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第10話 訣別

 すんでのところで俺達の関係性は保たれた。絶妙な均衡の上に成り立つ危うい日常を取り戻したのも束の間、俺達はまた性懲りもなくやり合ってしまう。    放課後、准一に久しぶりに呼び出されて地歴準備室へ行ったら、開口一番に「もう来るな」と言われた。態度で示すだけではなく、はっきりと言葉にされた。変なものでも食ったのだろうかと訝ったが、准一におかしな様子はない。  年明けからこっち、准一の仕事が忙しくて学校では会わなかったが、家に帰れば毎晩飽きずに俺を抱いていたくせに、急に何を言い出すのだろう。そこにある継ぎ接ぎだらけの薄汚れたソファでだって数え切れないくらい寝たっていうのに、今さら何を言い出すのだろう。 「……もういっぺん言ってみろ」 「だから、もう来るなよ。この教室にも、オレのアパートにも。二度と顔見せんなっつってんの。絢瀬くん、もしかして耳遠いの? まだ若いのに」  茶化すような調子で、わざと挑発めいたことを言う。 「信じられないって顔してんね」 「してねぇ」 「してるね。お前、先生に結構気ぃ許してたでしょ。飼い馴らされた野良猫みてぇに」  がらんとした教室に、准一の声だけが重く響く。冬の太陽はすっかり沈み、もはや西日も入らない。窓は開いているのに室内はどんよりと暗く、互いの表情すら確認できない。 「逆にさ、なんで来るわけ? 先生、別に強制はしてないじゃん。なんで来るの? 来るなよ」 「てめぇ、言ってることがめちゃくちゃだ。自分から手出しといて、勝手なこと言うんじゃねぇ」  窓の敷居に置いてある灰皿へと目が行く。学校だっていうのに、吸殻が山のように積んである。どれだけ寿命を縮めれば気が済むのだろう。窓際で偉そうにふんぞり返っている准一の唇にも新しい煙草が一本挟んであって、細い煙が立ち昇っている。最近、目に見えて喫煙量が増えた。 「絢瀬のために言ってるんだよ。そろそろ先生離れした方がいいんじゃないかと思うんだよね。クラスで友達作るとか、部活入るとか、何でもいいけどさ、お前はもっと健全な付き合いを学ぶべきだと思うんだよ。いつまでも先生なんかとつるんでたってしょうがないでしょ。はっきり言って異常だよ」  長々とそれらしい理屈を捏ねてはいるが、結局のところ体よく俺を捨てたいだけなのだ。嫌いになったなら嫌いになったと、飽きたなら飽きたとはっきり言えばいいものを、わざわざ理由をつけて体裁を保とうとしていることに腹が立った。 「……散々好き勝手しておいて、今さらそんなこと言うのか」 「言うね。わがままはやめて両親と仲直りして、同年代の友達でも恋人でも作って真っ当に暮らせよ。先生に頼るのはもう終わりにしなさい。それが将来のためだよ」 「だったらまた元の生活に戻るだけだ。実家に戻るくらいならウリやってる方がなんぼかマシだぜ。アンタの代わりに別のパトロンを探すってのも――」  突然、横っ面に重く鋭い衝撃が走った。准一の咥え煙草から灰が零れ落ちる光景が、スローモーションのようにゆっくりと映った。平衡感覚がおかしくなり、ふらふらと床にへたり込む。口の中にじわりと血の味が広がる。頬を思い切り殴られたのだと気づいたのは、少し時間が経ってからだった。 「てめぇ、やっぱり最低な教師だ」 「そうだよ。オレは最低な教師だ。そんなの、出会った時からわかってたろ」  准一は冷たい眼差しを向け、乾いた笑いを漏らす。 「オレは心底クソな大人だ。お前だって馬鹿なガキだ。散々痛い目みて、手首にゃいっつも痣作って、こないだなんか殺されかけたくせに、なんでいつまでも逃げようとしねぇの」  聞いているこっちが切なくなるような声。この間と同じだ。どうしてだろう。頬を張られて膝をついているのは俺の方なのに。 「オレはお前の弱みに付け込んで、騙して、一方的に利用してただけだ。オレは悪い大人で、犯罪者で、お前は可哀想な被害者なの。わかる? そんなことにも気づかないでオレに縋りついて、おめーはホントに、憐れだよ」  最後の一言が胸を衝く。心臓を直接掴まれたみたいに、胸がしくしく痛んだ。こいつはやっぱり最低な男だ。偽善者だ。やっぱり大人なんてろくでもない。昨晩優しく抱きしめた腕で、今夜は冷たく突き放す。とことん遠くまで突き放す。そこには罪悪感の欠片もない。 「……そうかよ。だったら、出てってやらぁ。てめぇの面なんか二度と見たくもねぇ」  大ッ嫌いだと叫んで、教室を飛び出した。    太陽の残滓と夜の暗闇とが混ざり合わずにとぐろを巻いている、禍々しい空模様だ。涙を湛えて走る俺を見て人々は後ろ指をさしただろうが、脇目も振らず坂を駆け下りる。凍てつく風が頬を切り、濡れた瞳を乾かした。どこか遠くへ行ってしまいたい。  宵闇の歓楽街は、まさに昼と夜の境目にある。ぽつりぽつりと点灯し始めたネオンはぼんやりしていて頼りなく、怪しげなキャッチセールスの影も薄い。学校から直接来てしまったから、ロングコートのボタンをしっかりと留め、マフラーをきつく結び直した。  数時間は過ぎただろうか。空腹に耐えかねコンビニで唐揚げを買ったが何とも味気なく、まるで砂を噛んでいるようだったので捨ててしまった。代わりにホットコーヒーを舐めながら、道端に立ち尽くしている。  いつのまにか空は真っ黒に塗り潰され、街は俺のよく知る様相を呈していた。煌々と輝くネオンに誘われ、どこからか湧いて出た人々が、まるで蛾のように群がっている。飲み屋のキャッチと風俗の客引きと、その他大勢の雑踏とで街が埋め尽くされている。 「お兄さァん、何してるの? 誰かと待ち合わせ?」  不意に声をかけられ、スマホから顔を上げる。いかにも軟派な雰囲気の若い男が三人、こちらを見下ろしていた。左から順に、金髪、ロン毛、三人目は鼻にピアスを開けている。 「……違いますけど」 「あー、そんなに警戒しないで、ね? 気楽に行こうよ」 「お兄さんすごくかっこいいなぁと思って」 「オレら、これから遊び行くんだけど、よかったら一緒にどうスか」  時間帯からして二次会だろうか。男達は既に酔っ払っている様子だった。 「人数は多い方が楽しいからさ。 全然奢るし」 「もしかして高校生かな? だったら駅まで送るけど」 「……高校生じゃないんで。いいですよ、行きましょうよ」  気分が荒んで、やけっぱちになっていた。全てがどうでもいいので誘いを断ることすら億劫で、流されるままに男達の後をついていった。  大通りから一本外れた細い路地に建つ、とある雑居ビルの八階にその店はあった。エントランスは狭いしエレベーターには煙草の臭いが染み付いていたが、店内は広々として綺麗だった。  いわゆるバーなのだが、娯楽も楽しめる場所らしい。紫色の照明にビリヤード台やダーツボードが照らされている。耳障りな音楽の流れる中、人々はグラスを片手に遊んだり喋ったりしている。  ダーツボードのある半個室へ通されると、ロン毛の男が早速メニュー表を開いて俺に尋ねてくる。 「遠慮しないで好きなもの頼みなよ。ビール飲める?」 「ビール?」 「大学生なんでしょ。せっかくだから飲もうよ」  控えめにうなずいた。マフラーは解いたが決してコートは脱げないなと思い、一番上のボタンが留まっていることを確認した。注文を取ってすぐに、店員がジョッキを運んでくる。  ビールと言えば准一を思い出す。いや、ビールより焼酎だろうか。一緒に飲んだことはないし、飲もうと思ったこともない。あいつも今頃、あの小部屋で酒をあおっているのだろうか。と、そこまで考えて首を振る。准一のことなんか思い出してどうするのだ。俺は握りしめていたビールジョッキを傾け、思い切って喉の奥まで黄色い液体を流し込んだ。 「うぇ」  初めて口にした酒の味は、とにかくまずい。苦いというか青臭いというか、独特の風味がある。炭酸が舌の表面に纏わりついて、しばらく俺を悩ませた。好んでこんなものを飲むやつらの気が知れない。 「あ、実はアルコール慣れてない? ビール苦手だった?」  慣れていないと思われるのが癪で、もう一口がんばってみた。が、やっぱりまずいものはまずい。苦虫を噛み潰したような面をしているであろう俺を見て、男達は笑った。 「いいよいいよ、無理しないで。代わりに飲んであげるから」  ビールでなく、甘いカクテルなら結構飲めた。見た目にはオレンジジュースなのに、オレンジジュースを薄めたみたいな味がして、それなら普通にオレンジジュースを飲む方がマシだと思った。ウイスキーやワインはビール以上に酒臭くて飲めたものじゃなかった。  一応ダーツにも挑戦してみる。やるのは初めてだった。手取り足取り教えられ、そこそこ当たるようになった。点が入るとやたらとおだてられ、外すと罰ゲームと称して酒を飲ませられた。 「凪くんさぁ、その、左のほっぺたどうしたの?」  疲れて休んでいると、金髪の男が親しげに話しかけてくる。他二人はダーツに夢中だ。  頬に触れてみると、軽い火傷みたいにちりちり痛んだ。気が紛れたせいで忘れかけていたが、准一に殴られた箇所が腫れてきている。 「暗くて気づかなかったけど、こうやって近くで見ると、ちょっと赤くなっちゃってるよ。怪我した?」 「……殴られた」 「えーっ、かわいそうに。誰にやられたの、彼氏?」  こくんとうなずく。 「酷い彼氏だね。こんなかわいい顔に傷付けるなんて。別れちゃいなよ」 「ん……別に、付き合ってない」 「そーなんだ。じゃあオレ、彼氏に立候補しちゃおっかな」 「……でも俺、あいつが好きだから……」 「凪くんのこと殴るのに? そんなやつろくでもないよ。やめときなって」 「でも……」  さっきから口を滑らせてばかりいる気がする。明らかに自制心が緩み、判断力が鈍ってきている。頭がぼーっとして、まぶたが重たい。夢か現かも判然としない。これが酔っ払うという感覚なのだろうか。セックスと似ていると思った。  体がふわふわ、足元はふらふらして覚束ない。不安も憂いもどこかへ吹っ飛んでしまって、何もかもがどうでもいいやっていう気持ちになる。虚無だ。視界がぼやけて、手に持ったグラスが分裂して見える。  准一も、嫌なことを無理やり忘れるために酒を飲んでいたのだろうか。狭い小部屋で一人、大きな背中を小さく丸め、ダーツの代わりに煙草を手にして、寂しく飲んでいたのだろうか。もしかしたら、今もそうしているのだろうか。 「どーしたの、急に泣いたりして。彼氏のことでも思い出した?」 「……うん」 「そっかそっか、クズ男がタイプかぁ」 「でも、あいつは俺のこと、嫌いって言うし……俺も、嫌いって言っちゃったし……」 「うんうん、凪くんは泣き上戸なんだね。ほら、もっと飲んですっきりしちゃいなよ」  自覚はなかったが、俺は今泣いているらしい。ロン毛と鼻ピアスもテーブルに戻ってくる。肩を抱かれ、頭を撫でられ、他にもあちこち触られた気がしたが、それを咎める気にもならない。急激な眠気に襲われ、俺はいつのまにか意識を手放していた。

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