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【9】

 静まり返った廊下の突き当たりの部屋の前で足を止めた貴滉は、落ち着いた木目調のドアの前で深く息を吸い込んだ。  金色のプレートに書かれたルームナンバー『七〇一八』を、手にしたスマートフォンに表示させたメッセージと何度も見比べる。このドアの向こう側に真吏がいると思うだけで心臓が高鳴る。  たった一人のことを想い、切に会いたいと願う。こんなことは今まで一度もなかった。  寝ても覚めても真吏の顔が浮かび、仕事にも集中することが出来ずにいた。  貴滉を不安にさせていた『最悪な結果』は回避された。その瞬間、膝の力が抜けて立っていることもままならなかった。胸につかえていたものがスーッと消えていき、心なしか体が軽くなるような気がした。  何度か深呼吸を繰り返したのち、ドアを控えめにノックするとしばらくしてロックが解除される音が聞こえた。細く開かれたドアの隙間を覗き込むように目を細めた貴滉の前には、カーテンを閉め切った暗い部屋の中に佇む真吏の姿があった。  いてもたってもいられずにドアハンドルを掴み部屋の中に体を滑り込ませた貴滉は、眩しい物でも見るような目で見つめる真吏のそばに歩み寄った。 「――よかった」  俯いたまま腹の底に溜まった澱を吐き出すように呟いた貴滉に、彼は力なく笑った。 「自殺……すると思った?」  張りのない弱々しい声が頭上から落ちてくる。もしかしたら自分の目の前にいる彼は幻想で、貴滉の妄想が弱々しい彼の姿を見せているのではないかと思った。それほど、今の真吏には覇気が感じられない。  恐る恐る顔を上げ、すぐそばにある彼をもう一度見つめ直す。  金色の髪は乱れ、顔色もあまりよくない。艶やかだった唇はひび割れ、端正な顔には疲労の表情が浮かんでいた。  着ているシャツも皺だらけで、ボタンも胸元まで開いている。細身のパンツに裸足という出で立ちの彼に、貴滉は思わずその人の名を声に出していた。 「真吏さん……」  わずかに目を見開いた貴滉に、彼は自嘲気味に唇を歪めた。 「まるで、幽霊でも見たような顔だな。まあ、あながち間違ってはいない」 「――どういうことなんですか。社長を退任するなんて聞いてないっ」  連日、自宅マンションに押しかけるマスコミに辟易した真吏は、郊外にあるホテルに滞在していた。もちろん、彼がここにいることを知っているのは浅香とホテル関係者だけ。彼の両親は息子のニュースを目にしても、たいして驚くことはなかった。幼い頃から問題ばかりを起こし、家から追い出された真吏。彼らにとって、真吏のそういった行動は日常的なものであり、時間が経てばフラリと戻ってくると思っている。それに、彼が起こした問題に介入すれば漆原興産のイメージも悪くなる。自分たちの保身のために真吏との接触は極力避け、深く干渉しないのが常だった。  そう広くはない、スタンダードなシングルルーム。ただ、ベッドはゆとりのある大きさで、一人で泊まるには十分だ。大手IT企業社長である真吏が長期間身を隠すにしては少々貧疎で、至ってシンプルな間取りの部屋だ。スイートルームとまでいかなくても、社長としての権威を示すために、せめてエグゼクティブクラスの部屋にいて欲しかった。だが、あえて都心ではなく郊外のホテルを選んだことからも、今の彼の状況を読み取るには十分だった。  ナイトテーブルに置かれたランプの明かりは極限まで落とされ、フットライトがなければベッドに躓いていただろう。  ベッドの端に足を組んで腰かけた真吏は、乱れたシーツの上にあった煙草のパッケージを引寄せると、慣れた手つきで唇に咥え火をつけた。薄闇の中で細く白い煙がゆらりと揺らいだ。その頼りない動きは真吏自身を表しているようで貴滉は目を逸らした。 「煙草、吸うんですね?」 「あぁ……時々ね」 「見たことなかったから、ちょっと驚きました」  会話が途切れるたびに訪れる沈黙が嫌だった。貴滉は、真吏の前に立つとそっと手を伸ばして彼の頬に触れた。  煙草を咥えたまま少し驚いたような顔で貴滉を見上げた真吏は、吸殻が積み上がった灰皿を指で引寄せながら言った。 「――ヴァーチャルじゃない。本物の俺だよ」  初めて食事に行ったとき、彼は貴滉の事をそう言った。思い描いていた人物が現実の世界にいる。逢いたいと願う想いが見せる幻覚とは違う、そこには温かな肌の感触があった。  まだ長い煙草を数回ふかしてから灰皿に押し付けた真吏は、貴滉の手に自身の手を重ねた。 「俺に言いたいことがあるんだろ?」  長い睫毛に縁取られた淡褐色の瞳が少ない光源の中で緑がかって見える。まるで、牢獄に繋がれた一国の王のように凛々しくありながらも、悲哀を含んだ表情に胸が苦しくなる。  貴滉はもう片方の手で彼の髪に触れ、ガッシリとした肩にそれを滑らせると、自身の体重をかけて真吏をベッドに押し倒した。抵抗する様子はまったく見受けられない。貴滉に組み敷かれ、金色の髪をシーツに散らした彼は何かに挑むかのようにわずかに目を細めた。 「――あります。いっぱい……ありますっ」  真吏を真上から見下ろしながら、貴滉は声を震わせた。何から切り出していいか分からない。でも、言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。ベッドに両手をついたまま項垂れ、暫くの間動くこともせずに頭の中を整理した。  長い沈黙を破ったのは真吏の方だった。 「俺も――ある。お前に聞いてもらいたいこと……いっぱいある」 「え?」  顔を上げた瞬間、真吏と視線がぶつかる。その目尻に光るものを見つけ貴滉は息を呑んだ。 「――死ななくて良かった。リアルなお前の顔、見れたから……」 「し……んり、さん?」 「マンションの部屋に一人でいるのが辛くてさ……。真夜中にインターホン鳴らす奴とか、俺が出るまでケータイ鳴らして、いざ出ると無言で切る奴とかさ……やってることが幼稚なんだよ。ドアにスプレーで『クズ』って書かれたり、頼んでもいない特上寿司三十人前が届いたり……。少し前までは平気でいられた。俺って意外と有名人なんだって……変な優越感に浸ってみたり。でも、さすがに藍吏の事を出されると何も言えなくなるよな……。過去の事件記事を探してきてリンク貼ったり、ホントは美紅を寝取ってたんじゃないかって勘繰られたり……『兄を見殺しにしたクズ』とか……。お前ら、その場にいたのか? あの現場を見ていたのか?――って言いたいよ。嘘も事実もごちゃ混ぜで、何が真実なのか誰も分からないし、分かろうとしない。ちょっと凹んだ俺にアイツらがさらに圧力をかけるんだ。『藍吏と同じことが出来ないなら目の前から消えて』とか『会社の信用を落とすようなら傘下から外す。クズはクズらしく勝手に死ね』って。血の繋がった両親にそんなこと言われたら、俺の存在って一体なんだったんだろう……」 「……」 「――って、生まれた時から言われ続けてきたから、もう慣れっこになっていたと思ったんだけどな。さすがにこのタイミングで言われるのは堪える。今更、傷つくとか……おかしいだろ。部屋のドアを叩く音、マスコミの記者の怒声、近所からの苦情……もう、うんざりだ。だから、あの部屋から逃げた。今度こそ一人になりたくて……。そしたらさ、悪い事しか考えられなくなって。ここの屋上から飛び降りようか……とか、風呂場で手首切ってみようか……とか、ドアハンドルにタオル掛けて首吊ろうか……とかさ。でも、いざそれを実行しようとすると、お前の顔が浮かんで……。超~真面目な顔でこう言うんだよ……」  不意に言葉を切った真吏は手を伸ばすと、貴滉の栗色の髪をクシャリと撫でた。一言も聞き逃すまいと耳を澄ましていた貴滉の鼓膜を震わせる彼の嗚咽。必死で堪えているのか、肩が小刻みに震えていた。 「――永遠に、クズのままでいいんですか?」  貴滉がそう言うと、淡々と語る真吏の目尻に溜まっていた滴がつっと頬を伝った。クラブで貴滉を弄った時に見た涙よりも透明で清らかに見えたのは、真吏の心を覆っていた闇が消え始めていたせいだろう。  今まで誰にも言えなかった自身の弱さ。両親への憎しみをバネに強い自分を装い、虚勢を張り続けていた日々。世間に何を言われてもかまわない。自由に、自分が思ったことをやればいい――それが、両親に支配され身動きが出来なくなっていた兄、藍吏との約束だった。  過剰な期待、将来の重圧、何でも出来て当たり前……それがα性だから。  藍吏は自分が出来ない事を弟の真吏に託していた。きっと、誰に咎められることなく好きなことが出来る、自由を手に入れた弟を羨ましく思っていたに違いない。だから、真吏にイベント企画会社との共同開発を促したのだろう。 「真吏さん……。あなたはIT企業の社長なんですよ。SNSの書き込みぐらい何とかするのが、あなたの仕事じゃないんですか?」 「貴滉……」 「嘘なら嘘だと、その書き込みを逆手にとってSNSで拡散すればいい。あなたはその利用価値を一番よく知っている……そうでしょ? 誹謗中傷を書かれたら、その何倍も何十倍も社会のためになることをすればいい。これって、藍吏さんがあなたに科した試練だと思うんです。自分が生きてたら弟が注目されることはなく、存在すらも否定され続ける。でも、今この世界にいるのは真吏さんだけなんです。これを乗り越えたあなたの事をきっと自慢するでしょうね……天国で」  そう言って微笑んだ貴滉は、身を屈めて真吏の涙で濡れた唇を塞いだ。煙草の苦みと涙のしょっぱさが口内に広がる。それと同時に、真吏の弱さが体の中に流れ込んでくるようでギュッと眉を寄せた。  自分からキスを仕掛けたことなど数えるほどしかない。衝動的な行動だったとはいえどうしていいか分からない。それでも必死に舌を絡ませて彼の口腔を愛撫した。浅ましい気持ちを抑えながら出来るだけ優しく、彼の昂ぶった気持ちを静めるように……。  そうしているうちに、自然と自身の気持ちも落ち着き始めた。しかし、息苦しさに離れようようとした貴滉の背中に手を回した真吏は、体を引寄せるように強く抱きしめ、なおも激しく唇を重ねてきた。  息が詰まるような狭い車内でのキスとは違う。広いベッドで重なり合ったまま交わされるキスは、まるで大草原の真ん中で爽やかな夜風に包まれているような気持ちになってくる。  優しく触れて、激しく吸い合って、そしてまた慈しむように啄んで……。  時折漏れてしまう吐息と水音が、薄闇に淫靡な空気を纏わせる。でも、貴滉も真吏も身に付けている服を脱ぐことはなかった。性的衝動に駆られることなく、少しずつ互いを知り合い、その想いを深めていく。 「――貴滉。今夜一晩でいい。俺のそばにいてくれないか」  ベッドに横たわったまま掠れた声で囁いた真吏に、貴滉は力強く頷いた。 「真吏さんがこれ以上変な気を起こさないように見張っていなきゃ……。今夜も眠れないな」 「今夜も?」 「心配で眠れなかった……。イヤなことばっかり考えて……。――あ、すみません! 俺……そういうつもりで言ったわけじゃないですからっ」  真吏は貴滉と恋人関係になるつもりはない。こんなことを言ったら、彼にプレッシャーをかけることになるだろうと慌てて付け加えた。  今はまだ恋人未満の友人の願いを聞き入れるだけなのだ。自分がそばにいるだけで彼が元気になれるのなら、ずっとそうしていても構わない。 「真吏さんの中にあるモヤモヤしたもの、この際全部吐き出して下さい。俺は聞いてあげることしか出来ないけど……。役に立たないリーマンですみません」 「十分だ……」 クスッと肩を揺らして笑った真吏は、長い指で貴滉の前髪を梳きながら続けた。 「お前だっていろいろ我慢してる。俺だけが一方的に負担を掛けるわけにはいかない。この際だ。お前も全部ぶちまけろ。――聞いてやるから。お前が抱えているもの……全部」 「真吏さん……」 「――あのさ。藍吏が息を引き取る寸前に俺の方を見て笑ったんだ。それって……こういう意味だったんだな」 「こういう意味?」 「あ、いや……。何でもない」  真吏の長い指が貴滉の指を絡め取るようにして、しっかりと握りしめる。  貴滉はすぐそばで真吏の息遣いを感じ、ずっと激しく高鳴っている心臓の鼓動を気付かれやしまいかとヒヤヒヤしていた。でも、彼の胸元に顔を埋めた瞬間、自分と同じ心臓の鼓動を感じてホッと肩の力を抜いた。  微かに香るムスクと彼の汗がα性特有のフェロモンと混じり合い、何とも心地いい香りに包まれる。どんなアロマよりも癒されるそれを肺一杯に吸い込みながら、貴滉はゆっくりと目を閉じた。  ***** 「あぁ……。さすがにこんな皺だらけじゃマズイですよね?」  苦笑いを浮かべながら床に落ちた上着を拾い上げた貴滉は少し照れくさそうに言った。  夜が明ける少し前に目を覚ました貴滉は、今日がまだ出勤日であることに溜め息をついた。もしも週末であったなら真吏と一緒にいたに違いない。  昨夜はいろんな話をした。先日の車内での重苦しい会話とは違い、笑いがこぼれるほど和やかでゆったりとした時間を過ごした。疲れたら眠り、微睡の中でキスをし、そして手を繋いだ。  貴滉にとって、これほどの幸福感を味わったことは今までなかった。満ち足りた時間がずっと続けばいいと思った。しかし、現実は非情だ。  このホテルからタクシーを使えば自分のマンションまでは一時間くらいだ。。これから出れば、着替えてシャワーを浴びてから出勤するくらいの余裕はある。  ベッドの上で上体を起し片膝を立てて貴滉を見る真吏に、昨夜までの険しい様相は窺えない。すっかり毒気を抜かれたかのように穏やかで素のままの彼がそこにいた。 「休んじゃえば?」  ニヤリと意地悪げに笑う彼に大袈裟なため息で応えた貴滉は、皺だらけになった上着の袖に手を通しながら言った。 「そういうわけにもいかないんですよ。今、ちょっと忙しくて」 「真面目だな、お前は……。俺だったら喜んで休んじゃう」  ギシッとベッドを軋ませて下りた真吏は、貴滉の細い腰を後ろから抱き寄せるとうなじに顔を埋めた。彼の息が襟足を擽り「ひゃっ」と小さく声をあげると、真吏はより強く鼻先を押し付けた。 「真吏さんっ」 「――いい匂いがする。お前の匂い、好きだ……」 「え?」  まるで逢瀬を楽しんだ恋人が名残惜しさに何かを強請るような真吏の仕草に、貴滉は戸惑いながら身を捩った。  貴滉が押せばスッと身を引き、想いを抑えこんで拒めば猫のようにじゃれついてくる。彼の思わせぶりな態度は貴滉を苦しませるだけだった。  それなのに、体の奥の方でゾクゾクとする疼きが生まれている。互いの洋服を通して感じる熱が貴滉の肌にジワリと沁み込み、それが徐々に大きなものとなって体中に広がっていく。臍のあたりでしっかりと組み合わされた彼の長い指に手を掛け、それを解こうと試みるがさらにギュッと力を込め離れないようにする。 「真吏さんっ。手を離して……ください」  困惑しながらも背後の真吏に声をかけた貴滉は、うなじに微かな痛みを感じて大きく目を見開いた。  番になるための――儀式。 「いやっ! 真吏さん、離してっ」  咄嗟に体を大きく捩り、真吏の体を突き放した貴滉は肩で息を繰り返しながら向き直った。痛みを感じたうなじをそっと指先で触れ体を小刻みに震わせた。  幸い傷にはなっていないようだ。おそらく、真吏は自身の犬歯を押し当てただけだろう。 「――こんなのって、酷い」 「貴滉?」 「俺……また、勘違いする。真吏さんに迷惑かけることになる……」  自身の想いが爆発しそうで怖かった。こんなにも誰かの事を想い、苦しむ……。それに耐えきれなくなった時、自身がどうなってしまうのか分からない不安が貴滉を圧し潰していた。  真吏の緑がかった綺麗な瞳から目を逸らし二の腕を強く掴む。爪が深く食い込むのが分かったが、その痛みでこの苦しみを誤魔化すことが出来るのならば、いっそ血が流れてもいいと思った。しかし、その手を大きな手がそっと制した。 「迷惑じゃない――」  警戒して強張る貴滉の肩を抱き寄せた真吏は、宥めるように背中を何度も擦った。貴滉は息を呑んだまま、すぐそばにある彼の肩口に額を押し当てた。 「どうして……そういうこと、言うんですか」  恋人という境界(ボーダー)を越えられない辛さを味わうのは、いつでも想いが大きい方だ。  そして、心に負う傷もより深く長引く。  真吏の優しい言葉は、貴滉にとって諸刃の剣だ。心に安らぎを与える分、傷を抉り大きくする可能性もある。 「俺が言いたいからに決まってるだろ……。お前は、俺にとってなくてはならない……」 「しん……り――っん!」  言いかけた貴滉の言葉を塞ぐように真吏の唇が重なった。何度交わしても飽くことのない口づけは、貴滉の強張った体を解き、眉間に寄った皺さえも消していく。 「行かせたくない……これが本音」  濡れた唇を触れ合わせたまま低く甘い声音で囁いた真吏に、貴滉の体温が一気に上がった。大きく跳ねた心臓は治まる気配がない。唇の輪郭をなぞる彼の舌先に呼吸が乱れていく。 「はぁ……あぁ……真吏、さん」  吐息交じりで彼の名を呼ぶと、嬉しそうに口角をあげる。長い長いキスは殺風景な部屋に甘く淫靡な空気を満たしていった。 「も……行き、ます」  顎を支えられたままで深く重なっていた唇が貴滉の掠れた声と共に離れていく。薄っすらと白くなり始めた空がカーテンの隙間から見えた。その光に互いを繋ぐ銀色の糸が輝き、撓みながら千切れていく。  その糸が真吏との別れを意味しているようで、貴滉は無意識に目を逸らしていた。 「これからは浅香じゃなく、俺から連絡する。いいか?」  彼の体が離れてくたびに二人の間に生まれた熱が徐々に冷えていく。寂しいと思う貴滉の指先に最後まで絡んでいた真吏の人差し指が離れた時、体の中で何かが動いた。  それまで忘れていた感情が長い眠りから覚めようとしていた。奥歯を食い縛ると鼻の奥にツンとする痛みを感 じる。 「――泣くなよ。俺以外の男の前で」 「俺、泣けませんからっ」 「今、泣きそうな顔してた……」  楽しげに覗き込んだ真吏から逃げるように、プイッと顔を背けた貴滉は身支度を整えるとドアへと足早に向かった。自分でもコントロール出来ない感情の出現に戸惑う。その顔を見られたくて、振り向きもせずにドアハンドルに手を掛けた。 「じゃあ、行ってきます」 「気をつけてな。俺は……そうだな、とりあえず浅香に連絡でもするか」  真吏の前向きな発言に弾かれるように振り返った貴滉を、彼は満面の笑みで迎えた。 「それ、絶対ですよ!」 「約束する……」  真剣な表情で頷いた彼を見て安堵した貴滉は、彼の気配を吹っ切るようにドアを開けた。  背後でドアが閉まった瞬間、貴滉はその場で足を止めた。自身の中にある大きく膨らんだ風船の空気が漏れるように真吏への想いが流れ出していく。抱えてきたものを曝け出し、素直に甘えることは難しい。でも、その心地よさを知ってしまった今、少しだけ……ほんの少しだけ、肩の力を抜いてもいいのかな――そう思った。  *****  ホテルを出た貴滉はすぐそばにある大通りまで歩いた。そこでならタクシーを拾えると思ったからだ。  早朝で人気がない街は静かで、冷えた空気が真吏との時間をより清らかなものに変えていく。  腕時計を見ながら道路を走る車に視線を移した時だった。 「朝帰りか? セックスは嫌いだとか言ってたくせに、ヤることはヤッてるんだな」  聞き覚えのある声――。まさか、こんな早朝、郊外の小さな町でこの声を聞くことはあり得ないと思った。  貴滉が恐る恐る声のした方に視線を向けると、そこには昨日と同じスーツを着た克臣の姿があった。 「克臣……。どうして、こんな所に……っ」  驚きと緊張で喉が詰まる。やっとのことで出た声は微かに震えていた。 「ホント、お前って分かりやすいよな。昨日、ちょっと浮かれた感じで帰ったからあとをつけてみたら、こんな所で逢引きとか……。相手は漆原だろ?」 「違う!」 「嘘だね。ホテルのバイトにちょっと握らせたらあっさり教えてくれた。マスコミから逃げた漆原、あのホテルにいるんだろ? それを知ってたお前は、ヤツに会いに来た……そうだろ?」  長身で筋肉質な体躯である克臣がゆっくりと間を詰めてくる。いつもは感じたことのなかったその迫力に、貴滉は恐怖で足が竦んだ。 「――さっき、SNSのタイムラインに書き込んでおいたから、マスコミがここに来るのも時間の問題だな。アイツらハイエナ並みに食いついてくるから」 「ど……して、そんなこと。まさか……漆原さんに対する誹謗中傷を書き込んだのもお前なのかっ」 「決まってんだろ。お前をアイツに渡したくないから。この前、お前宛てに電話を掛けてきた浅香ってヤツ。あれ、三年前の殺人事件の犯人の兄貴なんだってな。どっかで聞いた名字だと思ったぜ」  ゾクリと背筋に冷たいものが流れた。今、目の前にいる克臣は貴滉が知る彼ではなかった。  彼の告白はきっぱりと断った。だが、彼がこんなにも粘着質な性格だとは思ってもみなかった。尾行した挙句、朝まで貴滉がホテルから出てくるのを待ち伏せていた彼は一体……。 「克臣……。していいことと悪いことがあるだろっ! どうしてそんな真似を……」 「だからぁ! お前が欲しかっただけなんだって。あのクズ社長に熱上げてるの分かってたから、アイツさえいなくなればお前は俺を見てくれる……そうだろ?」  どこまで身勝手な言い分だろう。たった一言、克臣が書き込んだ中傷がいろんな人を巻きこんで拡がっていく。そして、書き込んだ人たちの知らないところで、傷つき死を考えた人がいたことを誰が気付いているだろう。  人の不幸は蜜の味――とはよく言ったもので、誰かが不幸になっていくのを楽しむ人たちがいる。だが、SNS上でのそういった行為は無自覚のまま拡がっていくことがほとんどで、書いた本人は時間の経過と共に忘れていく。  真吏の涙を見た貴滉は腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。 「克臣……。お前ってヤツは!」  拳を握りしめ怒りに身を震わせるも、当の本人はまったく悪びれた様子もなく貴滉を上から下まで舐めるように見つめている。 「――漆原に抱かれて、尻の穴もいい具合に解れているだろ? 俺が全部上書きしてやるよ……。お前は俺と番う運命なんだ」 「何を……言ってる? なんで克臣と……。お前、変だぞ! なんでそんなことっ」 「変? そりゃあ、変にもなる。可愛い顔したΩと四六時中一緒にいたら、誰でもヤりたいと思うだろ。所詮、Ωは性処理の道具と変わらないんだから」 「克臣……。それ、本気で言ってるのかっ」 「国から保護されているとはいえ、最下層の種族には違いない。セックスして子を産むことしか能がない、煩悩の塊みたいな存在。その欲望を満たしてやろうって言ってんのに、お前は俺の好意を無下にした」  頭を硬く大きなもので思い切り殴られたような衝撃が走った。いつでも貴滉の相談にのり、親身になってくれた克臣。Ω性であることを気遣い、種族特有の格差をもろともせず接してくれた彼の姿はそこにはなかった。  貴滉が今まで見ていたのは、獲物に近づくための仮の姿。表ではいい顔を見せていたが、裏では貴滉をモノにするチャンスを窺っていた偽善者。  震えが止まらない。信頼していた者から裏切られた瞬間、人間は思考を失う。  革靴の底を滑らせて近づく克臣から逃れようと足を踏み出すが思ったように動いてくれない。走っているつもりでも足が縺れて何度も転びそうになる。そんな貴滉を嘲笑うかのように、余裕の足どりで追いかけてきた克臣はついにその腕を掴んだ。 「離せっ!」 「可愛がってやる……」 「ふざけるなっ! 俺はお前なんかのセックスドールになんかならない……っ!」 「勘違いするなよ。セックスドールじゃない……番だ」 「冗談じゃない! 離せ! この手を離せっ!」  体格でも力でも克臣に勝てないのは分かっている。それでも貴滉は渾身の力を込めて暴れた。しかし、華奢な体はあっさりと太い腕に囲まれてしまった。  細い顎を大きくて無骨な手が掴みあげる。息苦しさに顔を顰めた貴滉に克臣が顔を近づけた。 「大人しくしていろ。あとで嫌ってほど啼かせてやる」 「ふ……ざける、なっ。こんな……マネし、て……許されると、思って……のかっ」 「何様のつもりだ? お前はβである俺よりも格下なの。そのへんを理解して口の利き方に気を付けるんだな」 「なっ! んふ――っ」  克臣の唇が貴滉の言葉を遮るように重なる。厚い舌が口内を撫で回し、激しく吸い上げる。真吏とはまるで違う節操もデリカシーの欠片もないキス。貴滉は嫌悪感に込み上げてくるものを堪えながら必死に抵抗を続けた。  呑みこむことを拒んだ彼の唾液が唇の端から溢れ出る。それを咎めるように克臣は貴滉の舌先に歯を立てた。 「うぅ! っぐ――ふ」  痛みに顔を歪めた貴滉の顎をさらに力強く拘束した克臣は、スラックスのポケットの中から小型のスプレーを取り出すと、それを貴滉の顔面に吹きかけた。 「いやっ! ゴホッ、ゴホッ! なに、これ……っ」  むせ返った拍子にその霧を思い切り吸い込んでしまった。すると、首を振った瞬間にぐらりと視界が大きく揺れた。 (え……何が起こったんだ?)  だんだんと思考が纏まらなくなり、急激な睡魔が貴滉を襲った。踏ん張っていた膝がカクンと折れ、体を真っ直ぐに保っていられない。 「即効性の睡眠薬。これ、なかなか手に入らなくて苦労したぜ」  克臣の下卑た笑いが遠くで聞こえる。その声にさらに苛立ちが増すが、体がいう事を聞いてくれない。何かに縋ろうとしても、そこには克臣の腕しかない。  掴みたい。絶対に嫌だ!  薄れていく意識の中で繰り返された葛藤は呆気なく決着がついた。貴滉は克臣の体に凭れるようにして、肩で息を繰り返す事しか出来なかった。 「ちゃ~んとベッドに寝かせてあげるから安心しろ」  克臣の香水の匂いがやけに鼻につく。今まで何とも思わなかったことが、ことごとく不快に感じられる。手を繋ぐことも、体を触れ合わせることも……。 「やだ……。ぜ……いに、いや……だ」  うわ言のように呟くが、貴滉の声は誰の耳にも届いていなかった。意識がだんだんと薄れ、瞼が自然と落ちてくる。眠ってはいけないと思えば思うほど、睡魔は容赦なく襲い掛かってきた。  不意に体がふわりと宙に浮いた。克臣の腕で抱き上げられたのだ。彼の鍛えられた体は、貴滉一人抱き上げるくらい造作のないことだった。  貴滉の耳に車のブレーキ音が聞こえた。そして、ドアが閉まる音を合図に彼の意識は完全に途絶えた。

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