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第1話

 満員電車に身体を潰され、早足でオフィス街を抜けて始業十分前に二年ほど通い続けている事務所に駆け込んだ。 「お早い出社ね、矢名瀬(やなせ)くん」  入るなり、俺への嫌味が飛んできた。課長の伊藤が奥の席からわざとらしく肘を撫でている。完璧にサイズが合った細身のパンツスーツに瞬きすると粉が飛びそうな化粧をした女だ。  時刻は定刻の三十分前。遅刻ではないが、入社三年以内の新人は早く来てやる気を見せるべし。というクソみたいな風習のせいで定刻の一時間前までに来ない新人の風当たりは強い。 「……はぁ、おはようございます」  曖昧に挨拶を返すと伊藤は露骨に嫌な顔をしたが、それ以上は言ってこなかった。パワハラやらブラック企業なんて言葉が強くなった今、風習はあくまで『自主的』が原則で、それを強要することができないからだ。代わりに伊藤は俺が自分の席に座るのを待ってから、大声で言った。 「二日連続同じスーツで出社するのはマナー違反よ」  痛いところを突かれて言葉に詰まった。新卒で入社して二年。同じスーツで出社したのは今日が初めてだ。それが言い訳になるとは思っていなかったが、こんなに責められるとも思っていなかった。周りの同僚の視線が痛い。 「私達はお客様に夢を売る仕事をしているの。その夢は決して安くはないわ」  不動産営業を夢を売ると表現する伊藤には吐き気がする。不動産は夢などではなく現実だ。それをまるで家を買ったら幸せになるとでも言いたげに営業を掛けて、顧客の借りられる限度額ギリギリまでローンを組ませる現実を夢などという言葉で片付けていいのか。俺は黙って、立ち上がる彼女を見返した。 「確かに二日連続で対応するお客様はいないかもしれない。でもね、そういう心構えは必ずお客様には伝わるの。分かる?」  その心構えとやらは、オーダースーツやハイブランドに身を包み、金持ちのふりをすることなんだろうか。あくまで主役は物件だ。営業は顧客の不快にならない程度の身なりに気をつけていれば、いい物件なら売れる。というのが俺の考え方だった。 「矢名瀬君、先月何件獲ったの?」  売れない営業マンへの伝家の宝刀が伊藤の口から飛び出した。この刀を抜かれたらあとに続くセリフは決まっている。 「このままで悔しいと思わないの?」 「会社はボランティア企業じゃないの」 「変わりたいと思うのなら、まずは習慣から変えないと」  入社して二年。一つ悟ったことがある。こいつらは「はい」と言わせるプロである。いくら一時間早く来てタダ働きすることが無駄だと思っても、従わないと『それらしい』言葉を並べてやり玉に上げられる。目を見開いて「そうでしょ?」と迫る伊藤に返す言葉が見つからない。 「君だってこの会社の一員なんだから」  借金さえなかったらこんな会社辞めてやる。  喉から出かかった言葉をなんとか飲み込むのとオフィスの扉が勢いよく開かれたのは同時だった。 「おはよう」  朝八時とは思えない快活な声が事務所全体に響いた。一八○センチの長身の男が扉から入ってきたところだった。 「淡路さん!」  伊藤が黄色い声を上げた。光沢のある紺のスーツに真紅のネクタイは遠目からでも金持ちだと分かる。先の尖った革靴とにギラつく高級時計は成金を通り越して下品とまで言えそうなコーディネートだが、鼻筋が通りくっきりとした顔立ちの彼にはそれがよく似合っていた。 「おはようございます!」  室内にいた営業マンたちが一斉に挨拶をした。無論、俺もその一人だ。  淡路(ひかる)。現場で圧倒的な成績を残し、三十代で部長まで上り詰めた成功者。給与、成績、カリスマ性、地位。彼は輝という名の通り若手が目指す星だ。  彼を見つめる若手たちの瞳は、尊敬と同時にいつか自分もああなりたいという願望できらめている。俺だってほんの少し前までは彼らと同じ目でこの男を見つめていた。  伊藤がフェロモンに吸い寄せられた雌犬の如く彼のもとへと寄っていく。 「そのスーツ、下ろしたてですよね。何かいいことがあったんですか?」 「さすが伊藤さん。よく気づくね」 「ええ。淡路さんが新しいスーツを卸す時は決まってサプライズがありますから」  深入りしようとする伊藤を笑顔でかわした淡路は、手をひとつ叩いて空気を変えた。 「みんな、少し早いけど朝礼を始めようか」  彼の隣でゴマを擦る伊藤に言ってやりたい。  昨日、俺はこの男を抱いたんだぜ、と。

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