのに一向に動かず、俺の中に入ったままの加賀谷は、突然訳のわからないことを話し始める。 「てめえのごめんは聞き飽きたんだよ。今度は何に謝るんだ」 「あの時……君を傷つけたこと」  哀れむように眉尻を下げた加賀谷の表情に、はっとした。  いつのことを、言っている? 「君に、別れて欲しいって言った時のこと」  俺は唖然と見上げた。堂々とのたまう加賀谷の顔を。  謝るだと? どうして謝罪が必要だと? お前が、俺を傷つけただと? 「言葉を間違ったと思った。君の顔を見て……」 「お前は俺が傷ついたと思ったのか? 俺が、傷ついたと言ったか? 自惚れんな、お前のことはからかって遊んでたんだよ。俺は本気でお前と付き合ってたと思うか。それもわかんねえのかよ」 「傷ついたと、思ったよ」 「お前ごときが、俺を傷つけられる訳ねえだろうが」 「なら何で、泣きそうな顔してたの」 「は――」 「今も、そうだよ」  俺がどんな顔してるって? こけにするのも大概にしろ。  そう言ってやりたかった。言う前に加賀谷の顔が近づいて、濡れた唇に柔らかいものが触れた。 「んっ……」 「大河、くん」 「っふ、ん、……ん」  こいつマジでどういうつもりだ。殺されたいのか。  加賀谷の歯が俺の下唇を柔らかく噛んで、舌でべろりと舐める。歯列を割って入って、奴の熱く濡れた舌が上顎を舐め、俺の舌を絡めとる。ぢゅう、と強く吸われて身体の奥が痺れた。  キスだけは一丁前だ。少し呼吸が苦しくなってきて、覆い被さる男の胸を押しやる。だが加賀谷は俺の中に入れた、一度射精して萎れたペニスを緩やかに動かし始めた。しかも、徐々に硬度を取り戻していく。  我慢ならず、肩を思いきり殴って身体を離させた。 「っ……俺を哀れむんじゃねえよ!」 「哀れんでなんかないよ。俺は君が好きで、好きだから、心配してるんだ」  突拍子もない言葉に、言葉を失った。 「は……?」 「君の傍で、君の傷を癒したい」  とても理解しがたい言葉。沸々と憤りが湧いてくる。 「どの口が好きだとか抜かしてんだ……気でも狂ったのか。てめえが俺を振ったんだぞ」 「うん、わかってるよ」 「そもそも、好きになるとかありえねえ。マゾか? 俺にされたこと忘れたのか?」 「忘れてないよ。中学まで君は俺を苛めてたし、高校でも俺を玩具にして遊んでた」  自覚がある上で好きだと抜かすようなら、いよいよ頭がおかしくなったとしか思えない。一体どういう思考回路をしているんだ? 「高校卒業した後も……東京での活躍をずっと応援してた。辞めたって聞いて、自分のことみたいにショックだった」 「何で、そんな風に思えるんだよ」 「俺と違って何でも器用にできて、自信家の大河くんにずっと憧れてた。君が何でもできちゃうのも、本当は努力してるからだって知ってた」 「……俺を知ったような口ぶりだな。クソ腹立つ」 「知ってるよ。小さい頃からずっと一緒で、ずっと見てきたんだから。俺よりもすごい君が、俺なんかに構ってくれるのが、とても嬉しかった」 「んだそれ、きめえ……」 「否定しないで聞いてよ。別れて欲しいって言ったのは、あの関係にうんざりしたからなんだ」  好きだとか抜かしたり、うんざりだとか言ったり、一体何を伝えたいのか俺には理解できないことばかりだ。 「こんな関係は間違ってるって思ったからだ。俺は君の玩具でいたいんじゃない……」  何もかも理解できない。わからなくて、苛々する。たかが加賀谷の分際で俺を酷く腹立たせる。生意気にも俺の心に強引に立ち入って、感情を掻き乱す。 「俺は君の恋人になりたい」  加賀谷のくせに。  そんなこと、許される訳が。 「……大河くん?」  ――許される訳がないのに。  このもやもやが、苛立ちが何に起因するのか、俺は気づいてしまっている。諦めた夢への未練か。加賀谷の成長に対する劣等感か。そのいずれでもない。  沈黙する俺に、加賀谷は不安そうに幼い表情を曇らせる。 「あの……」  堂々と熱弁したくせに何だその情けない面は。 「黙れ……抜け」  思ったよりも低い声が出て、唸り声のようになった。加賀谷が大人しく腰を引くと俺の中に埋まっていた、中途半端に勃起したペニスが抜け出ていく。俺は両腕で顔を覆いながら、ずるずると抜けていく感覚に身を硬くしていた。 「ご、めん……やっぱり、嫌だよね。俺に好かれたって、気持ち悪いよね」 「……じゃねえ」 「え?」  自信なさげに聞き返す、細い声。どれだけ情けない表情をしているかは、生憎見えない。 「嫌じゃねえって言ってんだよ。勝手に決めつけんな」  他人の感情を理解したように喋りやがって。俺が傷ついたとか、嫌がってるとか、勝手に推し測ってんじゃねえよ。  頭上で、息を吸い込む音がした。 「じゃあ……好きってこと?」 「好きとも言ってねえだろ」 「ご、ごめん」 「いちいち謝んじゃねえよ、うざってえ」 「ごめん……あっ」  舌打ちをして、顔を覆っていた腕を退けると、両眉を逆八の字にしてぶるぶると唇を噛む男の顔が見えた。 「付き合ってやる」  水分の膜が張った大きな目を精一杯見開いて、加賀谷は震える唇を開いた。クソ情けない顔。 「……え?」 「聞こえなかったのかよ」 「……いいの?」 「てめえで言ったんだろ」 「そうだけど、あの、本当に?」 「疑ってんのかよ。言っとくけど、高校の時と同じ『付き合ってやる』じゃねえからな」 「うん……」 「お前の恋人になってやるよ。せいぜい頑張って俺に尽くせ」  泣いて感謝しろ。そう口にすると同時に、頭上からぽたりぽたりと生温かい滴が頬に落ちてきた。 「お前は本当に昔からずっと泣き虫だな」 「うん……直すよ」 「別に直さなくてもいいわ」  俺の前だけでは、泣き虫で情けない加賀谷涼太のままでいればいいんだよ。その面を一番近くで見ていられるのなら、恋人っていうのも悪くはない。  スマホのバイブ音で目が覚めた。耳元で鳴る振動が不愉快で、低く唸りながらそれを手に取る。肩に巻きついてくる長い腕を払いながら、光る液晶画面をタップする。眩しい。 「はい黒崎……」 『おー加賀谷、朝っぱらから悪い……って、あれ?』  眠くて頭はぼうっとしているが、スマホから聞こえてくる声が昨夜同窓会で一緒に飲んだ男のものだということはわかった。 「……五十嵐か? てめえ誰に間違ってかけてんだ」  唸るように出した声は、酷く掠れていた。酒を飲み過ぎた名残か……いや、加賀谷のせいか。 『これ加賀谷の番号だよな? ……うん、そうだよな』 「……」  一瞬の間を置いて、耳からスマホを離す。薄目を抉じ開けてよく見れば、確かに俺のじゃない。 『何で加賀谷のスマホに黒崎が出てんだ? あ、もしかして加賀谷ん家に泊まったのか~確かにお前ん実家遠いもんな。……いや、え!? よくお前泊まったな? 昨日あんな険悪だったのに!?』  容赦ない爆音で流れ込む声に、思いきり顔を顰める。 「……うっせえ朝から叫ぶな」 『悪い、加賀谷にお前のこと家まで頼んだの俺だけど、びっくりしちまって……。お前さ、昨日居酒屋にスマホ忘れてったんだよ。一次会解散したあと俺んとこに店から連絡あって取り行ったんだわ』 「……おう」 『届けてえんだけど俺昼から仕事でさ~、加賀谷に渡して黒崎家に届けてもらおうと思ったんだけど、お前出たからちょうど良かったわ。これから……』 「大河くん、誰と喋ってんの~……」  隣でもぞもぞと蠢く物体が、眠たげな声を出す。薄いタオルケットの下で、素っ裸の腹に腕が回ってくる。 「お前のスマホだわ……ぐえっ絞めんな!」 『加賀谷そこにいんの?』 「ああ……」 「もう一回えっちしようよ……俺今日休みだし……」 「うっせえ離れろクソ」  肘でど突いてやってもぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。こいつ、寝惚けてんな。目も開いてねえ。 「キスしてくれたら離れる~……」 『黒崎……なんかすげえ単語聞こえたんだけど聞き間違いか?』 「……切る」 『えっスマホは!?』  光る赤電話ボタンをタップして、加賀谷のスマホを放った。  うー、うー、とよくわからない呻きを上げながらべたべたと触ってくる男に向き合い、細い鼻先をひっ叩いてやる。 「うっ、痛い……」 「このくらいで喚いてたら俺の恋人なんて務まんねえからな」  鼻先を押さえ涙目になった加賀谷が、今度は笑みを堪えるように大きな目に力を込めて口を硬く引き結ぶ。俺はその震える唇に、乱暴にキスをしてやった。

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